臧宮(ぞう・きゅう)
臧宮、字は君翁。潁川郟県の人である。若いころは亭長、遊徼。のち賓客を率いて下江に入り、校尉となる。光武帝の征戦に随い、諸将は大いにその勇敢であることを称賛した。劉秀は臧宮が謹直、言葉少ないことを観察して、彼を近くに置いた。河北に至り、偏将軍に遷す。劉秀が各所の賊兵を攻めるのに従い、しばしば敵の堅陣を陥とした。
光武帝登極するや臧宮は侍中、騎都尉とされた。建武二年、成安侯に封ぜられる。翌年、精鋭たる騎兵と征虜将軍・祭遵とともに涅陽、酈県にあって更始帝の将領・左防、韋顔を攻め、これを悉く投降させる。建武五年、光武帝は太中大夫、持節を遣わし、臧宮は輔威将軍を拝した。七年、期思侯に。梁郡、済陰を撃ってこれをみな平らぐ。
十一年、兵を率いて中廬に至り、駱越に屯す。このとき公孫述の将・田戎、任満と征南将軍・岑彭が荊州で戦う。岑彭は戦闘に利あらず、駱越の人はこぞって蜀に帰順した。臧宮は兵少なく、局面を変化させる力量がなかった。たまたま属県から輜重車百数乗が委送されてきたので、臧宮は夜使いを遣わして城門を鋸で断ち、大声を挙げて城門に至り、暁までにこれを運び入れた。駱越人の耳には車を運び入れる声が断たれず、門檻を断ち、漢兵大いに到ると告げた。彼は渠帥として牛肉と酒をふるまい、軍営の勞を労った。臧宮は牛を屠殺し酒を準備し、駱越の人々を招待し慰撫したので、駱越の人々はようやく帰順を思いとどまったという。
臧宮は岑彭らと荊門を破り、兵を分かって垂鵲山に至り、路を開いて秭帰から江州に至る。岑彭は巴郡を攻め下し、臧宮に降兵五万を統領させ、涪水より平曲に上がらしめる。公孫術の将・延岑は沈水において兵盛ん、時に臧宮の兵は多く糧少なく、糧至らず、降兵たちはみな離反を考え、郡邑で兵を聚めて自らを保たんとしたので、これを見て成敗した。臧宮が軍を還そうとしたところ恐れた降兵たちは兵を集わせて反攻する。光武帝は謁者を遣わして岑彭の将兵に詣で、馬七百匹をもって臧宮の援軍に充てた。臧宮は假に聖旨を奉じて補充兵を自己の軍に充て、日夜進軍、多くの旌旗を押し立てて、山に登り鼓を鳴らして叫び声をあげ、右辺は歩兵、左辺は騎兵として、船隻が向かってくるのを迎撃、吶喊の声は山谷を震わす。延岑は漢兵がやってくるとは思っておらず、山の上に突然漢兵が現れたのを見て恐慌、臧宮はこの機に乗じて追撃し、大いに延岑を破る。殺傷したもの一万余にのぼり、河水は死体で濁った。延岑は成都に逃げ帰ったが、彼の部隊は全員投降した、兵馬珍宝の悉くを奪われる。この勝利に乗じて臧宮はさらに追撃し、投降十万余を獲た。
軍が平陽郷に至るや、蜀将・王元衆を挙げて降る。進んで綿竹を抜き、涪城に捷ち、公孫述の弟・公孫恢を殺し、また繁県、郫県に克つ。前後して節五つ、印綬千八百を得る。このとき大司馬・呉漢がまた勝ちに乗じて営を進め成都に逼る。臧宮は大城を屠殺し、兵馬旌旗甚だ盛ん、乗じて兵を小雒郭門に入れ、成都城下を経て、呉漢の営至り、大いに酒を飲み宴を会す。呉漢はこれを見て甚だ歎じ、臧宮に謂いて曰く「将軍来たりし時賊兵城下を経、軍威揚々、風行雷電の如し。しかるに窮寇の難を量り、願わくば営を還して別路これを追いたまえ」臧宮は聴かず、元来た道を帰ったため賊の残党に遭うことがなかった。進軍して咸門に入り、呉漢とともに公孫述を滅ぼす。
光武帝はようやくに蜀を平定すると、臧宮をもって廣漢太守に任じた。建武十三年、食邑を加増され鄼侯とされる。十五年、京師に召されて還り、列侯とともに奉朝する身分となり、朗陵侯に封ぜられる。十八年、太中大夫を拝す。
