劉錡

劉錡(りゅう・き。1198-1262)
劉錡は字を信叔といい、徳順軍の人。濾川軍節度使・劉仲武の第九子である。儀状(容姿)美しく、射を善くし、怒鳴れば声は割れ鐘の如し。かつて仲武にしたがって征討し、牙門の水斛(水升)満ちるや箭をもってこれを射、箭を抜いて水を注ぎ、一矢をもってこれを窒し(満たし)したがえて、人その精なるに服した。

高宗即位するや仲武の後に錄され(取り立てられ)、劉錡召見を得、これを奇とされ、特に閣門宣賛舎人を授かり、差(兼官)して知岷州、隴右都護と為される。夏人と戦ってしばしば勝ち、夏人兒啼(夜泣き)して、しきりに恐れてこれを曰く「劉都護来!」と。張浚陝西の宣撫となるや一見してその才奇なりとし、もって涇原経略使兼知渭州。張浚は五路の師を合して富平を潰さんとするも、慕洧が慶陽をもって叛き、環州を攻める。張浚は劉錡に命じてこれを救わす。別将を渭の守りに留め、自ら将いて環を救う。まもなく、金、渭を攻め、劉錡は李彦琪を洧の捍(まも)りとし、親しく精鋭を率いて渭に還り救うも、既に及ぶところなく、進む退くべからずして、乃ち徳順軍に走る。李彦琪は遁げて渭に帰り、金に降る。劉錡は貶されて知緜州兼沿辺安撫。

 紹興三年復官し、宣撫司統制。金人が和尚原を攻め抜くや、すなわち陝、蜀の地を分守する。たまたま使者蜀より帰り、以て劉錡の名を聞く。召し還され、帯と機械を除かれ、ついで江東路復総管と為される。六年、権(仮)堤挙宿衛親軍。帝は平江に註するも、解潜、王彦両軍交戦し、ともに罷む。命により劉錡兼ねてこれを将いる。劉錡は因ってもって前護副軍及び馬軍を請い、通して前、後、左、右を為し、中軍と遊奕(遊軍)、すべて六軍、ことごとの軍に一千、十二将を為す。前護副軍は即ち王彦の八字軍也。ここにおいて劉錡初めてよく軍を為し、扈従して金陵に赴く。七年、師を合肥に。八年、京口を戌る。九年、擢されて果州団練使、神龍衛四廟都指揮使、主管侍衛馬軍司。

 十年、金人三京に帰り、東京副留守、節制軍馬を充てる。諸部の八字軍ようやく三万七千、将に発す。殿司(後宮の十二司の一)三千人を益し、みなその妻子を携え、将に汴に駐し、順昌の家に留まる。劉錡は臨安から江に訴えて淮に絶し、すべて二千二百里。渦口に至り、方食(食事のさなか)、暴風が坐帳を抜き、劉錡曰く「これ属の兆し、主に暴兵なり」すなわち下に令して兼程(昼夜兼行)して進み、いまだ至らずして、順昌から三百里で抵り、金人はたして盟(約)を敗って来侵す。

劉錡と将佐は憩いて水陸から行き、先に城中に入る。庚寅、諜報金人東京に入ると云う。知府事・陳規、劉錡に見えて計を問えば、劉錡曰く「城中糧有り。すなわち能く君とともに守る」陳規曰く「有米数万斛」劉錡曰く「可なり」時に部の鋒を選び、遊撃両軍および老稚輜重、猶遠くに相去らせ、騎を遣わしてこれをうながし、四鼓すなわち至る。旦報せを得るに及び、金騎すでに陣に入る。

