馮異(ふう・い。?-34)
馮異は字を公孫といい、潁川父城の人である。東漢中興の名将であり、“雲台二十八将”の一人でもある。
馮異は平素より読書を好み、‘左氏春秋’‘孫子の兵法’に通暁した。
馮異は若い頃王莽に仕え、地皇三年こと西暦二二年、劉縯と劉秀が兵を起こすと、馮異は郡掾の身分で五県を監し、父城の長苗萌に従い劉秀に抵抗した。
劉秀は潁川に進軍して父城を攻撃したが下せず、中車郷に兵を屯す。馮異は出て属県を巡撫し、漢軍に擒われるところとなる。馮異の堂兄馮孝がと同郷の丁綝、呂晏都が共同で馮異のことを推薦したので、劉秀は彼を召して引見し、自らに降るよう求め請うた。馮異は劉秀に対し「私は軍中にあって一個人に過ぎず、貴方様の大きな助けとなることは出来ません。まして、私にはまだ城中に老母がいるのです。ゆえに城に還り、ただあなたのために五城に据して、徳に報い手柄と致しましょう」劉秀はこれに同意し、馮異を解放した。
馮異は城に還り、苗萌に対して「現在天下は紛々としており、格路の将帥はたいてい雑草のようなもので横暴無道に台頭しております。ただ劉秀の軍だけは治軍厳正、民衆を苦しめることなく、彼の挙措言動を観るに決して平凡ではありません。帰順するべきであります」
苗萌は言った。「この瀬戸際である。私たちの生死もすべて、あなたに委ねよう」
まもなく、劉秀は軍を率いて南の宛に帰り、前後して更始帝は十数名の将領を以て父城を攻めた。馮異は城邑を堅守し、決して投降せず。のち劉秀が司隷校尉に昇進し、再度父城にやってきた。馮異はそこで大いに城門を開き、牛肉と酒を献上して彼の到来を歓迎した。劉秀は馮異を主簿に任じ、苗萌を従事とした。馮異はまた同郷人の姚期、叔寿、段建、左隆等を推薦した。劉秀は彼らを一律掾吏に任じ、彼らを従えて洛陽に帰った。
更始帝は劉秀を河北巡行に派遣し、諸将皆同意せず。時に曹竟は左丞相となり、彼の子曹翊は尚書、父子ともに顕貴であり、当朝に用をなす。馮異は劉秀に勧めて彼らと結びつきを深めるよう勧め、のち、曹氏父子に懇請する。更始帝は劉秀に節を持たせて河を渡らせ、河北諸郡を鎮撫させた。
王莽の地皇四年こと二十三年六月、劉秀の兄劉縯が更始帝により殺される。涼州は表面上敢えて悲惜の情を露見させず、飲食談笑平素通りだったが、心の中では非常に痛惜して、一人でいると酒も肉も喉を通らず、顔を埋めて泣き涙で枕を濡らした。馮異はひとり劉秀に拝謁し、彼を慰め、哀切の彼に乗じ勧めて曰く、
「天下の民衆は王莽の圧政に倦み、早く漢王朝が再興されんことを望んでおりますが、今更始帝の部将は放縦にして暴虐、至る所で掠奪を繰り返し、民衆ははなはだ失望し、依るべき処を得られず苦しんでおります。貴方様が重権を握られたからには、地方で命に専念し、その間広く恩義を施すべし。桀紂の乱政にあって湯王武王が現れたように、人々は久しく英俊に飢えており、これを満足させるのは容易。この計を果たすに当たり、あなたは快く派遣されて郡県を巡行し、清き理を以て冤を結び、広く恩沢を施すべし。すれば自然、天下の心を得るでしょう」
劉秀はこの建議を採納し、一途河北に発ち、馮異と姚期を先触れとして郡県を撫循してまわった。馮異らは至る所で冤罪の囚人を釈放し、衆寡の民を撫恤し、亡命者をとがめず。とある二千石の長吏はひそかに彼らと心を同じくして帰服を願い、しかるのち劉秀は彼の名を名簿に記して報いた。
