東漢-鄧禹

鄧禹(とう・う、2-58)
 鄧禹、字は仲華、南陽新野の人である。彼は十三歳にして良く詩を賦すことができた。長安に赴いて学問を求め、そこでのちの光武帝、すなわち劉秀と出会う。劉秀は8歳年下のこの少年を侮ることなく対等に接し、刎頸の交わりを結んだ。

 更始が南陽にて帝を称すと、当地の豪族の多くは参謀として鄧禹を推挙した。こういう風に推挙されるあたり、一種の天才児と見られていたらしい。しかし鄧禹は更始信ずるに足らずと思い、更始の下で官途に就くことを拒絶した。まもなく鄧禹は劉秀が河北の地を転戦し、州郡を慰撫していることを聞く。すなわち黄河を北に渡り、鄴城にて劉秀と再会を果たす。実に昆陽の戦いが終わって間もなくのことだった。劉秀は鄧禹の来訪を甚だ喜び、彼に問うて曰く「わたしは今命を奉じ権限を授かって北上しているゆえ、君を官吏として登用することができる。君が遠来ここまでやってきたのは、果たして官に着くという打算ゆえか?」と。鄧禹応えて「違いますよ。わたしは貴方なら天下を統一することができると見る。此処にやってきたのはほかでもない、それを手伝って功名を竹帛に垂れ(歴史に名を残し)たいがためです」劉秀は鄧禹のこの言葉を聞いて大言壮語に驚き、かつ喜んでともに笑った。彼らは同じ部屋に宿を取り、談笑を続けたという。鄧禹は言う。「更始帝は長安に都するといえども、ただ関東の状況をよろしくすることができず、赤眉、青犢らの諸軍その数数万を跋扈させて為すところがありません。三輔の豪傑が現れて漢の宗室の旗を立てぬ限り、彼ら賊衆はいよいよ増すことでしょう。更始は各地の武装集団を圧倒しているように見えますが、実情その政権には絶対権威を求めた配下たちが内紛を起こしており、しかも彼らは凡庸の輩にすぎません。彼らは貪欲に財物を求め、一時の快男児を気取っていますが、更始にはそもそも報じ奉られるだけのカリスマ性が欠けており、百姓を安撫し長らく政権を保つことは不可能でしょう。更始政権は実のところ難局にあります。実際問題天下は四分五裂しており、形勢を見るのは容易きこと。あなた様は更始の建国のために輔弼の功をお建てですが、きゃつらは取るに足らぬもの、自立なさいませ。今日この策略を採納なされるなら、四方の英雄を収攬し、もって民の争いの種をなくし、漢の高祖以来の大業(すなわち新たな王朝の開闢)を成し遂げて天下万民の苦難を除けるでありましょう。あなた様に天下を統一する力があるということ、わたくしは信じて毫たりと疑いません」劉秀はこれを聞いて感得するところあり、鄧禹の興奮を汲んで、以後部下たちの前で彼を称して“鄧将軍”と呼ぶ。劉秀と鄧禹はそののちも同室で起居し、ともに軍政の大計について語り合った。

 更始元年(23)12月、劉秀が河北に到達してから2か月後、邯鄲の占い師・王郎が漢の宗室劉林の裔を自称して策を弄し、自ら成帝の子・劉子輿の名を冒して反逆、自ら天子を称した。王郎が部下の将帥を発すればこれに幽州、冀州の郡県が呼応。劉秀は河北に一足を保つこともでき気ない状況に陥ちいり、鄧禹と馮異だけを頼りに薊城から南下、一路周章して奔逃し、一路信都に向かい、信都の太守、任光の支持を得てなんとか安息を得る。劉秀はここで鄧禹を派遣して募兵し、数千の兵を得ると鄧禹自身にこれを率いさせる。鄧禹はならばと戦い、即刻楽陽を落として机上の空論を論じるだけの書生でないところを見せてのける。しかるのち、劉秀に従い広野の戦いで王郎の横野将軍・劉奉を撃破。劉秀が鄧禹の陣営を見舞うと、鄧禹はあぶった魚を献じて勝利を祝った。劉秀は晩餐の後鄧禹麾下の将士を勉励し、その姿まさしく威厳あり魅力あり、将士たち口々に言いて曰く「劉公はまさに天から降りてこられた神人のようだ」と。

 劉秀は広阿城にあって楼上に宿泊し、鄧禹に向かって言うに「天下に郡国はかくも多いのに、我らが領すると言えば信都一つだ。あなたは以前わたしがよく天下を獲れるといったが、はたしてどうであろうか?」鄧禹応えて「今、天下は大いに乱れ、人民は英邁にして頼れること慈母の如き君主を求めております。古くから帝王の成功の要因はその徳業であって、領地の大小ではありませんよ」と述べた。かく言う鄧禹、実にまだ数えで22歳に過ぎぬ。恐るべき頭脳の明晰である。劉秀はこの言葉を聞いて感得するところ十分、大いに発奮した。