 劉錡と陳規兵を斂して入城するを議し、守禦の計を為し、人心乃ち安ずる。諸将を召して将に事を計れば、皆曰く「金兵敵すべからざり、殿(しんがり)に精鋭を請うをもって、歩騎で遮りつつ老小順に流れ、江南に還るべし」劉錡曰く「吾赴くは本来官を司に留めるべし。今東京を失うと雖も、幸いにして全軍此処に至り、城あって守るべし。如何にしてこれを棄てるや? 吾が意已に決す、敢えて言うものは斬る!」ここに部将・許清、號して『夜叉』なるもの奮して曰く「太尉奉命して副、汴京を守れば、軍士を養い老幼をして連れ、今避けて走るは易き耳。しかるに父母妻子を棄てるは忍びなく、欲してこれとともに行く、則ち敵の翼をして攻め、何処に逃げるや? 互いにこれと努力一戦に如かず、死中において生を求めるなり」議して劉錡と合す。劉錡大いに喜び、船に鑿してこれを沈め、去る意なしを示す。寺のうちの家の奥、門に薪を積むと、戒めるものあって「脱するは不利有り、すなわちわが家を焚くは、敵の手に辱すなかるなり」命を分かって諸将に諸門を守らし、明けて斥候、土人を募って間探を為さしめる。ここにおいて軍士みな奮い、男子は戦守に備え、夫人は刀剣を研ぐ。争い呼して躍して曰く「平時わが八字軍人を欺くも、今日当に国家のために賊を破り功を立てん」

時に守備に恃むべしは一もなく、劉錡は城上において窮し自ら督励し、偽斉の痴が造るところの車を取り、環(輪轅)をもって城上に埋める。また民を戸扉に撤かせ、箱に周ってこれを隠す。城外の民家数千気は悉くこれを焚いた。全て六日にして粗畢し(ほぼ完成し)、しかして遊騎すでに穎河城下を渡り至る。壬寅、金人順昌を囲み、劉錡は予め城下に設けた伏を発し、千戸・阿黒ら二人を擒え、これを詰問し、謂うに「韓将軍白砂渦に営し、城から距離三十里」劉錡夜千余人を遣わしてこれを撃ち、連戦、殺虜頗る衆。すでにして三路都統・葛王、完顔褒が兵三万をもって、竜虎代王と兵を合して城に逼る。劉錡は令して諸門を開き、金人疑って敢えて近づかず。

はじめ、劉錡は城伝いに羊馬を養う垣を築き、垣に穴を開けて門と為す。これに至り、許清ら垣を蔽して陣を為し、金人縦に矢を射る。みな城の垣端より離れる者軼著し(著し)く、或いは垣上中止。劉錡は胡弓を破らんとして、神臂翼をもって強く弩を引き、城上の垣門から敵を射て、当たらざるなし。敵やや退く。また歩兵をもって迎撃し、河に溺れさせて殺すもの数えるべからず、鉄騎で破れる者数千。特に鼎州観察使、枢密副都承旨、沿淮制置使。

時に順昌が囲まれて已に四日、金兵ますます盛ん。乃ち砦を東の村に移して、距離二十里。劉錡は驍将・閻充に壮士五百人を募って、夜その営を斬らす。この夜、天は雨を欲し、電光四方に起こり、辮髪の者これを見てしきりにつきる。金兵退くこと十五里。劉錡はまた百人を募って往く。あるもの銜を食むを請うも、劉錡嗤いて曰く「枚もつ無し也り」と。命じて竹折らせ大呼させ、市井の児が戯れを為すものに如き、人を以て一持して號をなし、直ちに金営を犯す。雷電燭するところみな奮撃し、雷電止めば則ち隠れて動かず。敵衆大いに乱れる。百人の者は吹く声を聞いて即ち集まり、金人ますます測る能わず。終夜戦ってより広野に屍積み、軍は老婆湾に退く。

ウジュは汴に在ってこれを聞き、即ち縄を取って乗馬し、淮寧を過ぎて留まる事一宿、戦具を治め、糧を備え、七日をかけずして順昌に至る。劉錡ウジュの来るを聞き、城上に於いて諸将と会して策を問い、或いは謂う今已に屡勝ち、よろしくこの勢いに乗じ、全軍舟してしかして帰るべしと。劉錡曰く「朝廷は兵を養うこと十五年、まさに緩急の用を為す。いわんや已に賊の鋒を挫き、軍声わずかに振るう。衆寡均しからずと雖も、しかるに進むあって退がる無し。かつ敵営はなはだ近づき、しかるにウジュ又来る。吾軍一動すれば、彼その後に躍し、則ち前功ともに廃されん。敵に両淮を侵軼させ、江、浙を驚震させるは、則ち平生報国の志あろうと、反して誤国の罪なり」衆皆感動して奮を思い、曰く「これぞ太尉の命なり」と。

