伍子胥(ご・ししょ)
伍子胥、子胥は字で本名は員(うん)、楚の人です。で、お父さんが伍奢、兄貴が伍尚ですね。まあこの辺はもうみなさんご存じのとおりなんですが、一応「史記」の記述のとおりに書かせていただきます。んで、祖先に伍挙という人がおりましてこの人が楚の荘王の忠臣として王を恐れずに諌めるということで名声のある人でした。確か十八史略にも載ってますよね、伍挙の名前は。そんなわけで伍子胥の家は楚では名門でした。
楚の平王の太子・建が立てられると伍奢はその太傳――まあ後見人とか守り役と思ってもらえればよいです――となります。そんで費無忌という男が少傳、つまりは太傅の補佐役みたいなもんですか。になったのですが、この費無忌という男がよろしくない人物で、平王が太子建の妻を秦から迎えようとしたところ秦の王女が美女だったために、王に気に入られようと思って「秦の王女は絶世の美女でありますから、王が自分のために娶られるがよろしい」とか吐かしやがりました。これが政変の引き金になるわけです。
平王、すっかりその気になって自分で秦の王女を娶り、しかもこの二人の間に軫という子供をもうけてしまったから100パーセントお家騒動が起こります。太子建を捨てて王におもねった費無忌は自分の地位を固めるためにと建を讒訴、平王もどうやら大した人物ではなく、建の母に対する愛情も薄れていたこともあり急速に建を疎んずるようになり、ついには建を城父の国境警備に出して厄介払いしました。費無忌はさらに連日、建の悪口を王の耳に入れ、「太子は婚姻の事で王に恨みを持っておられますから、努々油断なされますな。いずれ乱を起こす前に潰してしまいましょう」とささやきかけました。平王も後ろ暗いところがあるものですからその気になっちゃって、太傅である伍奢を呼びつけ文句をつけるのですが伍奢という人物、さすがは名将の父というか気骨のある人物で、費無忌が讒訴したのだなと察すると「王よ、小人奸物の言を信じて肉親の情をおろそかにするのですか?」というのですが、費無忌も「いま彼らを捕えねば後の禍根を残すことになりましょう」と。そんで王がどっちを取ったかというと費無忌のほうで、即時伍奢を捕えると同時に城父の司馬・奮揚に命じて太子建を殺させようとします――が、建にとって幸運なことに奮揚は建に同情的で、使者を遣わして「急ぎ逃げたまえ太子よ。さもなくば誅殺されますぞ」と言わせましたから、おかげで太子建は宋に亡命することができました。
費無忌はもういいかげんにせれという感じなんですがさらに平王を指嗾して、「伍奢の二人の息子はともに賢明ですから、生かしておいてはやがて国の災いとなりましょう。父親を人質にしてこの二人を召されませ」とか言いやがったのが伍子胥の運命にかかわってくるわけです。王は伍奢に「お前、助けてやるから息子二人呼べ」と命じますが伍奢もさるもの、「長男の伍尚は情にもろいから呼べば来るでしょうが、下の伍員は強情で堅忍不抜、いずれ大事をなす男ですから絶対に来ないでしょう」と。まあこれに耳をかすようならそもそも息子の結婚相手を取り上げることもやってないでしょうというわけで、平王は伍兄弟に使いをやり「お前たちが来ないのであれば父を殺す」と言わせます。どんだけ腐ってんだよアンタらって話ですがよくあることでもありますね。伍子胥は「これは罠である。楚がわれらを召すのは父を生かすためではない。われらを共にとらえて災禍を避けようとの魂胆である。行っても父は助からぬからいっそ他国に逃れ、父の仇を報じようではないか」と兄を説得しますが、伍尚は死を決して招聘に応じます。「父が助からないのはわかっているが、二人が父を見殺しにして生き延びたとあっては物笑いの種になる。私は父に殉ずるから、お前は生きて復讐を遂げよ」といって。かっこいいですね、この兄貴も。で、伍尚は縛につく。ついでに伍子胥も、という捕吏でしたが、伍子胥は弓に矢をつがえて使者に立ち向かい、威嚇してその隙に逃げました。太子建を追って宋へ。伍奢は伍子胥が逃げ延びたのを知って笑い、長子とともに殺されるにあたって「員は逃げたか。楚の君臣はのちのち兵難に苦しむことになろう」と言い残したといいます。
