周亜夫(?-前143)
周亜夫は周勃の息子である。周勃死後、息子周勝之が後を継いだが、公主との結婚生活が不仲で殺人を犯し、死刑に処され国を除かれた。その翌年に文帝の選抜で引き立てられたのが周勃のもう一人の息子、賢者・河内守・周亜夫であった。
周亜夫は河内守の時、許負に人相を看られて「あなたは三年後には侯となるであろう。八年後には将と相を兼ね、国柄を掌って地位尊貴、人臣に唯一無二となるであろうが、九年後に餓死するであろう」と言われた。周亜夫は笑って「わが兄がすでに父の跡を継いで侯となっている。果たして兄が死にでもしない限りは私に継承されるものはない。どうして私が侯となれるであろうか? しかるにまたあなたが言うように尊貴に上るなら、どうして餓死しよう?」と言ったが、許負は真面目な顔で「まっすぐに進めば、自然餓死の道が待つ」と答えた。それから三年後、兄・絳侯・周勝之が罪を獲て処刑され、文帝が周勃の子から賢者を選抜し、みな周亜夫を推したので彼は條侯とされた。
文帝の後六年、匈奴が大いに南進。宗正・劉礼は将軍として覇上に駐し、祝玆侯・徐厲も将軍として棘門に駐した。河内守・周亜夫もまた将軍として細柳に駐し、胡人への防備を固めた。文帝は自ら親しく軍隊を慰問し、覇上と棘門では文帝は直接先駆が営中に入り、将以下官員に至るまで下馬してこれを迎えたが、細柳では軍中官兵は甲を脱がず、刀を磨き、弓弩を整備して弦を張り、天子の先駆至るも進ませず。先駆曰く「天子の来臨である!」というも、軍門都尉が「軍中に在っては将軍の命を聴き、天子の詔であっても訊かず」といったので、文帝至るもまた進めなかった。ここにおいて皇帝は持節をもって将軍に詔して曰く「吾軍を慰労するを欲す」と正式に請うたので、周亜夫はようやく営門を開いた。営門の将士は車騎に請うて曰く「将軍の規定で軍中を馬で走る能わずとの仰せです」と。それゆえ文帝は轡を按じてゆっくり進んだ。営中に至り、将軍周亜夫拱手して言うに「甲士は拝跪させることかないませぬ、我が軍礼なればお許し願いたく」と言ったので、文帝は怒るどころか非常に感動し顔色を改め、支えられて車に乗り、人を遣わして通告し「皇帝は将軍を慰労して恭敬された」と。礼儀を完遂してのち離れ、営門より出る。大臣らは文帝が機嫌を損ねたのではないかと非常に恐懼したが、文帝は「ああ、これこそ真の将軍なり! 覇上、棘門のごとくは児戯に如くのみ、必定襲撃を受けて虜となるであろう。亜夫のみが侵犯からよく守る可し!」といって長らく称賛した。一か月後、三軍撤廃。周亜夫は中尉を拝す。
文帝崩御の時、太子に告誡して曰く「果たして危急の難ある時は、周亜夫に将兵を任すべし」と。文帝崩じ、周亜夫は車騎将軍とされた。
孝景帝の三年、呉楚七王の乱。周亜夫は中尉の身分ながら太尉の職責を行使し、東に呉楚を撃つ。自ら上奏して請うて曰く「楚兵は剽悍にしてこれと鋭鋒を競うは難なり。願わくば梁をもって委ねられ、その食道を断ち、これを制すべしなり」皇帝これを許す。
周亜夫は出発し、覇上に至る。趙渉が周亜夫を遮って曰く「将軍東に呉楚を誅し、勝てば宗廟安らぎ、勝たざれば天下危うし、能く臣の言を用いられるや?」周亜夫は車を降り、礼を尽くしてこれに問う。趙渉曰く「呉王もとより富み、死士久しく懐かず。今将軍の赴くを知り、必定殽と黽の間の険阻に伏兵を設けるでしょう。かつ兵事上に神密、将軍なんぞ従わずしてこの右に去れば藍田を経過し、武関より出、雒陽に至り、時間一両日を過ぎることなく、直接武庫に侵入して鼓を撃ち鳴らすでしょう。諸侯これを聞き、もって将軍天に従いて降すなり」太尉その計に如く。雒陽に至り、吏を遣わして殽と黽の間を捜索させると、果たして呉の伏兵があった。ここで趙渉を護軍となす。