劉錡は曹成ら二人を募り、これに諭して曰く「汝を遣わして間を作し、事捷てば重く賞す。ついで我が言に如けば、敵必ず汝を殺さず。今汝を騎中の綽路(緩やかな路)に置き、汝敵に遇わば則ち偽って墜馬すれば、敵の得るところとならん。敵師我を如何なる人かと問えば、『太平辺師の子、伎声を喜び、朝廷は両国の講通をもって、東京を守り逸楽に図らせんのみ』」已にして二人果たして敵に遇い執われ、ウジュこれに問い、答えて前に如く。ウジュ喜びて曰く、「この城破るに易きのみ」すなわち鵝車に砲具を置かず用いず。翌日、劉錡は城に登り、遠く看て二人遠来、縄を上げて架け、すなわち曹成ら敵に枷して帰り、文書一巻繋ぎ枷してもって、劉錡の軍心懼れ惑わし、ここに焚を立てる。

ウジュ城下に至り、諸将を喪うを責める。衆皆曰く「南朝の用兵、昔の比に非ず。元帥城に臨んで自ら見られよ」劉錡は耿訓に約戦書をもって遣わし、ウジュ怒って曰く「劉錡なんぞ敢えて我と戦うか。吾が力を以て以てすれば爾の城破れん。直ちに尖靴を用いて躍り倒すのみ」耿訓曰く「太尉、ただ太子と戦うを請うに非ず、且つ謂う太子必ずあえて渡河せず、願わくば浮橋五カ所を献ず。渡りて大戦す」ウジュ曰く「諾」すなわち下令して翌日府治で会食し、夜明け、劉錡は果たして五個の浮橋を穎河上に為し、敵この由をもって渡る。

劉錡人を遣わして穎河上流の草中に毒を及ばせ、軍士に戒めて渇死すると雖も河水を得て飲む勿れと。飲むは夷その賊。敵は長勝軍を用いて陣厳にしてもって待ち、諸酋おのおの一部に居る。衆先を請うて韓将軍が撃つを請い、劉錡曰く「韓を撃退したと雖も、ウジュの精兵なお当たるべからず。まさに法に法ってまずウジュを撃つ。ウジュ一動すれば、則ち残余は為す能わず」

 時に天大暑、敵遠来して疲弊し、劉錡は士気暇を聞く。敵謀って夜甲を解かず、劉錡の軍みな番して休み更に垣下の羊馬を食らう。敵人の馬餓えて渇き、水草を食らうものしきりに病し、往々にして困り乏窮す。俄かに数千人をもって南門より出で、令に戒めて叫ぶなかれ、ただ以て鋭斧でこれを犯す。統制官・趙撙、韓直は身中に数矢中れども、戦って肯んぜず、士殊更死闘し、その陣に入り、刀斧乱下し、敵を大敗さす。この夕大雨降り、平地に水深きこと尺余。乙卯、ウジュは営を抜けて北に去り、劉錡兵を遣わしてこれを追い、使者万数。

 まさに大戦のとき、ウジュは白袍をまとって甲馬に乗り、牙兵三千を以て督戦し、兵みな重鎧甲をまとい、號して「鉄浮図」と。鉄兜を戴き、めぐりめぐらせ長く連ねて四方に垂れる。三人で伍を為し、韋索(鞣皮で作った縄)をもって連なり、ことごと進むこと一歩、即ちこれ馬を擁して用いるを拒み、人一歩を進み、馬を拒んでまた進み、退いてまた卻く。官軍槍を以てその甲を標に目指し行き、大斧でその臂を断ち、その首を砕く。敵又鉄騎を左右の翼に分かち、號して「拐子馬」。女真みなこれを為し、號して「長勝軍」、専ら堅攻をもって、戦たけなわ然る後これを用いる。兵を用いてより以来、向かうところ敵なし。此処に至り、劉錡の軍の殺すところと為し、戦い辰より申、敵を敗り、遽して馬を木でもって障りこれを拒み、僅かに休む。城上鼓の声絶たず、則ち飯に羹を出し、戦士坐して餉し平時の如く。敵披靡して敢えて近づかず。食已み、馬木を撤去し、敵陣に深入りし斬って、また大いにこれを破る。屍を棄て馬を斃し、血肉枕を為す。車旗器甲、山阜の如く積む。