で、伍子胥。宋で太子建と合流した矢先で華氏の乱が起こったので、太子とともに鄭に赴きます。主従は鄭で厚遇されましたが、なぜかそこに腰を落ち着けることなく今度は晋に。晋の頃公は「太子は鄭に信頼されているから、太子が鄭を裏切って晋に好を通じるというなら封邑を与えよう」とかかなり外道なことを言い出します。しかも建がそれを受けて鄭を裏切ろうとするのですね。でもまあこれは露見して、鄭の定公は子産とともに謀り太子建を誅殺。伍子胥はここにいては危ないということで建の息子、勝をつれて呉に出奔しました。しかし呉と楚の境、昭関で検問に遭い、ついには勝と離れ離れになり、単身徒歩で逃げることになります。長江流域に追い詰められた伍子胥ですがこのとき一人の漁夫が彼の窮地を救って向こう岸まで渡してくれたので命拾い。岸についた伍子胥は値千金の宝剣を礼物として漁夫に進呈しようとしましたが、漁夫は「楚の法にあっては伍子胥を捕えたものには粟5万石とし執珪の爵位を賜るという。100金ごときの剣などいらぬよ」といって受け取りませんでした。で、伍子胥は呉都を目指すのですが途中で病にかかり、乞食をしながらようやくたどりついたということです。ともあれここから兵略家・伍子胥の真骨頂が発揮されることになります。
時に呉王僚は武事を好み、公子光を将軍とした直後でしたので、それを契機に伍子胥は拝謁を求めました。しばらくすると楚の鐘離と呉の卑梁氏――どちらも地名です――が養蚕を巡って対立、まもなく呉楚国を挙げての戦争に発展します。呉王は公子光に楚を伐たせ、光は鐘離、居巣を破って帰還。伍子胥は呉王に「我に楚を破る計略あり。今一度公子をお遣わせられますよう」と説きましたが、光は「伍子胥が楚を撃てと勧めるのは自らの仇を雪ぎたいからにすぎません。今楚を伐っても斃すことは容易でないでしょう」と言ったので結局、大挙して楚の国内まで進攻することはなりませんでした。伍子胥は公子光の野心を見抜き、この場合外征を言うべきではなかったと後悔して、専諸という人物を呉王に推挙すると身を引いて時機の到来を待ちます。
それから5年、楚の平王が薨じました。後を継いだのは先述の秦の王女との間の息子、軫で、これが楚の昭王です。呉王僚も野心家ですからこの機会を逃しません。楚の喪中を狙って二人の公子――名前がめんどくさいしチョイ役なのでわざわざ書きませんが――に兵を授け、攻撃させます。しかし楚もさるもので呉軍の後背を絶って退路を封じました。で、この二人の公子が出払って国都が手薄になっているときに公子光がクーデター。専諸に命じて父王を殺させ、自立したこの人物が有名な呉王闔閭。闔閭は即位するや伍子胥を召して行人――外交官的な役職――とし、自分の謀臣としました。ちなみに二公子ですが父王が殺されたと知って楚に投降、帰順してしまいます。この二人は舒に封ぜられましたが、闔閭は即位後3年目にして軍を起し、伍子胥を軍師に楚を伐ってこの地を陥とし、二公子を捕虜としました。さらに国都・郢まで進撃しようとしましたがこれをいさめたのがもうひとりの名将・孫武。「民が疲弊しているのに遠征を続けるべきではありません。いましばらくお待ちを」と言われ、闔閭は軍を還します。ちなみに孫武を抜擢したのは伍子胥です。なんらかの伝手があったのかなんなのか知りませんが、亡命時代にでも知遇があったのかもしれません。
闔閭4年、呉は楚を伐って六と潜を攻略。その翌年には越を撃ってこれを破り勢いに乗ります。6年には楚の昭王が将軍・嚢瓦を主将に呉に攻め入りましたが、このとき伍子胥は将軍としてこれを迎え撃ち、豫章の地で大いに敵を破り名をあげました。ついでに居巣まで追撃し、そして9年、闔閭は「以前卿らはまだ郢を攻める時期ではないといったが、今ならばどうか」と伍子胥、孫武両名に問います。二人の軍師はともに「楚の嚢瓦は貪欲で唐・蔡の二国から恨まれております。楚を討つのであればまず唐・蔡を味方に引き入れてからになさいませ」と答えました。闔閭はこれを受けて全軍をもって出陣、唐・蔡の軍とともに楚を伐ち、漢水を挟んで楚と対陣。このとき呉の王弟・夫慨は同行を許されなかったので私に5000人の兵を率い、楚将・嚢瓦を撃つ殊勲をあげました。嚢瓦は鄭に出奔。呉軍は5たび戦い5たび勝って、ついに楚の国都・郢に迫ります。昭王は震え上がって国外に出奔、その翌日、呉王は郢城に入りました。このあと昭王のその後が書いてあるのですが、面倒なので割愛。
かつて伍子胥がまだ楚にいたころ、申包胥と交友がありまして、伍子胥が出奔するときに「俺はいつか必ず楚を滅ぼして見せる」と言い残したところ申包胥は「なら俺は楚を立て直そう」と返したというエピソードがありました。さておき呉軍が郢城に入ると伍子胥は昭王を探しましたが、見つからなかったので平王の墓を暴いてその屍を引きずり出し、300回ばかり鞭打ちました。申包胥は山中にのがれていましたがこれを聞いて「君の復讐の仕方はなんと残酷であろうか。きみはもと平王の臣で親しく北面して仕えた身であるのに、今やその屍を辱めるに至った。これでは畢竟、君にも天道の報いがあるだろう」と予言しました。これをきいた伍子胥は使者に「申包胥にこう伝てくれ。『わが志を遂げるのに、日は暮れて道は遠かった。ゆえに狼狽え急ぎ、道理に従って行うような暇はなかったのだ』と。」返します。“死体に鞭打つ”と“日暮れて道遠し”のエピソードですね。
