牛皐

牛皐(ぎゅう・こう。一〇八七-一一四七)
 牛皐、字は伯遠、汝州魯山の人なり。はじめ射士となり、金人侵入すると牛皐は衆を聚めてこれと戦い、しばしば捷ち、西道総管翟興に表されて保義郎。杜充が東京留守となると、牛皐は賊楊進を魯山に討ち、三戦して三捷、賊の餘党は奔潰した。累遷して榮州刺史、中軍統領。金人再び京西を攻めるも、牛皐は十戦してことごとく捷ち、果州団練使を加えられる。京城留守上官悟の引立てで同統制兼京西南路提點刑獄とされる。金人が江西を攻めると荊門より北に帰り、牛皐は軍を宝豊の宋村に潜ませてこれを撃ち、敗る。転じて和州防禦使、五軍都統制。また悖謹と魯山ま鄧家橋で戦い、これを敗った。転じて西道招撫使。偽斉が金師の入寇を乞うと、牛皐は要地に伏兵を設け、自らは丹霞に屯してこれを待つ。敵兵悉く至り、伏兵発し、その酋豪鄭努児を擒う。遷されて安州観察使、まもなく蔡島州信陽軍鎭撫使、知蔡州。敵に遇えば戦い頻りに勝って、親衛大夫を加えられる。

 たまたま岳飛が制置江西、湖北となり、まさに襄、漢より中原を窺う由となると、牛皐は命ぜられて岳飛の軍に隷す。岳飛は甚だ歓び、すぐに引き立てて唐鄧襄郢州安撫使となし、まもなく改めて神武後軍中部統領とする。偽斉の使い李成が金人と合して入寇し、襄陽六郡を破った。敵将王嵩は随州に在り、岳飛は牛皐に三日分の糧を以て行かしめ、糧未だ尽きずして城すでに抜く。王嵩を執えて斬り、卒五千を得、ついに随州を復す。李成は襄陽に在り、岳飛はまた牛皐に騎兵を以てこれを敗らせ、襄陽を復す。

金人淮西を攻め、岳飛は牛皐を遣わして江を渡らせ、みずから兵を引っ提げて牛皐と会す。時に偽斉の駆甲騎兵五千が廬州に薄り、牛皐遥かに金将に言いて曰く「牛皐ここに在り、なんじ胡の輩、見て犯を為すや?」衆皆愕然とし、戦わずして潰える。岳飛は牛皐に言いて曰く「必ずこれを追えば、去りてまた来るに益なしなり」牛皐は追撃する事三十里、金人互いに踏んで殺死する者相半ばし、その副都統制及び千戸五千人、百戸数十人を斬り、軍声大いに震う。

廬州を平らげ、中侍大夫に進む。岳飛の楊幺を平らぐに従い、これを破る。楊幺は技極まり、鐘子儀を挙げて水に投じ、継いですなわち自らを朴さん(自殺しよう)とする。牛皐は水に投じて楊幺を擒え、岳飛はその首を斬って函に収め都督行府に送った。よって武泰軍承宣使、改めて行営護聖中軍統制、まもなく湖北、京西宣撫司左軍統制、加えて龍神衛四廟都指揮使。

金人盟を違えるや、岳飛は牛皐に命じて汴、許の間に出師させ、牛皐の戦功最たるをもって天武四廟都指揮使、成徳軍承宣使、枢密行府をもって牛皐に提挙一行事務を兼ねさせる。宣撫司を罷め、改めて鄂州駐箚御前左軍統制、升遷して眞定府路馬歩軍副統総管、転じて寧国軍承宣使、荊湖南路馬歩軍副総管。

 紹興十七年上巳の日、都統制田師中が大いに諸将と会し、牛皐は毒に遭い、極かに帰り、書信に語りて曰く「牛皐年六十一、官は侍中に至るも、帝の寵足らず。南北通和を恨む所、馬革に屍をくるまれるを以てせず、顧うは城郭の下に死するのみ」翌日卒した。あるいは秦檜が師中を使って毒したと云う。

はじめ、秦檜講和を主張するも、まもなくして金は盟を破って入侵し、帝は手ずから岳飛に札を賜り便宜の措置を取らす。岳飛は即ち牛皐および王貴、董先、楊再興、孟邦傑、李宝らをもって東西京、汝、鄭、潁、陳、曹、光、蔡諸郡を経略させ、また梁興を遣わして江を渡らせ、忠義の杜を糾合して河東、北の州県を取らしむ。まもなく、李宝が曹州で捷ち、宛亭で捷ち、渤海廟で捷つ。董先、姚政は潁昌に克ち、劉政は中牟で捷つ。張憲は潁州、順寧府を復し、王貴の将楊成が鄭州を復す。張応、韓清は西京を復した。牛皐及び傳選は京西に克ち、黄河上に勝つ。孟邦傑は永安軍を復し、その将楊遇は南城軍を復し、また劉政と西京に勝った。梁興は大行の忠義の士および両河の豪傑、趙雲、李進、董栄、牛顕、張峪らと会して金人を垣曲に敗り、また沁水で捷ち、孟州の邵原まで追い、金の張太保、成太保らの部するところをもって降し、また金の高太尉の兵を済原に破った。喬握堅らは趙州を復し、李興は河南府、永安軍に克ち、梁興は河北に在って懐、衛二州を取り、大いに金のウジュを破り、山東、河北に金帛で馬綱の路を断って、金人大いに憂う。まもなくして岳飛朝して還らず、下獄して死す。世に恨みを以て為すと云う。

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