班超
班超は字を仲昇といい、扶風平陵の人であって徐の令・班彪の子である。人となり大志あり、細節を修めず。然るに内では孝順恭謹なれど、家にいては常の執務がつらく、栄辱を恥じる。彼は口を開けば猟読した書の傳を弁じた。永平五年、兄・班固が召されて校書郎となり、班超と母は随行して洛陽に至る。家は貧しく、班超は官府の抄書をもって供養したが、久しくの労苦についに筆を投げて曰く「ますらおとしてなんの志略もなく、なお当たるは傳介子、張騫。彼らのごとく異域に功を立て、もって侯に封ぜられるを取るべし。あによく筆を取る限り、それが成されることがあるか?」左右の者はみな笑ったが、班超は「小人どもに壮士の志がわかるものか!」こののちたまたま人相見に出会い、曰く「祭酒は布衣の書生ながら、しかして万里の外に当たって侯に封ぜられるであろう」と。班超はその状況を問うた。人相見は答えて曰く「虎の首に燕の顎を生やし、飛んでまた肉を喰らう。これ万里侯の相なり」まもなく、顕宗が班固に問うて「卿の弟はどうしているか」班固答えて「寫書の官を為して老母を養っております」というので、帝はすなわち班超を召して蘭台令史としたが、のち事に連坐して免官された。
十六年、奉車都尉・竇固が匈奴に出撃、班超は仮司馬として従軍し、別軍を率いて伊吾を撃ち、蒲類海に戦い、斬獲多数を獲て還る。竇固は彼の才幹を認め、従事の郭恂一同とともに西域に出使いし派遣した。
班超は鄯善に至り、鄯善王・広の手厚い歓待を受ける。しかしのち歓待が忽然としておろそかになり、怠るようになる。班超はその属官たちに曰く「ここのところ広の礼意が薄くなってはいないか? これは必定、北虜の使者が来たに違いなく、これは広が誰に帰順するか猶予ならない。頭の切れるものは気づいただろう、まだ事情は発芽していないが、いわんやすでに明らかである」そこで胡の侍従をだまして曰く「匈奴の使いが来てから数日になり、今どこに居る?」胡の侍従は倉皇として懼れ、実情を全て白状した。班超は胡侍従を拘束し、自ら三十六人の吏士を招集し、彼らと飲み、宴もたけなわ、激怒して曰く「卿らと我はともに絶域の地に在り、大功を立てるを欲し、もって富貴を求める。今虜の使い到来して数日、しかるに王・広は敬礼を即廃し、鄯善をもって我らを捕え匈奴に売らんとしている。そうなれば我らは骸骨まで豺狼に呑み食われるであろう。これをいかんとするや?」属官たちはみな「今は安危の地、死すも生すも司馬に従います」と吼えた。班超は此処で有名なセリフをかます。「虎穴に入らずんば虎児を得ず。今の計策は、ただ夜に乗じて匈奴の使者を火攻めにするのみ。彼らは我らの人数を知らず、必定驚き懼れるであろうから、もってこれを尽く滅ぼすべし。虜をここに滅ぼし、しかるのち鄯善を破り脅せば、功成り事なること疑いなし」衆が「それではこのことを商議致しましょう」というので班超は怒り、「吉凶は今決めたとおり。文俗に従事する吏は、これを聞けば必ず恐れ排泄を謀る。死して名を成すところ無くしてこそ、壮士ではないか!」衆曰く「善し」。初夜、遂に将吏は虜の営に奔って往った。たまたま天は大風、班超は十人に命じて鼓を持たせ、匈奴の営の後ろに隠れさせて約して曰く「火を見れば乃ち、みな鼓を鳴らし大呼せよ」と。余人尽く弩を構え門に伏せさす。班超は風に順じて放火し、前後鼓が喧噪を為す。虜衆驚き乱れ、班超は手ずから格闘して三人を殺し、吏兵たちが三十余級を斬り、余衆百余人をことごとく焼き殺した。翌日・郭恂が還ったので告げると、郭恂は大いに驚き、顔色動揺。班超はその意を知り、手を挙げて曰く「掾と雖も行わず、ただ班超一人の独断でよいものであろうか?」手柄を分けてもらえるとなると、郭恂はようやく喜んだ。班超はそこで鄯善王・広を召し、もって虜使の首を示すや、一国震撼。班超は暁諭通告して安撫し、ついに広の息子を人質に派遣させることを同意させる。帰って竇固に上奏すると、竇固は大いに喜び、班超の功労をつぶさに皇帝に告げ、併せて新たな西域への使臣に彼を推薦した。帝は班超の気節を嘉し、竇固に詔して曰く「班超に如く吏、何故遣わさずまた選せざるか? 今もって班超を軍司馬となし、前功の遂行を令す」班超はまた使いを受け、竇固に増兵を請うて「願わくば率いる衆三十余人で行くには足らず。いかでか不測、多くして過ぎることなし」と。