更始元年こと二十三年十二月、王郎が集を集めてことを起こし、邯鄲で帝を称した。薊中各地は紛々として彼に呼応し、劉秀は部卒を率いて疾風のように逃げねばならなかった。当時形勢はまさしく危急、劉秀朝から夜までかけて城邑にたどり着くも入城できず、道中そばをすすって逃げ続けた。河北の無萎亭にたどり着いたとき、空は寒冷、として北風凜々、皆餓え渇き疲労困憊し、その態名状すべからず。馮異は劉秀に温かい豆がゆを差し出した。翌日早晨、劉秀は諸将に向かい「昨日馮異に食べさせてもらったかゆおかげで、飢餓も寒さも一掃された」
部隊は南宮地方に進み、ここで天は大雨、劉秀は道端の空き家に避難し、馮異が薪を取ってきて鄧禹がそれに火をつけ、劉秀の服をあぶって乾かした。馮異は劉秀に向かって麦飯と菟肩(という植物。可食)を献上した。まもなく、劉秀は部隊と滹沱河で合流し、信都に到る。劉秀は馮異を派遣して衆から兵を募り、彼が帰ってくると偏将军に任じた。
ついで馮異は劉秀について王郎を大いに破り、功績により応侯に封ぜられる。
馮異は人となり謙恭にして礼節を知り、功を誇らず、驕らず。諸将と道で会えば往々にして車を止め道を譲る。その軍の整然たるは皆の識るところであり、毎度地方に安営を築き、将領いつも一同に座して軍功を誇り会う。馮異はひとり輪に加わらず大樹によって座り、私には功績などないと言うのが常であった。故に軍中、彼を‘大樹将軍’と称する。
王郎を攻め破り、劉秀は部隊を再編、将領達に対して新たに長生を行い、おのおのに軍を統べさせる。。軍中の吏士みな我がちに「身がわくば大樹将軍の下に」。劉秀はこれを聞き、更に彼を重んじて賞した。
これよりのち、馮異は北平で鉄脛軍を破り、また于林の匈奴閽顿王を降し、戦功きわめて大きかった。
王郎を破ってのち、劉秀の声望はいよいよ盛んとなり、、更始帝は彼を蕭王に封じ、撤収を命じてこうある将領とともに京師に帰れと言って、実質的に劉秀の兵権を奪い去ろうとした。収拾は爵は受けたが河北まだ平らがずと言って召しに応ぜず、ここに更始帝と劉秀の分裂がはじまる。
更始帝は舞陽王李轍、廉丘王田立、大司馬朱鮪、白虎公陳橋の率いる大軍、号して三十万をもってして河南太守武勃とともに洛陽に駐守せしめた。劉秀は北に燕・趙の地を従えんと欲して馮異を孟津将軍となし、河内太守寇恂とともに魏郡を統率させた。河内の舞台は朱鮪らの軍を拒んでのけた。
馮異は李轍に手紙を書き、利害形勢を明らかにし、彼にこう勧める「成敗の覚悟、大計すでに定まる。功を論ずる人を立て、禍を転じて福となせ」。さもなくば「猛将長駆して厳に城を囲、悔恨あるといえどもすでにまた及ばず」と。
李轍は苦衷に悩んだ。爾来彼は劉縯、劉秀と結んでいて、その関係は密接であったので、更始帝が帝を称した時彼は却って劉縯を陥れるのを主導したが、彼は今頃になって更始帝が民衆に背かれ親しいものからも見放されるのを知った。長安には危機が迫り、彼は劉秀に投降を想うも、ただ心の中の猜疑心によって安心することが出来なかった。そこで馮異に返事して「私は本来蕭王と漢兵とは生死を同じくし、栄達も衰退もともにすると約した。私は今洛陽を守り、貴公はは孟津に拠る。これすべて機軸の要害にて、一世一大の機。我らは協力して大事に当たるべきではあるまいか。貴公が私の考えを蕭王にお伝えしてくれることを期待する。もって国を助け民を安んじんことを」。
双方通信ののち、李轍はやむなく馮異と鉾を交える。馮異はこの機に乗じて北の天井関を攻め、さらに上党の二つの城池に克ち、また南進して河南成皋の三十余県とその兵営に攻め克ち、敵軍十余万を修降した。
