霍去病は大将軍・衛青の姉・衛少児の子である。その父・霍仲孺は先だってより霍少児と私通しており、それで生まれたのが霍去病だった。衛皇后が尊貴に上るにおよび、衛少児も詹事・陳掌の妻となる。霍去病は衛皇后の姉の子として、十八歳で侍中とされた。騎射をよくし、二度大将軍(衛青)に従い匈奴に出征。大将軍(衛青)が詔を受け、霍去病に壮士を予け、票姚校尉とすると、彼は軽騎の勇士八百を率いて大将軍の節度下を離れること百里、戦功を争奪し捕殺甚だ多し。ここにおいて武帝曰く「票姚校尉・去病は斬首捕獲二千二十八級、相国、当戸を生け捕り、単于の祖父たる籍若侯・産を殺し、単于の叔父・羅姑らを生け捕り、功は再び冠軍、二千五百戸をもって去病を封じ冠軍侯となす。上谷太守・?賢は四度大将軍に随い敵を捕殺すること千三百、これを終利功となす。騎士・孟已も功あり、関内功の爵を賜り邑二百戸とする」
この年漢朝は蘇建、趙信の両将軍を失う。翕侯・趙信は功多からずして匈奴に投降し、ゆえに衛青は増封されなかった。右将軍・蘇建はいったん匈奴に降って朝廷に帰ったが、天子はこれを誅さず、花銭(賠償金)をもって罪をあがなわせ庶民に落とした。また、天子は衛青に千金を賜る。このとき王夫人が武帝の正式な寵愛を受け、甯乗が衛青に説いて曰く「将軍は功労甚だ多く、身は万戸侯となられ、三子みな侯となられるも、これ皇后の故なり。今王夫人が皇上の寵幸を受け、しかして彼女の親族未だ富貴に上らずも、願わくば将軍、あなたのために王夫人の母に千金を献金し礼を尽くすべきであります」衛青は五百金を持って王夫人の母の寿ぎに送った。武帝はこの件につき衛青に問い、衛青は以て実情を答える。武帝は甯乗を海東都尉に左遷した。
校尉・張騫の軍は大将軍の出征に随行し、大夏に使いしたがその帰途、匈奴に捕えられ留められた。このとき彼は部隊を教導し、水草のあるところをよく知って軍を上させる事無く漢に帰国した。遠方異国に使いした功績により武帝は彼を博望侯に封じる。
霍去病は侯に封ぜられて三年、乃ち元狩二年の春、驃騎将軍とされ、万騎を率いて隴西に出征、功あり。武帝曰く「驃騎将軍は戎士を率いて烏?を越え、匈奴の?濮を討伐し、狐奴河を過ぎ、匈奴の五王国を歴し、輜重多く、人馬衆く捕え、降伏者を赦し、単于の子を捕え、転戦六日、焉支山を過ぎること千有余里、敵と短兵で合戦し、皋蘭山の下で苦戦し、折蘭王を殺し、廬侯王を斬り、抵抗する敵を殺し、その他全部を捕獲した。渾邪王の子および相国、都尉を捕え、首を取ること八千九百六十級。休屠王の祭天金人から鹵獲すること十中の七。よって去病に二千二百戸を加封する」
この年夏、霍去病と合騎侯・公孫敖、ともに北地より出でて道を分かつ。博望侯・張騫、郎中令・李広はともに右北平から出て道を分かった。李広は四千騎をもって先に行き、張騫は一万を率いて後に続く。匈奴の左賢王は数万騎で李広の部を包囲し、李広は激戦すること二日、死者過半を出し敵には更なる犠牲を強いた。そこに張騫至り、匈奴漸く退く。張騫は部隊が遅延して李広を窮地に陥れた罪により斬首に当たったが、(おそらくは花銭により)罪をあがなって民に落とされた。しかして霍去病は北地を出発してのち、匈奴の土地に深入りし、公孫敖は道に迷い、師を会すことを得ず。霍去病は祈連山に至って首を取り捕虜を得ること甚だ多し。