申包胥は秦に走って楚の危急存亡を告げ、救援を請いました。秦王はごねたのですが申包胥が秦宮の広場に立って号泣すること七日7晩に及ぶと、哀公がこれを憐れんで「楚は無道ではあったけれども、こうした忠臣がいるのであれば滅ぶべきではない」といってついに戦車隊500の援軍を出しました。呉軍はやぶれ、翌10年6月、稷の地でまた楚軍の前に敗北を喫します。それでも呉の有利は動かなかったのですが、先だっての戦いで嚢瓦を破った王弟・夫慨が王都でクーデターを起こすと、闔閭は楚を放り捨てて帰国したので楚は命脈を保たれました。ちなみに結局夫慨は政権争いに敗れ、楚に出奔、楚に帰国した昭王は彼を堂谿に封じます。同年、呉はまた楚を攻めましたが敗北、むなしく軍を還しました。のち2年して闔閭は太子夫差を将軍に任じ、また楚を撃たせ、夫差は番を取って帰国。楚はまた国都を取られてはかなわぬと鄀に遷都します。
当時、呉は伍子胥と孫武という二大軍師を得て西は楚を破り北は斉・晋を脅かし、南は越を服属させて旭日昇天の勢い。それから9年、呉は越を攻めましたが、越王勾践は呉軍を迎え撃ち、姑蘇の戦いで呉軍を破りました。たぶんこの時にはもう孫武が引退していたものと思われます。闔閭は指に矢傷を負い、そこから毒が回って死ぬのですが、今わの際に太子夫差に「汝は勾践が汝の父を殺したことを忘れるな」と言いのこします。闔閭が崩じ、夫差が立って王となり、伯嚭を太宰に任じました。
2年後、呉軍は越軍を夫湫山で撃破しましたが、勾践は辞を低くして降伏し、太宰の伯嚭に賄賂を贈っていきながらえます。伍子胥は勾践を許す夫差に「越人の特質はよく艱難辛苦に耐えることでありますから、いまここで滅ぼしておかなければ後々に禍根を残すでしょう」と諌めましたが聞き入れられませんでした。夫差は伯嚭の進言を用いて越と和睦します。それから5年して呉王は斉の景公が死んだ隙に乗じてこれを撃とうとしましたが、伍子胥はまたこれをいさめて「勾践が生きてこの世にある限り、必ず呉の災いとなりましょう。今、呉に越という内患がありながら斉を伐ろうとするのは、どうにもまちがっておられる」と、直言するから次第に疎まれるようになります。闔閭の時代に重きをなしたのが逆に夫差の気に食わなかったのかもしれません。ともあれ夫差は呉軍を動かして大いに斉を破り、意気揚々。これ以後伍子胥の言葉に耳を傾けなくなりました。この後も伍子胥はしばしば夫差を諌めますが、夫差はすべてこれを黙殺します。
で、太宰の伯嚭ですが、これがまたかつての費無忌の再来みたいな人物でありまして。剛直な伍子胥とはソリが合わない。しかも競争相手は蹴落とさなければということで夫差の耳に讒言を吹き込みます。曰く「子胥は強情乱暴で人情に乏しく、猜疑心・害毒心の強い男であります。王への怨みも深いことでしょう。先年、王が斉を撃たれたときも子胥は反対し、王が大功を立てると自分の謀が用いられなかったのを恥じて王を逆恨みいたしました――以下長文のうえただの愚痴なので割愛――先王の謀臣をもって自任しながら、いま用いられないからといって怏怏として楽しまず、王を恨むとは何事でありましょうか」と力説。夫差もあの爺はうざいと思っていたところで、「君の忠言がなくとも、わしもまた疑っていたところである」といって使者を伍子胥のもとに送り、属鏤の剣を賜って、「これで自害せよ」と。伍子胥は天を仰いで「嗚呼、讒臣伯嚭が乱をはかるというのに、王は却って私を誅せられる。王よ。私はあなたの父を助けて覇者とした。あなたがまだ太子に立たなかった頃、あなたのために謀って太子の座につけた。太子となったあなたは呉の国を分けて私にくれるといったが、しかし私はそれを望まなかった。というのに今、あなたはへつらい者の言葉に耳を傾け、私を殺そうとなさるのか」と嘆きました。そして自分の家臣に「わが墓のそばに梓の樹――棺桶になる木――を植えよ。それで呉王の棺桶が作られるように。また。わが目をえぐって呉の東門にかけよ。越軍が侵入して呉を滅ぼすのが見られるような。」と言うと、自ら首を刎ねて自決しました。呉王はこの遺言を聞いて大いに怒り、伍子胥の死体を革製の酒袋に入れて長江に沈めました。呉の人は憐れんで祠を長江のほとりに建て、胥山と名付けて祭ったそうです。その後伍子胥の予言したとおり、不撓不屈の精神で復活した越王勾践はついに呉を滅ぼし、伍子胥の予言は確かであったと人々はささやきあいました。
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