武勃率いる一万余の軍は馮異を攻め降すべく侵攻、馮異は河を渡り、武勃と郷下で接戦、武勃を斬り殺す。李轍は約束を忠実に守り、門を閉ざして味方を救わなかった。
馮異は李轍を観て信じるべしと思い、状況の詳細を手紙にしたため劉秀に知らせたが、劉秀は闘争の必要性から、故意に李轍から馮異への手紙を外部に漏らした。
朱鮪はこれを知って怒り、人を派遣して李轍を殺害、時の洛陽の人々は動揺し、相当数の人間が出てきて投降した。
朱鮪は討難将軍蘇茂をに兵士数万を与えて温池を攻めさせ、自らは数万で平陽に侵攻、馮異を牽制する。馮異はまず校尉護軍を率い寇恂とともに一挙蘇茂を撃ち、そののち孤軍河を渡って朱鮪のもとに進軍、朱鮪は敗北して逃れ、馮異はこれを追って洛陽にいたり、その武威輝輝。城を一周し、帰陣。
馮異は劉秀に手紙を出して戦況を報告し、諸将らは続々と劉秀に祝賀を述べ帝位登極を勧める。劉秀は決断がつかずに馮異を召して、四方の情勢を諮問する。馮異は「三王反叛は、更始は敗亡、天下に主なく、宗廟の憂いは大王にあり。宜しく衆議に従い、上は社稷のため、下は民衆のために登極なされますよう」。
劉秀曰く「私は昨夜夢に上天の赤竜を見て目を覚ました。今の今まで心の中に消えない不安があったのだが」。
鄧禹は席から降りて再拝し、祝賀して劉秀に曰く「これまさに天命の配采であります。心中の動悸は、貴方様の慎重な天性の現れでありましょう」。
そこで、馮異は衆とともに推して劉秀を鄗にて帝位につける。推戴されて劉秀は建武と年号を立て、漢の世祖光武帝となる。
建武二年(二十六年)、光武帝は馮異を陽夏侯に封じ、彼に軍を率いさせて厳終、趙根を撃たせた。皇帝は勅令を発し、命じて彼を郷里の家に帰らせ、大中大夫に命じて牛と酒を送り届けさせると、近隣二百里内の太守、都尉以下全ての役人に彼の宗族を祀らせた。光武帝はかくのごとく馮異に恩寵を示し、偏愛する。
当時赤眉軍と延岑の部隊は三輔周辺で活動し、郡県の勢家大族もまた兵を擁して乱をなした。大司徒鄧禹はこれの平定に失敗、光武帝は馮異を鄧禹に代えて征伐に向かわせた。
馮異が陣に臨むに、光武帝は自ら河南まで出てきて親しく見送り、七尺の剣を賜って言うに「三輔は王莽、更始の難を受け、再び赤眉、延岑の擾乱に遭う。民は塗炭の苦しみを味わい、拠るべき処亡く、訴えを説くべき処なし。朕は貴公を征伐に派遣するが、略地屠城定かならず、主たるはこの地区を平定し安撫すべし。諸将も作戦において貴公に劣るものではないが、彼らは掠奪を喜び、この任に奏功すると言いがたい。貴公はもとより将士を統御するのが得意であるから、このたびは貴公に一任して更に規律正しくあることを望む。これ以上民の苦役を増やすこと亡きよう」。
馮異は頓首して命を受け、軍を率いて西に向かい、至る所で恩を施し信を得た。弘農で十余の自立した将軍に遭遇したが、馮異が恩威併せて行うと彼らは皆帰順した。
馮異は華陽にあって赤眉と遭遇。両軍相対峙すること六〇余日、その間数十回の戦闘が発生し、馮異は赤眉の将領劉始、王宣およびその部下五千余人を降した。建武三年、西暦二十七年朝廷は馮異を征西大将軍に任命する。