武帝曰く「驃騎将軍は釣耆と居延沢をともに渉り、小月氏に到達し、祈連山を攻めて占拠し、?得(?は正しくは魚偏に楽)で武名を揚げ、単于の単桓、酋?王、都尉および降りしもの二千五百人、まことに投降者に寛大というべく、知は成りしかして止まずというべし。首虜三万二百、五王を捕え、王母、単于閼氏、王子五十九人、相国、将軍、当戸、都尉六十三人。去病の士卒は損害十分の三。ここに去病に五千四百戸を加封する。従軍校尉の小月氏の者には左庶長の爵位を。
鷹撃司馬・趙破奴は再び驃騎将軍に従って?濮王を斬り、稽且王を捕え、右千騎将をもって匈奴王、王母それぞれ一人、王子以下四十一人、俘虜三千三百三十人を生け捕り、先の俘虜千四百と合わせて趙破奴を従票侯となす。校尉・高不識は驃騎将軍に随行して呼于耆王の王子十一人、俘虜千七百六十八人を得、ゆえに高不識を宜冠侯となす。校尉・僕多は戦功により煇渠侯」合騎侯・公孫敖は軍停留し驃騎将軍と師を会せず、斬首に当たるべき処、罪を贖って民に落とす。諸宿将また去病に如かず。去病のところの兵は常に精鋭を選抜し、自ら敵地に深入し、常に壮騎と大軍の前に立つ。軍また天佑あり、いまだかつて困絶することなし。諸宿将は常に零落してよき戦機に恵まれず。ここに霍去病の顕貴、大将軍衛青に比す。
この戦いののち、単于は怒り渾邪王が漢軍に西面を破られたことを大いに怒り、渾邪王が万卒を失った相手がすべて驃騎将軍の打撃に依ると知ると、召して渾邪王を誅殺せんと欲す。渾邪王は休屠王らと商議して漢に降り、まず漢の代表と辺境上で商談する。このとき大行令の李息がまさに黄河の岸辺を修築していたところ、渾邪王の使者を捉え、乃ち馳せて以て上(武帝)に聞く。武帝は匈奴が辺境で待ち受けていることを心配し、すぐに命じて霍去病の軍を迎えに派遣した。霍去病の部隊は黄河を渡り、渾邪王の軍隊と遥かに相望み、渾邪王の裨王たちは漢軍到来を見て、投降するとは思わず紛々として逃走した。霍去病はすなわち馳せて匈奴の軍営に入り、渾邪王と相見え、逃走したもの八千人を斬り、渾邪王を駅車に乗せて皇帝の行在所まで護送する。また渾邪王の部衆も黄河を渡り、投降した匈奴は数万、号して十万と称した。彼らは長安に至り、天子より賞賜の銭数十万が与えられた。渾邪王は食邑一万戸を得て?陰侯。その裨王・呼毒尼は下摩侯に、雁疵は煇渠侯、禽黎王は河?侯に、大当戸・調雖は常楽侯に封ぜられた。このとき武帝は霍去病の功労を顕彰して、「驃騎将軍霍去、病部隊を率いて匈奴を討ち、西部の渾邪王およびその臣民を奔り投降させ、去病が軍糧を用いて彼らを援助し、併せて射手万余人を率いて驍悍凶悪の敵八千を誅殺し、異国の王三十二人を降伏さす。わが軍の戦士に損傷なく、却って十万人が誠心帰服する。由に於いて驃騎将軍、しばしば作戦功労有り、黄河の上に使いして辺塞の地に憂患を無くす。ここに千七百戸を驃騎将軍に加増す。隴西、北地、上郡の戌卒を半分に減らし、もって天下の徭役を軽減す」ここに投降した匈奴たちは分別して北辺五郡の関塞以外黄河の南に住まわせられ、彼らは彼らの習俗を守ることを許されて漢朝の属国を為した。翌年、匈奴が右北平と定襄郡に侵入し、漢人千余人を殺略した。