 当時、劉秀が将帥を任用する際には、必ず鄧禹の意見を聞いた。鄧禹が推薦する人物、また彼は有能であると太鼓判を押す人物は、劉秀の目から見てもやはり十分優秀な人物ばかりであった。

 劉秀は突撃騎兵隊一隊を鄧禹に授け、蓋延らとともに銅馬軍を攻めさせた。両軍は清陽にて遭遇、交戦し、蓋延らの諸軍は先陣を切って突撃したが敗戦の苦汁をなめ、退いて清陽城を守ると銅馬軍に城を囲まれる。これまで兵士を温存していた鄧禹がここで出陣して銅馬軍と大いに戦い、これを破り、大将を擒える。ついで鄧禹は劉秀を追う形で銅馬相手に連戦、蒲陽で連戦して大捷。幽、冀州の平定事業はここに完了される。

 赤眉の大軍が西に関中を攻め、劉秀が計るところ更始は必ず赤眉の前に敗れるであろうと。計算通り更始軍は敗北し、要衝、関中を取られた。しかるに彼は関東で軍雄と激戦を繰り広げた直後だったので、一時身を逃れる。劉秀の見るところ諸将の中で鄧禹は最も慎重であり、また最も先を見透かしているので、適任と思って鄧禹に西征の重任を与える。鄧禹は前将軍を拝し持節を授かり、部下の精兵2万が授けられる。また鄧禹自身に副将を選ばせた。韓歆が軍師とされ、李文、馮愔ら9人があるいは幕僚として、あるいは将軍として選抜され、いよいよ西征の旅に出る。

 建武元年(25)正月、鄧禹は連戦すること十日、箕関を攻め落とし、輜重幾千余輌を得て、さらに河東に入って安邑を囲むが、しかし数か月して抜けず。同年6月、更始の大将軍・樊参が数万人を率いて鄧禹と解に戦い、大敗して戦死した。しかし更始の将軍・王匡、成丹、劉均らは総勢10万をもって合し鄧禹を攻めたので、鄧禹は不利な状況に陥る。天が晩の色に変わる頃、双方は暫時休戦。鄧禹の軍師・韓歆と諸将は勝ちを得るのは難しいので夜に乗じての撤退を鄧禹に進めたが、鄧禹はそれを不是として拒絶した。対するに六甲占卜法を信奉する王匡は二日目癸亥の日が六甲に謂う窮日であると占い、王匡らは絶好のチャンスであるにもかかわらずこの日の出戦を肯んじず、ために鄧禹の軍隊は休み軍内を整理し意気を新たにする機会を得た。三日目早晨、王匡らは全軍出動、対するに鄧禹は発起して攻めに出る。とはいえ鄧禹の命令いきわたって軍中に軽挙妄動するもの無く、王匡ら諸軍が漢軍の営下に逼るのを待ち、鄧禹はようやくの機会を掴んで撥で鼓を叩き、諸将に一斉出撃を命ずる。結果は鄧禹の大勝。王匡らは軍を棄てて奔逃し、鄧禹は勝ちに乗じて軍を進め、一挙に河東を平定した。

 当時劉秀が河北で帝を称し、夏陽に侵入。更始の将・公孫歙は10万の大軍を率い、三輔の一たる左馮翊の兵とともに鄧禹の軍を拒む。双方は衙県で戦い、鄧禹はまた公孫歙を撃破し潰走させる。このまさに同じとき、赤眉が長安に攻め入った。三輔どころか百姓も帰るところなく、彼らは鄧禹がしばしば戦って連戦連勝であり、かつ軍規が厳明であることを聞きつけ、老いも若きも鄧禹のもとに奔り、降るもの連日に数千、鄧禹の軍勢は一挙に拡大し、100万の衆を号すことになったがこれはあながち誇張でもない。ただし戦闘力を持ち兵士として戦える人間は精々10万といったところであろうが。鄧禹は投降した百姓らを慰撫して安心させ、老人や児童のためには私財をはたいて快適な生活を保障したので、関西一帯に鄧禹の名は轟き振るう。光武帝は詔を下し、鄧禹の功績を表彰した。

 鄧禹麾下の諸将および三輔の豪傑らは、みなこの大兵力を以て一鼓長安を抜き奪回すべしと主張、しかし鄧禹は数こそ多くなったと雖も、その中で真性に戦えるものは赤眉に比べてきわめて少なく、この人数を養うための糧草も十分ではなく今は好機ではないと述べる。対するに赤眉は長安を占拠して財物充実し、士気まさに旺盛であり、この鋭鋒に当たるべきではないと。かくて彼は長安以北に兵を屯し、上郡、北地、安定の三郡から穀物、牧畜、飼葉なとどを略奪して赤眉の内乱を待ち、再び進んで長安を取る。さらに彼は軍を進めて殉(正しくは木編)邑に駐す。