当時于寘王・広徳が新たに莎車を破り、雄を南道に張り、匈奴に使いを遣わしてその国を監護させた。班超は西に向かってのちまず于寘に至る。広徳は彼を礼遇する意はなはだおろそかであり、かつ土俗の巫を信じていた。巫言うに「神の怒り何故漢に向かうを欲するか? 漢の使いに浅黒き馬あり、急ぎ求めてこれを取り我に祭祀させよ」広徳はそこで使いを遣わし班超に馬を請う。班超はひそかにその内情を知っていたので、報いてこれを許し、しかして命じて巫に自ら馬を取りに来いと。まもなく巫至ると、班超は即時その首を斬ってもって広徳に送りつけ、併せて彼の怪異への耽溺を責めた。広徳は平素より聞く班超が鄯善に在って虜使を誅殺した人物であると知るや非常に恐慌をきたし、すぐさま匈奴の使者を攻め殺し班超に投降した。班超は広徳王の下属を重く賞し、ここに于寘の鎮撫は完了した。
当時、亀茲王・建は匈奴の立てるところとなり、彼は虜の威を恃んで北道に拠し、疏勒を攻め破ってその王を殺し、亀茲人・兜題を疏勒王に立てた。翌年春、班超はひそかに道をつたって疏勒に至り、兜題の居る槃藳城から去ること九十里、逆に使いの吏・田慮を遣わして先住民を降した。田慮の勅に曰く、「兜題はもとより疏勒の種にあらず、国人必ずこの命に従う必要なし。もしすぐに降らずば、これを獲えて便ずべし」田慮が至っても、兜題は田慮が年軽弱であるのを見てことさらに降らなかった。田慮はその備えなしを見るや、その前に至ってついに兜題を縛る。その不意を突かれて、左右の者は恐懼し奔走する。田慮は班超に馳せて報せ、班超は即時これに赴き、ことごとく疏勒の将吏を召し、もって亀茲の無道を説き、故王の兄の子・忠を王に立てたので、国人大いに喜んだ。忠および属官は皆兜題の殺害を請うたが、班超はこれを聞かず、もって威信を示すを欲し、赦してこれを遣わした。疏勒と亀茲の怨恨はここに結ばれる。
十八年、皇帝崩御。焉耆をもって中国大喪となり、これに乗じて都護・陳陸攻められ陥落。班超は孤立無援となり、亀茲、姑墨の兵発して疏勒を攻める。班超は盤稾城を守って疏勒王・忠と内外呼応、士兵も官吏も数は多くなかったが、一年以上堅持する。粛宗即位の初め、陳陸の近しく失陥したことにより、班超の自立能わずとみて詔を下し班超を召し戻す。班超が中原に還る出発の時、疏勒は国を挙げて憂い懼れた。疏勒都尉・黎弇曰く「漢は我らを放棄したるか、我ら必定また亀茲に滅ぼされるのみ。誠、漢使の去るを見るに忍びず」そして刀を以て自刎した。班超が還る途上、于寘に至ると、ここでも王侯以下号泣して「漢使に父母のごとく依っていたのです、誠去られるな」といって班超の馬の脚にしがみつき、進ませなかった。班超は于寘の言うことをついに聞かずして東に還ることを恐れ、また自分の心願の完成を願い、すなわち再び疏勒に還る。疏勒の両城は班超が去ってよりのち、また亀茲に降り、尉頭が連兵を為す。班超は叛族の徒を捕捉して斬殺すると、尉頭を撃破し六百余人を殺し、疏勒をまた安らげる。
