呉起
呉起は衛国曹氏の人、生年は不明、没年は紀元前381年。戦国前期の著名な軍事家である。
呉起の生きて活躍した時期は、春秋末期から戦国の初めである。これは苛烈さを増し、戦争が頻繁となっていく動乱の時代であった。各国の諸侯は自分の利害にのみ依拠し、常に相互相伐つ。戦争は連続して止まず、その規模はますます増大し、なおかつ、戦争の発展と需要に応じて、兵制、武器、戦術、それらすべてについて大きな変革が生じた。これにより、この時代は「戦国」という歴史的名称で呼ばれることとなる。このような一つの歴史条件のもと、各国の諸侯は自己の飲み食いを被らずして所有を拡張すべく、新しい戦争の形態とその需要に適応していった。すべてに比較して重視されたのは才能ある人だった。よって、この一時期に諸子は非常に活発に活動し、百家興起し、遊説の風が盛んに起こった。呉起はひととなり名を愛し利を愛さず、志あって顕赫。伝説によれば彼の先年時代、彼の母に向って宣誓し「巧妙を得るに至らずば、決して家には帰らず」と。のち、はたして呉起は衛を離れて魯に向い、曽参の門下生となって学問にはげんで、まもなくその名は高名となった。この時期斉国の太夫田居の娘を妻に娶った。ただ、母が死んでも癒えに帰らず、これにより不品行の汚名をかぶせられる。それが高じてついに曽参の門下を逐われた。ここに至り、呉起は文を捨てて武を学ぶ。発奮して兵法を学び、研究して当代及び歴史上の軍事規律について、深い造詣を獲得した。のち、魯の相圀・公儀休の水戦をうけ、魯の穆公の太夫となった。
前412年、斉が魯を攻める。斉の国は東方を占め、山東の大部分と河北のごく一部を占有してその版図は1千里、漁業と燕業が盛んな当代の強国であった。それに比べて魯は小さく、国の三方を斉にふさがれている状態で、国力も薄弱であった。当時の趨勢を鑑みるに、魯の圧倒的不利。魯の穆公は斉の侵攻に対して抗撃するため、まずは十分な力を持つ将領を選抜した。呉起の軍事的才能を穆公は理解していたが、ただ、彼の妻が斉の田氏の娘であることで起用をためらった。彼は自分が魯国に忠実であること、彼以外の人物が将となっても不是であること、彼に兵権を与えることが国家存亡の問題を解決することを説いたが、重々顧慮のうえで穆公は疑いを捨てきれず、決められなかった、呉起は自分に対する疑いがぬぐわれないとなると、将として名を顕わすことを求めてついに妻を殺し、斉国に対して訣別の志を表明した(別伝があり、彼の妻はこの当時すでに病気で亡くなっていたのであり、呉起自身は将軍となるために妻を殺すことに反対したという)魯国の国君は呉起の苛烈な人となりを喜ばなかったが、しかし情勢は緊迫しておりついにやむを得ず呉起を将軍に任命した。彼は全軍を統御して命令し、斉軍を防ぐ。呉起の治軍は非常に弁法優れ、厳格にして寛仁、士卒と甘苦を共にして士卒は皆死力を尽くすことができた。ある作戦を指揮したときの彼の指揮能力が傑出している。呉起が魯軍を率いて前線に到着したが、すぐさま斉軍を叩くことはできない。そこで斉軍に自軍の虚を見せ、向こうに向けて「弱をもってこれを示し」た。老弱の兵をもって中軍にあたらせ、これによって魯軍は「弱」であり「怯」であると思いこませた。斉の将士はこれによって感覚を麻痺させられ、驕慢になり、備えを解いてしまう。しかるのち精鋭を持って敵の不意を衝き、警戒を緩めていた斉軍に猛撃を加えた。斉軍は倉皇として応戦したがなすすべなく手足が出ず、一触のもと壊滅し、全軍の過半が死ぬか傷を負い、余衆は本国に逃げ帰った。すなわち魯軍の大勝利で終わったのである。
呉起は斉を破り、彼の軍事的才能が出色であることは天下に明らかとなり、斉の魯に対する威嚇を解かしめた。ただし、まもなく斉からの離間策もあり、もとから呉起に好印象を持っていなかった魯の穆公は、婉曲に謝辞を述べて呉起の兵権を解除した。これにより魯の信認を失った呉起だが、今度は魏の文侯が賢明であり、よく人を任ずと聞いた。呉起は魯を離れて魏に赴く。魏の文侯は最初呉起のことを何も知らず、なので李悝に問うた。李悝は「呉起は名を慕うこと貪欲な男ですが、兵法に精通しております。その能力は司馬穣且に匹敵するか、上回るかもしれません」これにより、魏文侯は呉起を将軍とする。紀元前409、408年、二度にわたって師を率いて秦を伐ち、大いに秦軍を破り、秦に奪われていた西河地区を奪回した。呉起の用兵はまたうまく、自ら刻苦勉励し、人に対しては公平、深く軍士の心を得たので、魏文侯は彼を西河の守りに任じて彼を西の大国・秦、北の大国・趙に対する藩屏とした。史書にある「かつて諸侯の軍と大戦すること76、全勝すること64」「四面の土を闢き、千里の地を開く」とはこのころのことである。これにより、魏は戦国初期における諸侯中の強大国となった。