 はじめ、河北に軍有って官軍に告げて曰く、「吾輩もとより是左護軍、本より闘志無く、両翼の拐子馬を殺すべきところ」故に劉錡兵力これを撃つ。ウジュ平日強者を以て恃むを為すも、損なうこと十中に七八、陳州に至り、しばしば諸将を罪し、韓常以下みな鞭を之し、すなわち衆を擁して汴に還る。捷ちを聞き、帝甚だ喜び、劉錡に武泰軍節度使、侍衛馬軍都虞候、知順昌府、沿淮節度使を授ける。

 この役より、劉錡の兵は二万に満たず、出戦わずか五千人。金兵数十万で征北に営し、亘ること十五里、毎暮、鼓の声山谷を震わし、しかるに営中讙譁(かまびすしく)、終夜声有り。金は人を遣わして城に近づき密かに聞き、城中粛然、犬声無難。ウジュの帳前に甲兵環を列し、燭を持ち夜を照らし、その衆分番して仮に馬上に寐す。劉錡は逸を以て労を待ち、故にもってしきりに勝つ。時に洪晧燕に在って密かに奏し、「順昌の捷、金人震え恐れて魄を喪い、燕の重宝珍器、ことごとく北に移す。意欲損ない燕の南に以てこれを棄てる」故に議者この時謂うに諸将協心し、分路追討せよと。すなわちウジュを擒うべく、汴京を復すべし。しかして王師還すに極まり、機械自ずから失し、良く惜しむべしなり。

 七月、命ぜられて淮北宣撫判官となり、副を楊沂中とし、太康県において敵を破る。まもなく、秦檜令を請うて沂中の師を鎮江に還させ、劉錡を大平州に還し、岳飛を以て兵を行在に赴かせ、出師の謀をやむなり。

 十一年、ウジュまた両河の兵を簽し、再び謀を挙ぐ。帝また測って敵情を知り、必ず一とせず已に遂に坐し、すなわち詔により大いに兵を合し淮西を以てこれを待つ。金人は廬、和二州を攻め、劉錡は太平より江を渡り、廬州に抵って張俊、沂中と会す。しかして敵已に大いに入り、劉錡東関の険に拠してもってその衝をとどめ、兵を引いて清渓に出で、二戦して皆勝つ。柘皐に行くに至り、金人と石梁河を夾み陣す。巣湖の河を通り、広さ二丈、劉錡は命じて薪を曳き畳を橋とし、須臾(わずかな間)にして成り、甲士数対を遣わして路橋に槍を伏せて坐す。沂中、王徳、田師中、張子蓋の軍と会し俱に至る。

 翌日、ウジュは鉄騎十万を分かって両隅を為し、道を夾んでしかして陣す。王徳その右隅に逼り、弓引いて射この一酋を斃し、因って太呼して馳せ撃ち、諸軍騒乱を為す。金人拐子馬をもって両翼而して進む。王徳衆を率いて鏖戦し、沂中万兵におのおの長斧を持たせこれを奮撃する。敵を大いに敗り、劉錡と王徳らこれを追い、また山東において敗る。敵遠くに臨んで曰く「これ順昌の旗幟也」すなわち退走す。

 劉錡和州に駐し、旨を得、すなわち兵を引いて江を渡り大平州に帰る。時に三師を並べて命じ、相せずして節制す。諸軍進退張俊多く出で、しかし劉錡順昌を以て捷ち驟かに貴く、諸将多くこれを妬む。張俊と沂中はともに腹心を為し、しかして劉錡と隙あり、故に柘皐の賞、劉錡の軍にひとりもなし。