その翌年、武帝は諸将と議して曰く「翕侯・趙信は単于を引きずり出す謀を画策するも、漢朝の士卒常に沙漠を軽易に横断し停留すること能わずという。今大軍を発し、その勢を以て必ず得るところを欲す」この年は元狩四年である。春、大将軍衛青、驃騎将軍霍去病にそれぞれ五万騎の兵が与えられ、随行する歩兵数十万。しかして敢えて死戦を恐れず敵陣に深入りする士卒はみな霍去病の軍に属した。霍去病は準備を整えると定襄から出発し、直接単于の部を目指す。のち俘虜を捕え、俘虜が言うに単于は東面にありと。ここにおいて武帝は霍去病に代郡から出発し、衛青に定襄から出発するよう改めて令した。郎中令・李広が前将軍、太僕・公孫賀が左将軍、主爵・趙食其を右将軍、平陽侯・曹譲を後将軍となし、全軍を大将軍が指揮する。趙信の単于を引きずり出す計に曰く「漢の軍隊は大砂漠を超えるうちに兵馬皆疲弊窮乏し、匈奴の虜囚となるのみ」と。すなわちことごとく北に輜重を送り、皆以て精兵で沙漠を渡る。しかして適宜衛青の軍は出塞千余里、単于の兵陣して待つを見る。ここにおいて衛青は武剛車(砂漠用の大型戦車)を環して営をなし、しかして五千騎をもってほしいままに匈奴に当たり、匈奴もまた縦に撃して万騎。たまたまこの日この時分、突風大風沸き起こり、砂礫顔を撲って両軍互いに姿見えず。漢軍は左右両側面部隊を広げて単于を包囲し、単于は漢の兵甚だ多くかつ兵馬強壮であるのを見て、戦って匈奴の不利を悟り、たそがれ時、六匹の駱駝に車を牽かせ数百の精騎をもって漢軍の包囲を突破、西北に逃げ去る。この時天暗く、官軍と匈奴は混戦となり、双方互いに傷つけあった。漢軍の左校が俘虜を捉えるも、単于は既に天のいまだ黒きに乗じて逃げ離れる。漢軍は軽騎を派遣して連夜追撃し、衛青は自らその陣頭に立って追ったが、匈奴の兵は四散して逃げ去った。天が明るくなるにおよび、漢軍は二百里も追撃しており、もはや単于を追うことあたわず。ただ敵一万余を殺したのが戦果だった。真顔山(真は正しくは穴冠)の趙信城に至り、匈奴が備蓄してきた軍糧を奪い、これを部隊の食糧に充てる。軍を留めること一日にして還り、その前に趙信城の余剰の糧を悉く焼く。
衛青と単于の軍が会戦したその時、前将軍・李広、右将軍・趙食其の軍は別路東に向かい、道を失い迷った。大将軍が引き返して大砂漠以南に至ると、ようやく本軍と合流する。衛青は人を派遣して朝廷に状況を報告し、令長史が罪状根拠の文書を以て李広を責める。李広は自刎し、趙食其は庶民に落とされた。衛青入塞。全部で敵の首一万九千を斬った。
このとき匈奴は単于を失うこと十日、右谷蠡王が自立して単于を称した。単于がその衆を得て帰還すると、右谷蠡王は単于の号を廃した。
霍去病の率いる将領は騎兵と輜重を以て大将軍に随従し、しかして裨将に非ず。すべて任用されるのは李敢ら大校であり、これがまさに裨将であった。彼らは代と右北平から出撃すること二千余里、衛青が直接指揮して匈奴の左賢王の軍隊を撃ち、斬獲多数。功労は衛青に帰した。