鄧禹は車騎将軍鄧弘を率いて軍を帰し、馮異と出会い、両者共同して赤眉を討つことを約す。馮異曰く「私と敵兵は互いに拒み合うこと数十日、しばしば敵軍の戦将を捕らえはしましたが、なお敵の余衆は数多く油断できません。我らはそろそろ恩威を用いて彼らを柔らかに服属させるべきでしょう、武力を用いて敵将を破らんとするのは、これすなわち難事と言うべきです」。鄧禹らは馮異の意見に取り合わなかった。鄧弘は赤眉に大敗を喫し、輜重を捨てて奔逃することになる。車の上にあるのが塵芥ばかりだったので、鄧弘は足りない糧草を求めて収奪に言った。そこに赤眉が押し寄せて逆劇を加え、鄧弘は潰走したのだった。
馮異と鄧禹は兵を合して救援し、赤眉はややわずかに退く。このとき、馮異は士卒の飢えと渇きに気づき、再戦は難しいから一度休ませて軍用を整えようと馮異に進言したが、馮異は聞かずに軍を馳せてまた戦い、赤眉に大敗するところとなり、死傷3千人、鄧禹はひとり抜け出して宜陽に退く。
馮異は馬を捨て戦い、歩軍渓陂へと奔り、幾人かが守る大営に出た。彼は一方で城塁を堅守し、一方で散兵と諸営の守軍を集結する。総勢数万となり、ここにおいて赤眉と会戦を約す。
彼はまず精強な壮士を派遣し、赤眉の前に押し立てると、道辺に埋伏の兵をおいた。
戦闘が開始されると馮異は故意に的に弱いところを見せ、赤眉軍一万余は勢いに乗って増援を出した。赤眉軍は漢軍の作戦不振を見て調子づき大部隊で攻撃、一気を殲滅と考える。馮異はこのときとばかり鼓を一斉に慣らし、喊声天地をどよもさせ、午後になるまで抗戦する。赤眉の勢いは次第に衰え、そこに漢軍の伏兵が唐突に発した。赤眉の衣服はすべておなじで誤認することがないため、漢軍は思う存分赤眉を蹂躙し、赤眉は撤退する。馮異は疾駆して追撃を行い、崎底まで到り、大いにその軍を破る。降した兵の数実に八万人という。宜陽に至ってのち、彼らは投降した。かくして馮異はようやく回渓の雪辱を雪いだ。
光武帝は馮異の功労を労い嘉し、「始め回渓で翅を垂れたといえども、ついに澠池で翼を奮わしたな」と褒めた。
赤眉は降ったとは言え、各地の割拠勢力は尚盛んであり、局勢は楽観を許さない。当時、延岑が藍田を占拠し、王歆が下邽を、芳丹が新豊を、蒋奮が霸陵を、張邯が長安を、公孫守が長陵を、楊周が谷口を、呂鮪が陳倉を、角閎が汧を、駱延が周至を、任良が鄠を、汝章が槐里を占拠していた。かれらはそれぞれに将軍を号し、それぞれ数千から数万の兵馬を擁して、互いに攻撃しあい、混乱が堪えることはなかった。
馮異はこの混乱情勢の中を戦闘におもむき、、のち上林の苑中に駐留した。
延岑は赤尾が破れたのち、武安王を自称し、割拠基盤を据え官吏を置いて漢中の覇者たらんと一人夢想した。彼は張郁、任良と連合して一斉に馮異を攻撃したが、馮異は逆に彼らを叩き伏せた。
これによって元来延岑の部下であった者は多く馮異に下り、延岑はその後もしばしば破れて武関から南陽に逃れた。
当地は連年の征戦で食糧欠乏し民衆は窮乏し、金一斤でわずから豆子五斗しか買えないという有様だった。馮異部下の士兵も道路が断絶されれば食糧の運搬は困難となるので、野菜や草を食べるしかなかった。馮異の窮状を知った光武帝は、南陽の趙匡を右扶風に移し、趙匡は兵を率いて馮異の援助にやってきて彼に糧食を差し出した。馮異の部下は勢い込んで、万歳の声が山を震わせたという。
馮異は軍中の食糧がそろそろ満ちてきたところで、豪強征伐に乗り出した。。命令に違反する者は懲罰し、いささかでも功があれば必ず褒賞を与えた。首魁分子をみな京師に送り、彼らの部衆を解散させて本業に戻るよう令を出した。短時間の内に呂輔、張邯、蒋震らは降伏し、蜀地に割拠する公孫述以外は間を置かずしてみな鎮められる。馮異の威は漢中に揮った。