魏文侯の死後も呉起は依然として西河の守りにあった。彼は相国・田文とともに京堂で魏武侯を補佐し、魏の政治的・経済的、そしてなにより軍事的発展に寄与した。 彼の強く主張するところは「内に文徳を修め、外に武備を治む。」という政治信条であり、常々魏武侯に対して富国強兵の建議を提出した。あるとき魏武侯が西を巡察した際、呉起は同じ船に乗って西河を下った。魏武侯は周囲の山川の風景に抒情的な気分になるのを禁じえず、「かくのごとく美しい山河、これぞ魏のゆるがぬ根本ではないか!」呉起はこれを聞いてしからずといい、「国家の安危は徳行にあり、山河の険要にはありません。かつて歴史上、南方の苗氏は左に洞庭、右に鄱陽の守りがありましたが、険要に拠すといえども徳を修めず、民心を失いました。禹も夏王朝も、黄河と済水の間に都を構え、華山、泰山の守りを左右に控えながら、山川は険要をなさず、しかるに夏桀王は無道を行い、ゆえに商湯王に討伐されて終わったのです。殷紂王もまた、中原を占拠し四方を峻嶮に守られましたが、ただ君が不仁であり、悪を好んで改悛しなかったために、最後は周の武王に伐たれて終わりました。かように、国家の安危は徳にあって険要にはございません。大王、もしあなたが徳行を修めなければ、あなたの民はみなあなたの敵となるのです!」魏武侯はこれを聞いて呉起の見解を深く賞賛し、彼をさらに重んじるようになった。
数年後、田文が病で亡くなる。公叔が田文にかわり相国の職務についたが、公叔は魏侯の娘婿であることを恃むばかりで才能において田文にも呉起にも及ばなかった。呉起を恐れ自らを軽視するあまりに嫉妬心が肥大し、常に魏武侯に対して「呉起の才幹は周に優れ、かつ巧名を喜びます。魏は大国となりましたがおなじ大国の秦と境を接し、私は彼が自らの才能の高さを恃んで戦争に突入するのを恐れます。魏のためを思うなら彼をとどめておくことはできません、我らは早からず防衛を考えなければならないのですから」はじめ、魏の武侯はなおその言葉をしからずとしたが、時間を置くごとに流言蜚語が飛び交い、彼の心にも警戒心が生まれた。このようにして、呉起は魏武侯の信認も失い、その言を用いられることなくなり、ついに魏を離れて楚へと奔った。
楚の悼王はもとより呉起の才能を聞くところであり、情熱をこめて彼を接待し、相国として自らの股肱とした。呉起はこの厚遇に感じ入り、自らの思想をこの国で発展させることを決意、楚悼王のもと富国強兵にまい進する。彼の認識によれば、富国強兵の実現には厳明な法令が必須であり、政治が明らかに修められていることが必要であり、財政が整頓されていることが肝要であり、これを実現するために必ず行うべきは信賞必罰であった。楚の悼王の支持下、呉起は風雷の激しさで重要な改革を断行していった。一に官員の等級と人数を一定にすること、貪官汚吏を懲罰し褒賞を功あるものにただしく与えること、職務に無関係な冗員を作らないことを固く決した。二に論功と俸給の実行であり、功なくして貴族的身分だけで俸禄を貰っているものを固く取り締まり、財政を緊縮した。三に戦士の厚遇であり、軍士の増加とそれに伴う彼らの家族を物質的に支援した。四に主張する「歴史は甲兵をもって天下を争う」であり、重装の軍士の選抜とその訓練および軍事物資の準備。五に名と実を一致させること。選抜した人士のなかで真実才能があるものをこそ重用し、名前だけの遊説の士・投機の徒を避けて遠ざけること。これらの改革を実行することは無用の特権貴族たちに打撃を与え国家の財源を増収させた。真の人材を重用し訓練を施して軍の戦闘力も増した。楚の国はとても優れた国富と強兵を抱える国となり、軍事的大成功を収めた。南に百越を平らげ、北に陳と蔡を滅ぼし、西方には秦を破って、威は諸侯を震わせた。
呉起は自らの才能に任せて楚国内の争いに威名を轟かしたが、罪を与えられて廃せられた楚国の貴族たちは呉起を深く怨み、常に彼を害することを願った。紀元前381年、楚悼王が病死、宮中の機能が停止した機会に乗じて、廃貴族たちは呉起を攻め囲んだ。情勢が危急を告げる中、呉起は悼王の死体の安置された部屋に駆け込み、王の肢体に覆いかぶさった。春秋戦国の法において、王の死体を傷つけたものは死罪である。呉起は逃れられないと悟るや追跡者の乱箭に射殺されたが、王の死体にも矢が当たり、貴族たちは皆殺しとなった。