建初三年、班超は疏勒、康居、于寘、拘彌の兵馬一万人をもって姑墨の石城を攻め、これを破り、斬首七百級を挙げる。班超は思いめぐらしてこの機会に諸国を平定せんとして、上疏して兵を請う。曰く「わたくしは先帝の西域開闢を思われるによって、北に匈奴を討ち、西辺に向かって外国へ派遣される使者となりました。鄯善、于寘を馬上に(戦で)帰順させ、如くに今拘彌、莎車、月氏、烏孫、康居また帰服を願い、ともに兵力を合わせて亀茲を滅ぼさんと欲し、これを平らげば漢道通じます。もし亀茲を得れば、則ち西域に未だ服さざる者は百分の一のみ。わたくしが伏してこれを考慮いたしますに、卒伍小吏、実に願うに谷吉より絶域にてがらを命ぜられるは、かの張騫といえども身を広野に棄てるようなこと。昔、魏絳が列国大夫となってなおよく諸戎と和して還ったことを思えば、況やわたくしは大漢の威を奉じ、鉛刀を使わずして多少の功を用うべきでしょうか? 前代の議者はみな三十六国を奪い取れと説き、号して匈奴の右臂を断つべしと。今西域諸国、日の沈むところ帰順せざるはなく、上下高興、貢奉絶えることなし。ただあるは焉耆、亀茲なお未だ服従せず。わたくしは以前属官三十六人とともに奉命し辺遠の地に出使いたしましたが、備えに遭って漢難険阻。疏勒が独立孤守してより今に至るも五年、胡夷の状況、わたくし頗るこれを知るものであります。問うにその城郭の大小、皆いうに『漢に倚るは天に依るも同じ』これをもってこれをてがらとし、則ち葱領を通るべし、葱領を通って則ち亀茲を伐つべし。今よろしく拝すは亀茲の侍子・白覇その国王となり、歩騎数百をもって護送され、諸国と連兵し、その多を使い切ること能わず、亀茲禽うべし。夷狄を以て夷狄を撃つ、これ計の善なるものであります。わたくしが見るに莎車、疏勒は田地広く肥え、草牧豊饒なこと敦煌、鄯善とは比べられず、兵馬は中国の糧草を費やさずとももって自足するに足ります。しかるに姑墨、温宿の二王はどちらも特に亀茲によって立てられ、その種に非ず、更に厭苦相すれば、その勢必ず叛逆して降るでしょう。もし二国来降すれば、すなわち亀茲みずから破れるも同然。願わくばわたくしに章書を下され、行事の参考となされんことを。誠有らば機会万分、死すとも何を恨みましょうや。わたくし班超は区々として一人、特に神霊を蒙り、わたしの希望はいまだ便して辺彊に仆れず、西域の平定を目に見ること。陛下におかれましては万年の盃をお挙げになられ、勛功を祖廟に薦められ、天下に大喜事を布告されんことを」
書奏を受けて帝はその功の成すべしを知り、商議して彼に欲するところの兵を給わる。平陵の人・徐幹は平素より班超と志を同じうし、上疏して奮身、班超の佐となるを願う。五年、ついに徐幹は仮司馬となり、刑罰を解かれたものおよび義士千余人を従えて班超のもとに投じる。
まず莎車は漢兵動かざるをもってついにやむなく亀茲に降り、しかして疏勒都尉・番辰また叛く。たまたま徐幹ここに至り、班超は徐幹とともに番辰を撃って大いにこれを破り、斬首千余級、生け捕り甚だ多くを得る。班超は番辰を打ち破ったのち、亀茲に侵攻するを欲した。烏孫の兵は精強であり、その力を借りようと思って上奏し曰く「烏孫は大国、兵は十万。武帝の公主を妻にめとり、孝宣皇帝の時に至ってようやくその用いるところを得る。今使いを遣わして招慰し、これと合力すべし」帝これを容れる。八年、班超は将兵長史を拝し、鼓笛隊を給わる。徐幹はもって軍司馬となり、別に衛侯・李邑を護送して烏孫の使者とし、大小沢山の錦帛を賜る。