 光武帝が見るに関中は今だ平定されておらず、まもなく鄧禹が再出馬と相成る。が、光武帝には焦りがあり、詔を下して鄧禹に急ぎの進軍を催促した。鄧禹は己をしっかりと持ち、分隊の武将を遣わして上郡諸県を攻め、収谷に兵を征し、しかる後軍を移して北地大要に進み、別将・宗歆、馮愔らに殉邑を守らせたが、宗歆、馮愔は互いに権を争い衝突が発生し、馮愔が宗歆を殺し、また鄧禹に叛いて反逆の軍を起こした。鄧禹が使者を送って光武帝に向かいこのことを告げると、光武帝は使者に問うて「誰か馮愔と親しい者はいないか?」と。使者答えるに「護軍の黄防がおります」。光武帝はそこで計り、馮愔と黄防をして和睦させるのは難しく、いきおい必ず矛盾が発生するであろうから、鄧禹への回信に「最終的に馮愔を擒えさえすれば、必ず黄防は保身に走るであろう」と。同時に尚書・宗広に持節を持たせて遣わし、降らせる。数か月の後、黄防は果然として馮愔を逮捕し、軍を率い漢の使い(宗広)に向かって謝罪した。更始の諸将・王匡、胡殷らも、相次いで宗広に投降する。

 建武2年(26)春、光武帝は改めて鄧禹を梁侯に封じ、食邑4県を与えた。当時赤眉は西の扶風に奔っていたので、鄧禹は南下して長安城外、昆明池にて将士を慰労し、自ら訓戒を垂れ、吉日を選んで高祖劉邦を祭祀し、将帥11人を派遣して歴代漢帝の位牌を洛陽に送った。

 鄧禹は延岑と藍田で戦い、不利。退いて雲陽を守る。その間に更始の漢中王劉嘉は鄧禹に投降した。漢の中国相・李宝は鄧禹に対して頗る傲慢に振る舞ったので、鄧禹はこれを斬刑に処した。李宝の弟で李宝の部衆を受け継いだ人物(名不明)は鄧禹を攻めたが、鄧禹の将・耿欣によって斬られる。馮愔反逆の以降、鄧禹の威望はやや下降線を描き始め、加えて糧食が乏しくなり、鄧禹に帰服していた軍民が漸々離散していく。まもなく、赤眉は再び盛り返して長安を奪回、鄧禹の軍は無力にして抵抗すること能わず、撤退して高陵に逃れるが、その軍士は飢餓にさいなまれ、棗や果実を取って飢えをしのいだ。光武帝は鄧禹を召し班帥(軍を還すこと)を命じた。挫折知らずの名将が経験した初めての挫折であった。

 鄧禹は功なくして還った前回の恥辱を胸に、しばしば餓えまだ癒えぬ軍隊を率いて出戦するも、再び敗北。建武3年(27)、鄧禹と車騎将軍・鄧弘は兵を合して赤眉を撃ち、赤眉は敗北、輜重を棄てて退く。鄧禹の兵は輜重車の上の食糧を奪い合い、浅ましく争って十分に飢えを満たす。赤眉が猶もしぶとく反攻に出ると鄧広の軍は大乱となったが、鄧禹と征西大将軍・馮異は一鼓敵を抜き、鄧広の軍を救って敵を敗走させる。馮異が見るに漢軍は疲労の極にあり、いったん休ませるべきであると言われるが、鄧禹はこれを拒絶。鄧禹はさらに赤眉を壊滅させるため大いに戦うが、かつてない惨敗を喫し、死傷者3000余を出し、鄧禹自身24騎の親兵に守られて落ち延びるという始末であった。

 この戦役の失敗後、鄧禹は辞任して大司徒の位につくことを迫られるが、数か月後、光武帝より右将軍に任ぜられ汚名挽回のチャンスを与えられる。建武4年(28)春、鄧禹と鄧曄は諸将を従えて延岑と鄧、武当の地にてにて戦い、これを連破して挽回を果たす。延岑は漢中に逃げ込み、ついに赤眉は全面降伏した。

 建武13年(37)、光武帝は全国を統一する。更新には食邑が加増され、鄧禹は高密侯として高密、淳于、昌安、夷安の4県を授かり、光武帝の功臣、建武28将のうちの筆頭とされる。弟、鄧寛も明親侯とされた。

 東漢の統一戦争において、功臣たちは将軍として各軍を領し、多くは京師洛陽に屯した。戦争終結後、光武帝の希望は功臣たちの将軍職を解いて有名無実、彼らの領兵権を剥奪することであった。将軍たちが任を解かれて途方に暮れるそんな中、大司徒・鄧禹と左将軍・賈復だけは光武帝の意図を正しくくみ取って率先して将軍職を辞し、大臣として朝廷に奉じ、軍国の大事に参与し続けた。

 明帝即位の後、鄧禹は光武朝筆頭功臣として特殊な身分に置かれ、大傳を拝し、皇帝の後見人的立場として尊貴の地位に登った。しかし約一年半ののち、病を患う。明帝はしばしば家まで看護に訪れたが、甲斐なく永平元年(58)、病逝。享年58歳であり、若死にのようではあるが当時としては十分に長生きしたと言えるのかもしれない。諡は元侯。

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