解元

解元は字善長といい、保安軍徳清砦の人である。眉目秀麗の美丈夫にして猿臂、騎射を善くす。行伍より身を立て、清澗都虞候となった。建炎三年、大将・韓世忠の麾下に隷し、擢されて偏将。韓世忠は下邳から出て、金兵の大挙押し寄せるとの報せを聞くと士兵みな驚愕し、恐れたが、解元はただ二十騎を領して敵兵を擒え生捕り、敵の動息を知った。俄かに数百騎と遭遇するも、勇躍して身を自ら陣に陥とし、敵の酋長を横から刺して馬から墜せば余衆みな遁げ去る。この功により閣門宣賛舎人。苗傳、劉正彦の変でも韓世忠に従い、追撃して臨平に戦えば賊勢既に衰え、ついに浦城にてこれを擒える。

 四年三月、金人は浙西を攻めたが、韓世忠は京口に兵を治め迎撃し、敵が軍を返すその帰路、海艦をもって大江を横切るように塞ぐ。金人は小舟数十で出て、宋船の戦板に長鈎をかける。解元は別舸(小型艦)に載り勇躍して敵舟に乗り込み、短兵(剣や斧、手槍など)をもって将を撃ち殺すこと数十人、兵を擒うこと千余。忠州団練使、統制前軍を授かる。継いで従い閩の寇賊・范汝為を撃ち、湖外にて諸盗を転戦、討つ。時に劉忠白が面山に拠し、険に憑って塁を築いたが、韓世忠はこれを撃ち、賊営から三十里に迫って陣を張る。解元は独り馬に跨り水を渡り賊砦に薄り、四顧周攬(四方八方当るところ敵無し。大暴れしたという程度の意味)す。賊は山に因って望楼を設け、高から下を俯瞰し兵を以て之を守り、壮鋭四山に屯し、それを指呼して出戦する。だが解元は既に其の形勢を知っており、帰って韓世忠に告げて曰く「与し易し。もしその望楼を奪い拠せば、乃ち技極まるのみ」韓世忠は之を然りとし、まず解元率いる兵五百を遣わして長戟(長柄の武器)の中に居せしめ、翼から弓矢し、自ら部衆に下知して高みに趨れば、賊はこれを支えること敵わず。そこで望楼を占拠し、赤幟を立て、四面並進、これにより賊を平らぐ。解元は改めて相州観察使。

紹興四年、金人は偽斉の兵を合して入侵する。韓世忠は鎭江から揚州に趨り、解元に命じて承州に駐屯させる。金人近郊に至れば、解元は翌日城下に敵至るは必至と測り、百人を遣わして要路に伏し、百人を獄廟に伏し、自ら四百人を以て路隅に伏せる。そして令して曰く「金人過ぎるなり、我先出してこれに当たり掩す。要路に伏す者、我が旗幟を視て、乃ち幟を立ててもって待て、金人必ず獄廟に走る、伏者背より出よ」また河岸の堤を決壊させてその帰路をとどめる。金人は果たして城下に走迫り、解元は伏発を発す。金人は進めば伏兵退こうにも流水、とるべき道なし。そこで獄廟に走るも、解元はこれを追い百四十八人を俘虜とする、うち将官は二名。時に城中の兵は三千に満たず、金の万戸・黒頭虎は城下に向けただちに降れば助命を約すと解いたが、解元は兵力を隠匿したうえ、偽りの降伏の使者に微服(粗末な服)を着せて城から出す。これに対し金人が驕り怠るのに乗じ、にわかに伏を発して瞬く間に黒頭虎を擒えてしまった。まもなく四方の金兵集合するも、解元は戦ってこれを退け、追北すること数十里、金人見ずに堕ちて溺死する者甚だ多かったという。改めて同州観察使。六年、韓世忠は下邳から出て、数百騎をもって敵を破り兵を伏せ、保順承宣使を授かる。

 十年、順陽の地を略す。劉冷荘に至って率いるところは騎兵がようやく三百に対して敵は鉄騎数千。しかし解元が戈を振るい太呼するところ、衆も争って奮撃し、向かうところ披靡せざるはなかった。さらに敵の救援至り、味方後顧を疑い懼れるが、解元が振り向いて叱咤勉励して曰く「我ここに在り、汝ら慮る無し」といえば衆すなわち安じたという。転戦すること辰の刻から午の刻に至り、ついに敵を退け、整然として還った。龍神衛四廟都指揮使を加えられる。

 明くる年、韓世忠は兵権を罷めて枢密使となり、解元は鎭江府駐箚御前諸軍都統制となり代わって韓世忠の衆を統べる。その翌年、進んで侍衛親軍馬歩軍都虞候、まもなく保信軍節度使を授かる。年五十四にして卒。檢校少保を贈られた。

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