東漢-賈復

賈復(か・ふく。?―55)
 賈復は字を君文といい、南陽冠郡の人である。若くして学問を好み、≪尚書≫の大義に通暁した。師匠で舞陽の李生が、自分の門弟たちに謂うには、「賈君の容貌には非凡なものがある。また学問に勤勉であるから、いずれ将相を兼ねる人傑になるであろう。」と。王莽の末年、賈復は県掾という下級官吏職につき、河東に皇室が使う石盤(水滸伝で楊志が盗まれたアレ)を運ぶために赴いた。途上で盗賊に出会い、他の官吏は皆石を棄てて逃げる中、ただ一人で盗賊に挑みこれを打破して石を取り戻し、冠軍とされた。県の人々は賈復が命がけで信義を守る人物であるとして大いに称賛する。

 時に下江、新市で起義がおこり、賈復もまたこの風潮に乗って羽山で衆数百人を集め、自ら将軍を名乗る。更始が帝を称すと、賈復は衆を率いてこれに帰服し、漢中王・劉嘉に仕え、校尉に任ぜられた。賈復が見るに更始政権は政治が混乱しており、諸将は放縦。賈復は劉嘉に向かって湯王や武王、桓文公、六国や秦の建国の例を引き合いに出し、漢室の宗室と言う立場を利用するなら、立って大業を成すべしと説いたのだが、劉嘉には勇気が致命的に欠乏していたので、ここを去り河北の劉秀のもとに投じ、大業の実現と遠大な志を語った。

 賈復は柏人にあって劉秀を待ち構え、同じく南陽を郷とする鄧禹の推薦を受けて劉秀とまみえる。劉秀も偉人、一目で賈復の才能を十分に見抜いて賞賛し、鄧禹は賈復を称して将帥の節義あり、と論じた。これにより賈復は抜擢され、破虜将軍とされる。賈復の馬は痩せ衰えていて物の役に立ちそうもなかったので、劉秀は自らの副え馬を賈復に贈呈した。劉秀の属吏たちは賈復に対して同輩ながら傲慢であると不満を述べ、彼を任鄙尉に降格せよとの要求が上がる。劉秀はこれを拒絶し、自ら説くに「賈復には大将たるの才があり、これはわたしにとって重要かつ必要な人だ。彼を降格することはできない。」と。

 王郎が挙兵し劉秀が信都まで逃げたのち、賈復は変わらぬ忠誠を買われて偏将軍を拝す。王郎が平らげられたのち、昇進して都護将軍とされた。

 賈復は劉秀に従い野王の射犬聚で青犢を撃つ。晨に戦を始めて昼過ぎに至るも、青犢の軍は堅守して退転の意志を見せない。劉秀は伝令して賈復に「吏も士も非常に腹を空かせていることだと思う。ひとまずは昼食としよう。」と告げさせたが、賈復はこれに応答して曰く「敵を討ち破らぬ限り、再び飯を食うことなどありえぬ!」と叫んで旗を押し立て自ら陣の最前に出て、敵陣に突撃、向うところ披靡せざるはなく、一挙青犢を壊滅させる。諸将はこの戦いで賈復の勇猛を目の当たりにし、佩服したという。また、五校軍と真定に戦い、大いにこれを破る。賈復自身も重傷を負い、劉秀はそれを聞くや大いに慌て、名将を喪失することを恐れて言うに「我はこれを所以として今後賈復が単独で戦うのを許さぬ、なぜなら彼は敵を軽んじて危険を冒すからである。果たして言うが、我は名将を喪いたくないのだ。今賈復の妻は身ごもっているが、産まれた子が娘であった場合は我が息子に嫁させ、男児が生まれたなら我が娘を娶らせよう。賈復よ我に対して遠慮するなかれ」まもなく賈復は快癒し、薊城で劉秀と久しぶりに再会する。劉秀は頗る喜んだ。劉秀が自ら軍を率いて南に赤眉を撃つとき、あるいは青犢を撃つとき、その最先鋒には常に賈復が立ち、大いに敵を破った。

 劉秀が帝を称すると、賈復は執金吾、冠軍侯とされた。賈復は率先垂範して黄河を渡り、朱鮪を洛陽に攻めた。彼は立て続けに更始の白虎公・陳橋を破ったので、追われる陳橋は使いして漢軍に投降した。建武2年(26)、光武帝は賈復の食邑に穣、朝陽の二県を加増。そのとき、更始の郾王・尹尊らが南方に割拠しているので、光武帝は諸将を召してこれを討つの議を開いた。諸将誰一人発言せず、光武帝はしばし沈思の末地図を叩いて言った。「郾が最強、それに次いで宛であろう。だれがよくこれを撃つ?」と言えば、賈復は威勢よく「願わくばわたくしに郾を撃つ栄誉をお与えになられんことを」と叫んだ。光武帝は笑って、「執金吾が郾を撃つのなら、我はそれに加勢を出そう。大司馬(呉漢)は苑を撃つべし」これにより賈復と騎都尉・陰職、驍騎将軍・劉植は五社津から南に渡り、郾を撃ち、これを連破して勝ちを制す。一か月を過ぎたあたりで、尹尊は投降した。さらに賈復は東に更始の淮陽太守・暴汜を攻め、降し、淮陽の属県を悉く平定した。同年秋、賈復は南に召陵、新息を撃ち、これもみな平定した。

 建武3年(27)春、賈復は遷せられて左将軍となり、馮異及び諸将の軍と合同で新城、澠池間の赤眉軍を撃ち、またこれにも捷つ。光武帝と宜陽に会し、その後赤眉を追撃して降した。

 賈復は光武帝の征伐に随従して一度たりと敗北したことがなく、しばしば敵の囲みをついて脱出したため身に十余か所の傷があった。勇敢ながら孤軍敵中に深入りすること多く、このため光武帝はその征戦に賈復を出すことを控えたほどである。ただしその一面で光武帝は賈復の勇敢を頗る賞賛しており、親征にあたっては常に自分のそばに賈復を随行させた。賈復はほかの将軍たちに比して功績が少ないため、諸将たちは毎度自らの功を誇って見せたが、賈復は怒ることもなく悲しむでもなくただ黙っていた。そういう状況を知った光武帝はすぐにこう言って賈復を擁護したものである。「賈君の功績は、我が心中で無数にある。」と。

建武13年(37)、賈復は胶東侯に封ぜられ、郁秩、壮武、下密、観陽、即墨、梃の6県を食邑として与えられた。光武帝が全国を統一した後は思うところあり武を棄てて文を修め、つつましやかな更新として京師警護の兵を領した。賈復は光武帝の意志を了解し、右将軍・鄧禹とともに兵力の削減に務め、国学としての儒学普及にも心を砕いた。光武帝はそれらの行動を非常に讃嘆し、左右の将軍の官を置くことをやめた。賈復は列侯に帰せられて位を特進される。南陽の功臣・朱祜らの権勢家は賈復の推薦で世に出た宰相であり。光武帝が功臣を抑圧して斥け、文吏を登用することを決めて功臣たちを一律不用とした後も、賈復、鄧禹、李通という南陽から出た三人の功臣に関しては、光武帝との関わり深く最も厚い信頼を受け、功臣たちが悄然と引退していったのちも公卿として国家の大事に参与し、終生その地位は揺らぐことがなかった。

 建武31年(55)、病により没す。諡は“剛侯”。

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