こうしてクーデターに倒れた呉起だが、人となりについては一致しない情報も目立つ。ただし彼が一生を政治的・軍事的活動に捧げ、そして卓越した政治的遠見と軍事の才能を発揮したことは疑いない。彼は軍を治めるにあたって、豊富な経験から戦争を多面的に分析し、指導した。著作《呉起兵法》は《漢書・芸文志》の記載によれば48編、大部が遺失して現存するのは《図国》《料敵》《治兵》《論将》《変化》《励士》の6編のみ。
このうち多くの章内には呉起の政治的・軍事的観点が強く含まれる。政治上、呉起は「内に文徳を修め、外に武備を治める」を主張し、その一方で彼は国家の必要性も主張した。軍隊内部の統一実現と協調のためには、才能をもって対外的に兵を用いるべきと説いた。彼は民心を掴むためには敵に対する戦勝が重要条件であると言い、国内の政治と経済を高めるにも戦勝は必須の要素であると説いた。ゆえに、彼は魏にあれど楚にあれど、その論じるところの、大きな意味では政治・経済の改革は上っ面であり、一方で彼が重視したのは国家を不敗たらしめることであり、そのために国家の軍事的力量を向上させることであった。ゆえに彼は民衆の中で勇敢にして壮強なひと、死を前にして恐れず前進する人、よく遠くまで飛び越え、軽捷でよく走る人、よく上に意見する人、これらは組織軍隊の編成において精鋭を成し、国内外における敵との戦いにおいて重要であると語る。
治軍の方面においては、呉起は「治をもって勝ちをなす」と言った。厳格に命令を執行し、「三軍威に服す」「士卒命にかなう」となった。彼は将師たちに士卒を愛護するよう要求し、士卒と安危を共にするよう要求した。彼が特別強調したのは軍隊の教育と訓練で、「先ず教えて戒めとなす」で、士卒が十分習熟するまで徹底的に陣法の変化と各種武器の扱いを訓練させ、高い作戦能力が軍隊使用の先決条件であるとした。彼は明確にこういう。「いわゆる治められた、好まれる軍隊とは、駐箚時の秩序の有無、行動時の整然として武威があるか、侵攻時に敵に阻まれることがないこと、後退時にもよく敵を殺し、前進・後退が順序だっており、左右に動くに際してよく指揮を聞く、不利となっても陣勢を乱さず、壊散してもすぐに隊列を回復する、一致団結し、上下が心を一つにする。このような軍隊を戦闘に投入すれば、いかなる敵が相手でも負けることはない。ゆえに、厳格な治軍を施された軍隊は、よく敵に勝つ。」
戦術思想上、呉起は孫武の「彼を知り己を知れば、百戦殆からず」」を継承した。戦争の指導には敵情、天の時、地理など不断の変化をする客観的状況の把握が必須であり、時宜に応じて千変万化する戦法を採択しなければならない。これによって「労なくして功を挙ぐ」に到達できるのである。彼が戦争指導において強調したのは戦機の捕捉、敵の要害を攻撃する際には特にこれを強く求めた。彼は長期にわたる戦争を実践する中で、「撃たば疑うなかれ」「急いで撃てば疑うなかれ」を模索し、これをもって「避ければこれを疑うなかれ」と多くの状況に適用させ、勝利を確信した際は断じて進行するべきであると主張し、勝利が求められないときは速やかに撤退すべきと主張した。曰く「見てしかして進むべし、知ってしかして退くべし」。彼は遠来の敵がとうやく到着した際、まだ食事中であろうと防備が完成していなかろうと、敵を壊乱させ奔走させ、しかる後険要の地で守った。天の時が利ならず、地形にも利がなく、疲労が限界を過ぎて、軍の心が散漫となっているときは、主将が軍を離れるとたちまち上下不和となね、などなど、すべて敵の弱点を研究し、自軍に有利な状況を呼び込むための戦術であり、堅決果断にしてつねに侵攻を専らとした。同時に、彼の指揮は敵より多くの兵をそろえ、武装を十分にして精良なものを揃え、士気を旺盛にして、主将が兵を熟知してよく戦う、さらには隣国の幇助あるいは大国の支援がある状況、これらが自分になく、あるいは敵方にあるのでであれば、戦闘は避けるべきである。自己に有利な戦闘態勢を創出した後で、再び戦機を尋ねるべきであるといった。呉起の思想は非常に高度に科学的であり、貴ぶべき価値がある。
遺失したとはいえ、呉起の軍事理論は十分豊富である。《呉子》一書は《孫子》と同様の価値があり、中国古代の軍事理論の宝庫である。当時の戦争の実戦と指導に重要な作用を果たしたこの書物は後世の人々にとっても重視するべき含蓄に富み、歴代の軍事活動化にとって必携必読の書であった。《呉子》は中国軍事思想史上絶大な影響力を持ち、現在残っている6編だけでも現代に通用する叡智に溢れている。
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