すでに皆帰り、武帝曰く「驃騎将軍去病軍を率いて出征し、自ら親しく匈奴の兵を捕え、少ない器物を帯び、大砂漠に深入りし、渡河して単于の大臣・章渠を生け捕り、北車耆王を誅殺し、また転じて左大将・雙を撃ち、敵の軍旗戦鼓を鹵獲すること甚だ多し。また難侯山を過ぎ、弓廬水を超え、屯頭王、韓王ら三人、将軍、相国、当戸、都尉ら八十三人を生捕る。狼居胥山で天を祭り、姑衍山で地を祭り、山に登って翰海を眺望す。捕獲の俘虜は七万四百四十三人、自らの率いるところの損害は十分の二。敵に向かって軍糧を奪い、極遠までの行軍に糧草を絶やさず。もって驃騎将軍に五千八百戸を加封する。右北平太守・路博徳を驃騎将軍の属となし、興城にあって師を会させんとす。期を失せず、驃騎将軍は檮余山を撃ち、斬獲二千八百を得て、路博徳を封じて?離侯となす。北地都尉・衛山を驃騎将軍に従わせれば匈奴王を捕え、これまた封じて義陽侯。元来の帰義侯・因淳王・復陸支、楼?王・伊軒(軒の字は正しくは革偏)ともに驃騎将軍に随いて戦功あり、復陸支を杜侯、伊軒を衆利侯となす。従票侯・趙破奴、昌武侯・趙安稽もまた驃騎将軍に従って戦功あり、おのおの三百戸を加封す。漁陽太守・解、校尉・李敢は敵の旗鼓を鹵獲した功により関内侯、解は食邑三百戸、李敢は食邑二百戸。校尉・自為は左庶長」このように、霍去病の部隊から昇官したものは甚だ多かった。しかして衛青は増封なく、吏卒にも封ぜられるものなし。ただ西河太守・常恵、雲中太守・遂成の二人だけが賞を受ける。遂成は諸侯相として食邑二百戸、黄金百斤。常恵は関内侯。
衛青、霍去病の両軍が出塞しているとき、辺塞の官吏が官馬を検閲したところ私に馬を蔵するもの十四万匹、しかる後入塞に満たざる者三万匹。朝廷はすぐに大司馬の職を置き、衛青と霍去病を大司馬となした。令が定められ、驃騎将軍の秩禄は大将軍のそれに相当する。これをもってのち、衛青の権勢は日増しに衰え、霍去病のそれが日増しに顕貴となっていく。衛青の旧来の友人朋友も霍去病に投じて多くは官爵を得るに至るが、ただ一人・任安だけは衛青から離れなかった。
霍去病は沈毅にして寡黙、勇気あり、敢えて人に倣わず。武帝はかつて彼に孫呉の兵法を学ばせようとしたが、彼は回答して曰く「顧みるは方略の如何のみ、古の兵法学ぶに足らず」と。武帝はまた彼のために邸宅を建ててやろうとしたが、彼はまた「匈奴が消滅しておらぬのに、家など必要ありません」と言って断った。このことは武帝をしてさらに霍去病への寵愛を重くさせる。ただ、霍去病は若くして皇帝の側に侍り、尊貴寵愛になれていたので、多くの兵士に関心がなく、兵を領して出征のときも上の齎した数十乗の車に乗って生活し、食事のあまりの米や肉が出て、士卒が飢えていても平気でこれを棄てた。塞外にあって兵卒が糧に苦しみ、或いは飢えて振るわずというとき、霍去病は場地を開闢して玉蹴り遊び(ゴールがあったと言うことで、蹴鞠と言うよりサッカーのようなもの?)に興じていた。このような類の事は甚だ多い。衛青は仁者であり、あつく兵士を愛し、謙譲と礼儀の精神をもっていたが、柔和にして上に媚びるということで天下の称は衛青より霍去病に受けが良かった。
霍去病は元狩四年より三年後の元狩六年世を去る。武帝は非常に悲しみ、属国から黒衣の士兵を徴発して長安に並べさせ、軍を茂陵に至らさせた。茂陵は祈連山を模して造られたという。諡は“武”と“広地”を合わせた意味の景桓侯。彼の兄の子・霍?が爵位を継いだ。霍?は字を子侯といい、武帝はこれを愛し、彼を将軍と為すべく希望をかけた。霍?は奉車都尉となされたが、武帝の泰山受禅に随行し時を同じくして死んだ。霍?には子がなく、霍去病に与えられた広大な国は除かれることとなる。
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