 居すること数日、班師を議し、しかして濠州急を告げ、張俊と沂中、劉錡趨って黄連埠にこれを援く。距離濠から六十里、しかして南城すでに陥つ。沂中進戦を欲し、劉錡張俊に言いて曰く「もとより濠を救わんとし、今濠已に失す。師を退けて険に拠すに如き、徐に後図を為せ」諸将曰く「善し」三師鼎足して営し、或いは言う敵已に去る、劉錡また謂い、「敵の城を得て退拠するも、必ず謀有るなり、よろしく備えを厳にすべし」張俊従わず。沂中に命じて王徳とまさに神勇歩騎六万人、ただちに濠州に趨り、果たして伏兵に遇って還る。

 遅れて旦、劉錡の軍は藕塘に至り、則ち沂中の軍已めて滁州に入り、張俊の軍已めて宣化に入る。劉錡方食(食事の最中)、張俊至り、曰く「敵兵すでに近づく、如何?」劉錡曰く「楊宣撫の兵行在(帝の居場所)か?」張俊曰く「我利を失い還るなり」劉錡張俊に語りて「恐れる無し、劉錡歩卒を以て請い敵を御ぐ、宣撫試みにこれを観よ」劉錡の麾下みな曰く「両太師の軍已に渡り、我が軍なんぞ苦しんで独り闘うや?」劉錡曰く「順昌は孤城、赤子の助けを旁るなく、吾引っ提げる兵二万に満たず、猶勝ちを取るに足る。況や今地の利を得、また鋭卒有りや?」ついに三復を設けて以てこれを待つ。俄かにして張俊至り、曰く「諜者妄り也、すなわち戚方殿後の軍をなす(故に逃げられよ)」劉錡と張俊、ますます相わざるして下る。

 一夕、張俊の軍士劉錡の軍に縦に劫火し、劉錡十六人を擒え、槊上に梟首し余、皆逸す。劉錡張俊に見えると張俊怒って劉錡に謂いて曰く「我即ち宣撫を為す、汝即ち判官。なんぞ我が軍を得て斬るや?」劉錡曰く「宣撫の軍知らず、ただ斬るは砦を劫す賊のみ」張濬曰く「有る卒帰り、未だ嘗て砦を劫すを言わず」一人を呼びて出対す。劉錡正色として曰く「劉錡為すは国家の将帥、罪有らば宣撫当に朝に言え、豈得るや卒伍と対する事なるや?」長を収めて馬に登りて去る。已にみな班師し、張俊、沂中朝廷に還り、ことごとに岳飛の救援せずを言い、しかして劉錡の戦不足を言う。秦檜主として其れを説き、ついに宣撫判官を罷め、命じて知荊南府とする。岳飛は劉錡の掌る兵を留めるを奏し、許されず、詔によって武泰の節を提げ江州太平観に挙ぐ。

 劉錡は荊南に鎮することすべて六年、軍民これを安ず。魏良臣が劉錡の名将であるを言い、久しく閑するに当たらず。乃ち命して知潭州、大尉を加え、荊南府の師に復す。江陵県東に黄潭あり、建炎の間、有司水を決して江に入りもって盗を禦ぎ、このよしにより夏秋漲り満ちて荊、衡の間みな水患を被る。劉錡始めて命じてこれを塞ぎ、膏腴(あぶらづいた土地)を斥け、田数千畝。流民の自ら占める者幾千戸。詔により劉錡大礼に遇い文資により許し奏し、乃ちもってその甥劉汜を江東路兵馬副都監となす。