李邑ははじめ于寘に至り、ただちに亀茲へ疏勒から進行を仕掛けようとしたが、彼は懼れて敢えて先に進めず、上書して西域の功績完成はならず、また彼が憚りなく愛妻を抱き愛子を抱くことを誹謗中傷し、国外で安楽を享受し国内の事を顧みないと陳べた。班超はこれを聞いて嘆息し、「わが身は曾参にあらず、しかして再三の讒言に遭うも、懼れ見て疑う当時においてもや」と言って遂に妻と別離した。帝は班超の忠義に感じ李邑を切責して曰く「班超の愛妻を擁し愛子を抱くは、思うに帰るの士千余人、なんぞ班超と同心ならずや?」令して李邑を班超に詣らせ節度を受けさせる。詔に班超曰く「いかでか李邑の能は職の外、もはや残して従事すべし」班超はそこで李邑を烏孫の侍子に遣わし、そのまま京師に還す。徐幹が班超に謂いて「李邑は以前あなたの家族を毀し、西域に敗北を欲しました。今なんぞきっちりと詔命に従うことなくこれを住まわせ留め、派遣するなら別の官吏を侍子に送るべきだったのでは?」班超は怒って「何を言うか浅薄なり! 李邑が班超を毀す、故に今これを遣わすのだ。内に省みること止まざれば、必定別人同じ憂いを為さん! ご機嫌でこれを留めるようでは、忠臣とはいえぬ」
翌年、皇帝はまた仮司馬・和恭ら四人に兵八百を率いさせ、班超の下を詣でさせた。班超は疏勒で徴発し、于寘の兵を以て莎車を撃つ。莎車はひそかに疏勒王・忠と通じ、重利をもって彼を誘惑したので、忠は遂に叛いてこれに随い、西に烏即城を保った。班超はそこで府丞・成大を疏勒王に立て、その叛かなかったものを尽く発して忠を攻めさせた。半年が過ぎ、康居が精兵を以て忠を救援したので、班超はこれを攻め降すことが困難になった。当時月氏が康居と通婚しており、相互に近親な関係にあったので、班超は使いを遣わして多量の錦帛を月氏王に送り、康居王に忠の救援を辞めさせるよう請うた。康居王はそれで兵を止め、忠を置いて自らの国に還ったので、烏即城は遂にようやく班超に降った。
こののち三年、忠は康居王を説いて兵を借り、還って損中に拠し、ひそかに亀茲と謀って、使いを遣わし偽って班超に降る。班超は内心彼らの奸計を知りつつ表面的には彼らに同意して見せた。忠は大いに喜び、即時軽騎を従えて班超を詣でた。班超はひそかに兵を勒してこれを待ち、併せて宴席を設け音楽を奏す。宴もたけなわとなったところで一喝して吏に忠を縛らせ、これを斬る。ついでにその衆をことごとく破り、殺すこと700余、ここにおいて南道が開ける。
翌年、班超は于寘諸国から兵二万五千を徴発し、また莎車を撃った。亀茲王は左将軍を遣わし、さらに温宿、姑墨、尉頭の兵を合して五万人でこれを救う。班超は将校と于寘王を召して商議し、「今兵少なく敵しえず、思うに各自を散去させるに如くはなし。于寘はこれより東に向かい、長史はまた西に還り、須らく夜鼓の音を聞いて発するべし」彼はひそかに木のまばらなところから部下を逃がした。亀茲王はこれを聞いて大喜びし、自ら万騎をもって西の界に班超を遮り、温宿王に八千騎を与えて東の界に于寘王を追わせた。班超は二虜がすでに出発したことを知るやひそかに各部の兵馬を招集し、鶏鳴、馳せて莎車の営に躍り込み、胡が大いに驚き奔走するのを追って斬首五千余級を挙げ、大いにその馬畜財物を獲得した。莎車は遂に降り、亀茲らやむなく退散し、これにより威は西域を震わす。
初め、月氏は漢の幇助を受けて車師を撃って功あり、この年より珍宝や獅子をもって貢ぎ奉り、併せて漢の公主を娶らんと請うた。班超がこれを拒絶して使者を還したため、ここに班超への怨みが結ばれる。永元二年、月氏はその副王・謝に将兵七万をあずけて班超を攻めさせた。班超の衆が少ないのでみな大いに懼れたが、班超は軍士に譬えて曰く「月氏は兵が多いと言っても、数千里を隔てた葱領からきて、補給もなく、なにを憂うことがあろうか? ただ穀物を収めて堅守すれば、彼らは勝手に飢えて降る。数十日とせずに勝敗は決するであろう」謝の先鋒が班超を攻めたが下せず、また掠略しようとするも得るところなし。班超はその糧が尽きれば必ず亀茲に救いを求めるとみて、兵数百を東界の要地に派遣した。果たして謝は金銀珠玉をもって亀茲への賄賂としようとしたが、班超の伏兵に遭って道を遮られ、使者尽く殺され、生き残った使者は謝の首を以て降伏の意を示さんとした。謝は大いに驚き、すぐさま新たな使者を派遣して罪を請い、生還を希った。班超は彼を放して帰り、月氏はこのよしをもって大いに震撼し、毎年の貢納と礼品を欠かさなくなった。