翌年、公孫述は部将の程焉に兵数万を与えて派遣し、呂鮪と連合、三輔を攻める。馮異と趙匡は迎撃し、程焉の兵を破り、漢河まで逃走させた。馮異はそれを追撃し、箕谷のあたりで再び程焉を破る。ついで軍を帰し呂輔を撃ち、その部衆の大勢を降した。これよりのち公孫述はしばしば漢土を侵犯するが、その都度馮異によって退けられる。
馮異は関中にあること三年、民をいたわることに関心を寄せ、冤罪で獄につながれた者を解放し、仁政を敷いて、その威光は重く行き届いた。民衆は安逸を手に入れ、遠近その徳に懐く。
馮異は要職を担当して長らく外にあり、内心ではすこぶる安らがなかった。そのため上奏して心の内を表明し、自らが朝廷を想い、召し返されることを希望する事を帷幄にあって書き記した。しかし光武帝は馮異の職責の重大さ故に、彼を召し戻すことをしなかった。
のち、ある人が光武帝に上奏し、馮異が関中で利を専らにし、権威至って重く、長安の令を斬って民衆の心を懐け、号して威陽王と呼ばれていると讒言した。光武帝はこの上奏を取って馮異を問責し、馮異は恐縮し上表して自らの忠義明らかなることを述べた。この表章の中で彼はまず光武帝の英邁を述べ、自分の成就した功績はすべて皇帝の功績であるとして、「私はもとより書生に過ぎず、受命の人たる陛下に巡り会って、行伍から過分の厚恩を蒙り、位は大将、爵位は侯となって、大任を任され、もっていささかの功を立てたものであります。すべからく国家の慮る謀は、愚臣ごときの理解の及ぶところではございませんが。私が伏してただ思いますに、詔勅を以て戦功を立てるは、ことごと陛下の思うがままではあっても、時として私の独断専行、未だ当たらずして悔やむべしであります。国家を総覧する目は朝廷を離れてますます遠くなり、これすなわち天の与えた知性の不足、得るべからずしてただ聞くのみでありますれば」しかるのち、彼は今更になって皇帝が自分を必要としなくなったのであれば致仕する、と言って結んだ。
光武帝は馮異に対して奏功と不安に襲われ、詔を下して慰労、詔書の中で「将軍と国家は義によっては君臣、恩にあっては父と子である。何を疑うことがあろうか、気にしないでくれ」と。
建武六年こと三十年正月、馮異は京師に朝見し、光武帝は情熱を込めて接見した。そして居合わせる公卿達に、「これこそ馮異、朕が軍を起こす際の最も有能な主簿である。彼は朕のために茨の道を切り開き、今もまた関中を治めてくれているのだ」。
接見ののち、光武帝はまた中黄門を派遣して珍宝、衣服、段銭などを賜り、加えてかつ曰く「貴公とかつて創世の頃、無萎では豆がゆを馳走になり、滹沱では麦飯を食わせてもらった。あの恩は実に返しがたい」。
馮異は賜り物を受け、頓首拝して曰く「その節は斉の漢公が管仲を赦した故事’君は鈎を射るを忘れ、臣は檻車を忘れる’といこうではありませんか。斉国が比類なき国となり天下に覇を唱えたように、主公が忘れないと同じく、臣も主公の恩を忘れませぬ」
こののち、光武帝はしばしば馮異を召しては宴を設け、君臣ともに飲み、蜀攻めのことについて商議した。馮異は京師にあること十数日で駐屯地に帰り、皇帝は馮異の妻子児女にに随行を許可して疑いのないことを示した。