建武十九年、妖巫・維汜の弟子・単臣、傳鎮らが、妖言をもって衆を聚め、原武城に侵入、官吏を擒えて将軍を自称する。ここにおいて臧宮は北軍および黎陽営を率い、数千人でこれを囲む。賊は糧多く、攻め下すこと難で士卒死傷。光武帝は公卿諸侯王に計画を問い、皆いうに「宜しく重くその賞を贖わせん」と。時に顕宗こと東海王、一人これに対し、「妖巫は互いに牽制しあい、勢力は一時の物であります。其の部衆には必ず後悔して逃げだす者が現れるでしょう。よろしく城外からこれを囲み緊迫の勢を為せば、闘争已む。逃走を許せば一亭長をもってこれを擒えるに足る」と。光武帝これを然りとし、臧宮に包囲を緩めさせるよう指示、賊衆は分散し、ついに単臣、傳鎮らを斬る。臧宮は還ると遷せられて城門校尉。また転じて左中郎将。のち武谿の賊を撃ち、江陵に至り、これを降す。
臧宮は謹慎にして朴訥、ゆえにその都度任用された。のち匈奴が飢餓と疫病を振り撒き、互いに争ったとき、光武帝はこれを拿捕する方策を臧宮に問うた。臧宮言うに「願わくばわたくしに騎兵五千人を授けてくだされば、功績を立てて見せましょう」と。光武帝は笑って「勝敗は常に勝ちを得ることができるとは限らぬ。敵の策略に遭って敗北し、難事に遭うこと少なからず。我は自分の過去のことを思ってそう言うのである」。建武二十七年、臧宮は楊虚侯・馬武とともに上表して曰く「匈奴は貪婪に利を貪り、礼儀信用に足らず、窮すれば稽首(降服)するも安息すれば侵盗す。辺縁に被害毒痛を与え、中原を突いて憂いを為さんばかり。虜は今人畜を疫死させ、旱蝗の禍一寸の草も生えず、万里に死を命ず、陛下この県にあられませ。福は再来せず、時あるいは易失、あによく固守し文を徳として武を棄てよと言われるか? 今まさに塞に臨み、厚く県に賞を贖うべし。高句麗、烏桓、鮮卑たちに告げて匈奴を左から攻めさせて河西四郡を発させ、天水、隴右の羌、胡に右から攻めさせましょう。これにより、北虜の滅、数年は過ぎますまい。臣が恐れるは陛下が仁恩不忍の心持ち、謀臣と狐疑し、万世刻石の功を聖世において立てざることを。」対して詔下り、「『黄石公記』曰く、柔よく剛を制す、弱よく強を制すと。柔者とは徳者であり、剛者は賊である。弱者は仁によって助けられ、強者は帰りに怨みを受けるものなり。ゆえにいう徳者の君、ゆえに人々の楽々を願うにして、無徳の君はゆえに個人の楽を求める身である。使別の人は他人の快楽を望んで長久、使自己の人は快活にして間もなく滅亡す。謀を棄てて近遠、労苦して功名を致さず、謀略を棄てずば安逸にして結果あり。安逸の政治は忠心多く出て、労碌の政治は乱臣多く出る。ゆえに曰く務め広きは地を荒らす者、務め広きは強き徳者。自己を満足させるところの人心安逸を得、貪を図るは他人の東西殃いに遭う。残酷暴虐の政治、すなわち逞しゅうして必定失敗す。今国家は政治の友好に非ず、災害変乱停むことなく、百姓驚き慌て、自らを保つ能わず、しかしてまた遠きこと辺外を撃つや? 孔子は言う、『わたしは季叔の憂いを畏れない、顓臾に非ざるものに過ぎぬのだから』と。かつ北狄はなお強く、屯田警備伝聞の事、失敗に終わること多しと。まことによく天下の半ばを挙げて大寇を滅せんと請うも、あに願い至らざりし。果たして時機不成熟にして、百姓には休息を与えるに如かず」これより諸将に敢えてまた兵事を語るものなし。
臧宮は永平元年卒、諡は愍侯。子の臧信が嗣ぐ。臧信没後、子の臧震が嗣ぐ。臧震死後、子の臧松が嗣ぐ。元初四年、母と別居して封国を除かれる。永寧元年、鄧太后により臧松の弟臧由、朗陵侯とされる。

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