翌年、亀茲、姑墨、温宿みな投降し、朝廷は班超を西域都護に、徐幹を長史に任じた。朝廷はまた白覇を亀茲王となし、司馬・姚光にこれを護送させたが、班超と姚光はともに白覇を脅して亀茲の廃王・尤利多を立て、姚光は尤利多をつれて京師に詣でた。班超は亀茲の它乾城に拠し、徐幹は疏勒に屯す。西域の反抗勢力はただ焉耆、危須、尉犁の以前都護が殺害された時期に戻り、二心を抱くのはそれだけで、それ以外は悉く平定された。
六年秋、班超は遂に亀茲、鄯善など八国七万、および吏氏賈客千四百を徴発して亀茲を発し、焉耆を討つ。兵は尉犁の界に到り、使いを遣わし焉耆、危須、尉犁に暁諭して曰く「都護が来たのは三国を鎮撫するためである。いかでか改めて善に従事し、よろしく大人の前に人を遣わして応接せよ、賞賜王侯の下、事おわれば即ち還る。今王の織物五百匹を賜らん」焉耆王・広はその左将・北鞬支に牛酒をもって班超を迎え奉らせた。班超は北鞬支を詰って曰く「汝は匈奴の侍子と雖も、国家の大権を掌握しているのであろうに。都護が自らやってきたというのに王みずからは迎えに出ぬのか。これみな汝の罪である」ある人が班超にこれを殺すべしと説いたが、班超は「汝らの考慮及ぶところではない。彼は権力王に匹敵し、今未だ入らぬその国にしてこれを殺しては、ついに焉耆は疑い深くなり、険要の地に拠って防備を固めるであろう。豈得て到るはその城下かな!」ここにおいて賜りものを授け、これを遣わす。焉耆王・広はすなわち大人として班超を尉犁との界に迎え、珍物を奉献した。
焉耆の国には葦橋という険処があり、広はこの橋の梁を断ち漢軍の入国を阻もうとした。班超たちは改めて別方面から水を渡って渡河し、七月の晦日、焉耆に到達、城から去ること二十里の沢中に大営を築いた。広は不意に出られて大いに慌て、そこで焉耆の国の人を尽く山中に入らせて自国を保とうとした。焉耆の左侯・元孟はかつて京師に人質に送られていた経歴を持ち、ひそかに使いを遣わして班超に事を告げたが、班超は即時これを斬って不信の相を示した。ここにおいて班超は期日を約して諸国の王と大いに会し、声を揚げてまさに重く賞賜を加えるとしたので、焉耆王・広、尉犁王・汎および北鞬支ら三十人は相次いで班超を詣でた。焉耆の国相・腹久ら十七人は誅殺を恐れて海上に亡命し、また危須王もまた班超を詣でなかった。諸王の座が定まると、班超は広に怒り詰って「危須王はなぜ至らぬ? 腹久らはなぜ逃げた?」といって吏士に命じて広、汎らを押収させ、陳陸の故城にあってかれらを殺し、その首級を京師に送った。ついで兵士を放ち、斬首五千余級、俘虜一万五千人、馬匹牧畜牛羊三十余万頭を獲得し、改めて元孟を焉耆王に立てる。班超は焉耆に留まる事半年、これを慰撫し、ここにおいて西域五十余国は悉く朝廷に貢納し人質を送った。
翌年、詔が下って曰く「以前は匈奴が西域を独占して河西を侵犯し、永平末年、城門は昼でも閉ざしていなければならなかった。先帝は辺域の百姓が蒙る侵害に深く深く同情され、すなわち将帥に命じて河右の地を撃たしめ、白山を占め、蒲類に到り、車師を攻め取らせて、城郭諸国は震撼饗応、遂に西域は開け、都護を置く。然るに焉耆王・舜、舜の子忠はただ一人謀劇叛逆し、地勢の険要に依り、都護を覆滅し暴虐吏士に及ぶ。先帝は百姓の命を重んぜられ、兵役を興すを憚り、ゆえに軍司馬・班超を派遣して于寘以西に駐軍さす。班超は遂に葱領を超え、県度に到達し、出入りすること二十二年、西域諸国に帰順せざるなし。改めてその王を立て、人民を緩やかに安定させる。中国を動かさず、戎士を煩わさずして、遠く夷の和を得、異俗の心を同じうし、しかるに天誅を致し、かつての恥辱をそそぎ、もって将士の仇に報いる。『司馬法』に曰く“賞は月を跨がず、欲する人に疾く与えるを為すが善の利なり”と」それゆえに班超を定遠侯となし、食邑千戸をあたえる。