この年夏、朝廷は諸将を派遣して公孫述、隗囂々ら割拠勢力を伐たしめたが、至る所皆敗北。光武帝は詔によって馮異を枸県に進軍させたが、馮異のまだ到達しないうちに隗囂の部将王元、行巡率いる二万が隴西から出て、行巡が枸県に向かった。馮異はこの報せを聞くや部隊に命じて昼夜急進、先に枸県を取らんとする。将領達は口をそろえて敵は強大であり、かつ勝ちに乗じてくるのであるから、このように一日を争うのは不適当だと言った。妥当なところを探して駐屯するであろうから、そこを囲むのが良策とも言ったが、馮異はそうは思わなかった。彼は言う「敵兵はようやくにして小利を得た。これを便りに深入りし、我先に枸邑を占拠するであろう。そうすれば三輔が動揺し、後患ここに極まるのではないか? 皆識るとおり‘攻めるものは足らず、守るものはあまりあり’の道理だ。我々は是が非でも枸県を先に取らねばならない。逸を以て労を待つ、では駄目なのだ。戦争は一日を争う」
ここにおいて軍を奮わせ速進させ、ついに枸県を先に取り、堅く城門を閉ざして旗を倒し鼓を潜める。行巡はすでに馮異が城池を占領していることを知らず、慌ただしく兵を帯びてやってきた。馮異はそこで不意を突いて鼓を鳴らし旗を立て、軍を率いて突撃した。行巡の部卒は恐慌して施す措置なく、我がちに逃げ出した。馮異は軍をすべて追撃すること数十里、敵軍を大いに破る。
このとき、沂でも祭遵が王元を打ち負かしていた。そこで北地の豪族の長・耿定らが隗囂から離反し、あい次いで漢に降った。
馮異は皇帝に上書し、軍中の状況を明らかにして奏し、謙恭に礼を述べ、功績は他人に譲って自分の功績には全く触れなかった。光武帝はこれを深く残念に思い、詔書を下して説くに「敵兵突然襲来し、二輔は恐懼し動揺し、枸邑の存在は危急的であったと聞く。北地守備の将士たちは大抵兵を按じて傍観したはずだ。しかるに今偏城を得てもって保全しているのは、敵兵を挫折させ、耿定らを帰服させ再び君臣の義を結ばせたのは馮異の功績ではなかろうか。これよりいっさいの権限を征西将軍馮異に委ねる。なぜなら馮異の功績は丘のごとく山のごとくであり、自分の不足をよく知って他人に譲る」そこで特命により大中大夫を賜り征西の将士に医薬と棺を送り、大司馬以下が死を悼み病を尋ね、以てその謙譲を崇めた。馮異は軍を勧めて義渠に進み、北地太守を兼ねる。
のち青山の胡族一万が馮異に降る。馮異は又平を動かして廬芳の将帥高覧と匈奴の日逐王を破った。上郡、安定地方、ともに漢朝に帰服し、馮異はさらに安定太守を兼ねる。
建武九年こと西暦三十三年、祭遵が世を去る。皇帝は馮異に命じて征虜将軍とし、その営中の将士を統べさせた。隗囂が死にその部将王元、周宗らは隗囂の息子隗純を擁立、兵を率いて冀うを占領する。公孫述は趙匡を派遣してこれを助けさせたが、光武帝もまた馮異を天水太守事に任じて向かわせた。馮異は進撃して趙匡にあたり、対峙すること一年、これを斬り、殺した。
漢軍は冀に侵攻、消耗持久戦に終始する。ある人が軍隊の休養を提案したが、馮異はついに行動をなし、士卒に先駆けて戦陣に突っ込むと諸軍これに続いた。
翌年夏、馮異と諸将は一斉攻撃で落門を攻めたが、未だ落ちざる内に病を発し、軍営の中でこの世を去った。朝廷は彼に謚を賜り、‘節侯’。
馮異は東漢中興の名将であり、作戦に当たって勇敢、常に陣の先駆けをなし、良く謀略を用いた。敵をはかって勝ちを決し、軍を治めること厳明、民を安んじることに心を砕き、東漢創業の功臣の中でもその名と位は特に高い。彼はまた人となり謙虚で、自らの功を誇らず、まさに一代の良将というべきである。千年の時が過ぎても、色あせることのない人物であった。
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