周亜夫至り、滎陽に兵を会す。呉はまさに梁を攻め、梁危急、救援を請う。周亜夫は兵を率いて東北は昌邑に走り、深く壁して守る。梁王の使者周亜夫に請い、周亜夫に状況を斟酌されたしと請うも、拒絶して去らず。梁王は景帝に上書し、景帝は詔を遣わして梁を救わせんとしたが、周亜夫は詔を奉らず、堅壁して出ず。しかして軽騎の弓高侯らを遣わして呉楚の兵の糧道を断つ。呉楚の兵は糧乏しく、飢え、撤退を欲し、しばしば挑戦するも周亜夫はついに出ることなし。夜、軍中に騒動が起き、内部互いに攻撃して騒乱し帳下に至るも、周亜夫は深く臥して起きず。朝に至ってまた定まる。呉軍は奔って東南隅の営塁に向かい、周亜夫はあえて西北隅の守備を譲る。久しからずして敵の精兵は果たして西北に向かうも、入るを得ず。呉楚すでに餓え、乃ち引いて去る。周亜夫は精兵を以て追撃し、大いに呉王・劉濞を破る。呉王は軍を棄て、壮士数千人を以て逃走、江南の丹徒に在って身を保った。漢兵は勝ちに乗じ、ついに悉くこれを虜とし、その県を降し呉王を千金で贖う。一か月後、越人が呉王の首を斬ったと報告あり、攻守すべて三か月で呉楚の乱は平らげられた。諸将はようやく太尉の計謀の正確を認めたが、ここにおいて梁の孝王と周亜夫の間に間隙が生じた。
帰ってまた太尉の官に復し、五年、丞相に昇遷。景帝は甚だこれを重んじたが、上が栗太子を廃そうとしたとき、周亜夫は堅くこれと争って得ず。皇上とはこれが原因で疎遠となる。しかるに梁孝王がことごとに来朝し、常に太后の耳に周亜夫の欠点を告げていった。
竇太后曰く「皇后の兄王信を侯と為すべしなり」と言えば、皇上譲って曰く「始め、南皮と章武に先帝封侯を置かざるなり、わたくしの即位におよび、乃ちこれを侯とし、王信いまだを封を得ずを封ずるなり」竇太后曰く「人生各々時を以て行うのみ。竇長君ありしとき、ついに侯に封ずるを得ず、死後、乃ちその長子竇彭祖顧みて侯を得る。吾はなはだこれを恨む。帝すぐに王信を侯となすべきなり!」景帝曰く「丞相に計を以て請いましょう」周亜夫曰く「高帝の規定により、劉氏にあらずば王と為さず、功労なくして侯に封ぜず、規定を遵守されぬのは天下人としていかがなものかとあります。今王信は皇后の兄と雖も功労なし、功に封じるには不適格と存じます」景帝黙り、しかしてこのこと止む。
その後匈奴王・徐廬ら五人が漢に降伏、景帝は彼らを侯に封じんと考えたが、周亜夫は「彼らは主に叛いて陛下に降り、陛下が之を侯に封ぜんとするは、すなわち何をもって守節の者に申し開くや?」と諌めた。景帝は「丞相の議用うべからず」と言って徐廬らを列侯に封じた。周亜夫はこれにより病と称して相の位を免じた。
まもなく皇帝は禁中から周亜夫に食を賜った。大きな肉の塊は切り分けられておらず、また箸すらおかれていなかった。周亜夫は心中不満なれどなお席に座って箸を取る。景帝はそれを見て笑い、「これ君の足らざるところに非ずや?」周亜夫は冠を免じて上に謝した。景帝曰く「起きよ」周亜夫は走って家から出、景帝を目で送りつつ、曰く「これ怏々、少主の臣に非ざるなり!」
それから間もなく、周亜夫の子が父のために工官から甲楯五百被を買い、もって陪葬の準備を整えた。雇われの工官はこれに苦しみ、給銭を横領した。雇官はその盗んだ金で県の官器を買い、怨みしかして皇上に変を告げた。ために周亜夫は汚職および謀反にの罪でとらわる。書を上呈するも皇帝は下吏に任せ、吏は周亜夫を問責したが周亜夫は答えなかった。皇帝は罵り、「吾用いざるなり」召して廷尉に詣でる。廷尉で問責されて曰く「君なにをもって反を欲するや?」周亜夫は「わたくしが機器を買ったのは乃ち葬祭の器とするため、何ぞ反することなどありましょうや?」吏曰く「君が縦にするは地上に反を欲さず、乃ち地下に反を欲するのみか」吏の追及これ益々急を増す。初め、吏は周亜夫を捕えれば周亜夫が自殺すると思ったが、その夫人がこれを止めた。ゆえに死を得るをせず。ついに廷尉に入り、食を断つこと五日にして吐血して死んだ。国を除かれる。
一年後、皇帝は改めて絳侯・周勃の爵位をもう一人の子・周堅に授け、平曲侯として絳侯をも継承させた。その子周建徳は太子太傅にまでなったが、祭祀に献ずる金の不足により免官され、のち罪を獲て国を除かれた。
周亜夫は果然として餓死した。死後、皇帝はすぐに王信を蓋侯に封じた。平帝の元始二年、封国の絶えるを惜しんで、周勃の玄孫の子、周恭を絳侯となし、食邑一千戸を授けた。
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