東漢

中国史

東漢-耿純

耿純(?-37) 耿純は字を伯山といい、鉅鹿宋子の人である。父・耿艾は王莽の世で済平尹となった。耿純は長安に在って学問を求め、のち納言士とされた。 王莽が失政して更始帝が即位すると、舞陰王・李轍の招きで諸郡国は投降し、耿純の父・耿艾も投降し...
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東漢-耿弇

耿弇(こう・えん)耿弇(3~58)は東漢の有名な将軍であり、「雲台28人将」の一人である。 字は伯昭といい、 茂陵(現在は陝西省興平の北東)出身。 耿弇は河北を策定め、南陽を計略で定め、燕卒を集めて斉彊を征服し、東漢王朝建立時における不滅の...
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東漢-馮異

馮異(ふう・い。?-34) 馮異は字を公孫といい、潁川父城の人である。東漢中興の名将であり、“雲台二十八将”の一人でもある。 馮異は平素より読書を好み、‘左氏春秋’‘孫子の兵法’に通暁した。 馮異は若い頃王莽に仕え、地皇三年こと西暦二二年、...
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東漢-呉漢

呉漢(ご・かん。?-四四) 呉漢は東漢中興の名将、‘雲台二十八将’の一人。字は子顔。 南陽宛 (今川の南の南陽 )の人。能く征し善く戦い、変に当たって恐れを知らず、善く将士を激励する能に長け、常に敗戦を勝利に転じることが出来た。朝廷にあって...
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東漢-来歙

来歙は字を君叔といい、南陽新野の人である。生年は不詳、没年は西暦35年、東漢初期の著名な将帥である。 来歙は名門の出であり、祖父・来漢はすこぶる才知あって知られ、漢の武帝のとき光禄大夫となって、桜船将軍・楊朴の副将になった。出撃して南越およ...
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東漢-鄧禹

鄧禹(とう・う、2-58) 鄧禹、字は仲華、南陽新野の人である。彼は十三歳にして良く詩を賦すことができた。長安に赴いて学問を求め、そこでのちの光武帝、すなわち劉秀と出会う。劉秀は8歳年下のこの少年を侮ることなく対等に接し、刎頸の交わりを結ん...
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東漢-光武帝劉秀

後漢光武帝劉秀(前6-57) 後漢光武帝は姓は劉、名は秀といい、字は文叔、南陽蔡陽の人である。漢の高祖から9代の子孫であり、祖父の劉回は鉅鹿都尉、父、劉欽は南頓令を努めた。 劉秀は9歳で父を喪い、叔父・劉良のところで養われた。劉氏は当地の豪...