班超は絶域にあって久しく、年を取って郷土の土を思うようになった。十二年、上疏して曰く「わたくしが聞きまするに太公望は斉に封ぜられても五代みな周に葬られ、狐は死んでも郷里の丘に首を向け、郷里を想うの念あり。周と斉とはともに中原に在りと雖も千里を隔て、なおかつ周に回葬せらると。況や何ぞ遠く絶域にあり、わたくしめに郷里を想うの念なく、首を丘に向けずと思われるか? 蛮夷の風俗、壮年ならまだしも老年に至っては畏れるのみ。わたくし班超という犬馬の歯は滅び、常に年を経るを恐れ、忽然仆れれば孤独の魂損棄されるのみ。昔蘓武が匈奴の中にあったのすら尚十九年、今わたくしは幸いを得て奉節の金銀を帯びて西域を護り、自ら如くを以て屯戌に寿命を終えれば、誠に恨むところなく、ただ恐れるは後世に西域の名臣として忘れられんことを。わたくしはあえて酒泉郡の奢を望まず、ただ願うは生きて玉門関をくぐらんことを。わたくしは年老い病を得衰弱し、胡の言の中に死を冒すのでしょうか。謹んでわが子班勇を献上物とともに入塞させまする。及ぶにわたくしが生きて在るうちに、令するは班勇よ父の目に再び中原の土を見せんことを」班超の妹で同郡の曹寿の妻、班昭もまた班超の中原帰服を請うた(班超自身の言葉でないので割愛)ので、皇帝は感動し心動かされ、ここに班超の回京を許した。
班超は西域にあること三十一年。十四年八月、洛陽に至り、射声校尉を拝す。班超はもとより胸に病を抱えていたが、此処に至って病篤くなる。帝は中黄門を派遣して慰問すると同時に医薬を賜ったが、同年九月卒した。享年七十一歳。朝廷は彼を憐れみ惜しみ、使者を遣わして礼祭を催し、多大な礼品を追贈した。子の班雄が後を継ぐ。
班超に代わって戊己校尉の任尚が都護となる。任尚は班超と交代するに当たり、「君侯は外国にあること三十余年、しかるにわたくしのごときが君侯の代わりを務められるものでしょうか。任務は重くして慮るは浅く、願わくば西域平定のことをご教示あれ」班超曰く「私は年老いて知恵衰えた。任君はしばしば重任に当たり、よく班超によく及ぶとも! もし誰かに話すことがあるとすれば、愚言を呈してもよいだろうか。塞外の吏士はもとより孝子順孫ではない、皆罪をもって辺屯に過ごすものである。また蛮夷は鳥獣の心に懐き、その心を養うは難く毀すは易い。今君は性厳急であるが、水太清なれば大魚なし、察せずば下とまつりごとを得ず。よろしく弛緩してまつりごとを簡易にし、小過に寛容で当たって大綱を総攬すべしだ」班超が去ったのち、任尚は近親の者に曰く「わたしは班君がもっと奇策を以て当たっていたのかと思たが、今聞くところによれば平平凡凡だ」しかし任尚の赴任数年で西域には反乱が起こり、彼はその罪で召し返せられた。班超の戒めを軽んじた結果であった。
班超には三人の息子があった。長子・班雄は累遷して屯騎校尉となり、羌族が叛いて三輔を犯したとき、班雄は召されて五営の兵を率いて長安に屯し、のち京兆尹を拝した。班雄が死ぬとその子・班始が後を継ぎ、清河孝王の娘・陰城公主を妻にめとる。公主は順帝の姑であり、権勢をほしいままにして驕横淫乱、寵愛を授けた男と同じ帳中に居した。班始が召されて入ると男がベッドの下に入っていたので、班始は怒り積り、永建五年、遂に抜刀して公主を殺した。帝は大いに怒り、班始を腰斬に処してその一家を皆棄市に処した。班超の一番下の息子が班勇であり、彼もまた西域の名将として知られる。

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