 三十一年、金主亮軍六十万を調(動員)し、自ら将いて南に来し、いよいよ望むこと数十里。銀壁に如くを断たず、中外大いに震う。時に宿将在るものなく、すなわちもって劉錡を江、淮、浙西節度使と為し、逐路軍馬を節制さす。八月、劉錡兵を引いて揚州に屯し、大将の旗鼓を建て、軍容甚だ粛、観る者嘆息す。兵を以て清河口に屯し、金人毛氈をもって船に糧を積みて来り、劉錡使いして善く沈行するものに鑿させその舟を沈ます。劉錡は楚州から召伯鎮に軍を退かせ、金人眞州を攻める。劉錡は兵を引いて揚州に還り、師・劉澤をもって城を守るべからず、請うて軍を瓜州に退かす。金の万戸・高景山揚州を攻め、劉錡は員琦を皂角林に遣わし、陥とし囲んで力戦、林の中に伏兵を発し、大いにこれを敗って景山を斬り、俘虜数百、捷を奏し、帝は金五百両、銀七百両をもって師を犒う。

 これより先、金人議して精兵を淮東に留め劉錡を禦ぎ、しかして重兵をもって淮西に入る。大将・王権は劉錡の節制に従わず、戦わずして潰。清河口より師を揚州に退け、舟を以て眞、楊の民を江の南に渡らせ、兵をとどめて瓜州に屯す。劉錡病を得、兵権を解くを求め、その甥劉汜をもって千五百人をとどめて瓜洲渡を塞ぎ、また李横に令して八千人を以て固守さす。詔下って劉錡は江を防ぐを専らにし、劉錡遂に鎮江に還る。

 十一月、金人瓜州を攻め、劉汜弓射をもって敵に克ちこれを退く。時に知枢密院事・葉義問、江、淮の詩を督して鎭江に至り、劉錡の病劇を見て、もって李横権(仮)に劉錡の軍を率いる。義問鎭江の兵を督し江を渡り、衆みな不可と以て為すを、義問これを強いる。劉汜出戦を固く請いうも、劉錡従わず。劉汜家廟を拝してしかして行う。金人重兵をもって瓜州に逼り、分兵して東の江五月に出、逆に瓜州に趨る。劉汜まず退き、李横孤軍当たる能わずをもって、また退き、その都統制の印を失し、左軍統制・魏友、後軍統制・王方ここに死す。李横、劉汜わずかに身を以て免ず。

 方々の諸軍江を渡って北し、劉錡人を遣わして黄、白幟を持たせて高山に登りこれを望み、これを戒めて曰く「賊至らば白幟を挙げ、合戦して二幟を挙げ、勝てば則ち黄幟を挙げよ」この日二幟挙がり、時こえて劉錡曰く「黄幟久しく挙がらず、我が軍殆ど失う」劉錡憤懣し、病益々甚だし。都督府参賛軍事・虞允文采石より来りて、舟師を督して金人と戦う。允文、鎭江を過ぎ、劉錡に謁して疾病を問う。劉錡は允分の手を執りて曰く「疾なんぞ必ず問うか。朝廷兵を養うこと三十年、一技を施さずして、しかして大功乃ち一儒生によらば、吾輩愧じて死すなり!」

 召されて門前に詣で、万壽観に提挙(軍事主管)し、劉錡仮に都亭(役所)の駅にこれ居る。金の聘使将に至り、留守・湯思退、おもむろに館してもって待つ。黄衣・劉錡を遣わされ別試院に居を移して諭す。劉錡、劉汜の己を煩わすを疑い、常に懼れるは命後に有り。三十二年閏二月、劉錡怒りを発し、喀血数升して卒す。開府儀同三司を追贈され、家に銀三百両、帛三百匹を賜る。後諡されて武穆。

 劉錡は慷慨沈毅、儒将の風有り。金主亮の南進に、下令され敢えて劉錡の姓名を謂う者、皆赦されず。南朝の諸将枚挙有り、その下敢えて当たり執るものを問い、皆姓名随いてその答え響くに如く。劉錡至り、応じる者有る莫し。金主曰く「吾もってこれに当たる」しかるに劉錡病を以て卒し成功能わず。世に傳う、劉錡陰陽の家行に通じ、師の避ける所に就く。劉錡は揚州に在って、命じて城外の居屋を悉く焚き、石灰を用いて白城の壁に書して曰く、「完顔亮ここにおいて死す」と。金主忌むところ多く、見てこれを悪み、ついに龜山に至り、人衆容れるべからず、もってここに変を致すを云う。

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