中国史

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慕容延釗(ぼよう・えんしょう。909-968)

慕容延釗は太原のひとである。父・慕容章は襄州馬歩軍都校、開州刺史。慕容延釗は年少から勇猛果敢を以て知られた。漢の高祖(劉知遠)起こると周祖郭威はその佐命をなし、慕容延釗はその帳下に置かれた。周の広順初年、補西頭供奉官、さらに尚食副使、鉄騎都...
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石守信(せき・しゅしん。928-984)

石守信、開封浚儀の人。はじめ周祖に仕え、帳下に隷すを得る。広順のはじめ、累遷して親衛都虞候。世宗に従い晋陽を征し、高平で敵に遇い、力戦、遷せられて親衛左第一軍都校。師を還してのち鉄騎左右都校。淮南征伐に従軍、先鋒を為し、六合を下し、渦口に入...
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高懐徳(こう・かいとく。926-982)

高懐徳(こう・かいとく。926-982) 高懐徳は字を蔵用といい、真定・常山の人。後周の天平節度使・齎王こと高行周の息子である。高懐徳は平素から忠孝の念厚く、武芸は絶倫だったと記載される。高行周は延、潞二鎮および洛陽留守の任から宋州、毫州の...
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王審琦(おう・しんき。925-974)

王審琦は字を仲宝といいまして、遼西・・・地図年表に記載がないので正確な位置が分かりませんが・・・の生まれ。のち洛陽に移り住んだといいます。後漢の乾祐初年、周祖の帷下に隷し、その実直純謹をもっていたく親任されたのが経歴のはじめ。李守貞を平定す...
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劉錡

劉錡(りゅう・き。1198-1262)劉錡は字を信叔といい、徳順軍の人。濾川軍節度使・劉仲武の第九子である。儀状(容姿)美しく、射を善くし、怒鳴れば声は割れ鐘の如し。かつて仲武にしたがって征討し、牙門の水斛(水升)満ちるや箭をもってこれを射...
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成閔

成閔、字は居仁、邢州の人なり。靖康の初め、劉韐が眞定の師となり、兵士を募って金兵を防ぐと、成閔はその麾下となった。高宗即位するや、成閔は数百騎を領して揚州に至る。上と会して南に渡り、韓世忠が苗傳を追い、ウジュを襲い、范汝為を討つや、成閔はみ...
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解元

解元は字善長といい、保安軍徳清砦の人である。眉目秀麗の美丈夫にして猿臂、騎射を善くす。行伍より身を立て、清澗都虞候となった。建炎三年、大将・韓世忠の麾下に隷し、擢されて偏将。韓世忠は下邳から出て、金兵の大挙押し寄せるとの報せを聞くと士兵みな...
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張憲

張憲は岳飛の愛将なり。岳飛が曹成を破るに当たって、張憲と徐慶、王貴がその党二万を招降した。郝政なるもの有り、衆を将いて沅州に走り、首に白布を被って曹成の復讐を為さんとし、號して「白巾賊」。張憲一鼓してこれを擒う。 岳飛がまた張憲を随州に遣わ...
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楊再興

楊再興(よう・さいこう。?-一一四〇) 楊再興は賊曹成の将なり。紹興二年、岳飛が曹成を破り、莫邪関に入る。第五将韓順夫が鞍を外し甲を脱ぎ、虜の婦人に酒を饗さす。再興は衆を将いて直ちにその営に入り、官軍を退け、順夫を殺し、また岳飛の弟岳翻を殺...
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牛皐

牛皐(ぎゅう・こう。一〇八七-一一四七) 牛皐、字は伯遠、汝州魯山の人なり。はじめ射士となり、金人侵入すると牛皐は衆を聚めてこれと戦い、しばしば捷ち、西道総管翟興に表されて保義郎。杜充が東京留守となると、牛皐は賊楊進を魯山に討ち、三戦して三...