遼-耶律隆運

耶律隆運、本姓は韓、名は徳譲、西南面招討使匡嗣の子なり。統和十九年、徳昌の名を賜り、二十年、耶律の姓を賜り、二十八年、また名を賜与されて隆運。重厚にして智略有り、功を建てることを喜んだ。

景宗に侍り、もって謹み戒めるを聴き、東頭承供官を加えられ、補枢密院通事、轉じて上京皇城使、はるかに彰徳軍節度使を授かる。代わってその父匡嗣が上京留守、権知京事となり、はなはだ声あった。まもなくまた父に代わって南京を守り、時の人これ栄えるという。宋兵河東を取り、燕に侵攻し、伍院糺詳穏(官名)奚底、統軍蕭討古ら敗れて還る。宋兵城を囲み、脅し招いて甚だ急、人は二心を抱く。隆運は城に登り、日夜守禦し、援軍至って囲み解ける。高梁河に戦うに及んで、宋兵敗走、隆運激しくこれを撃ち、またこれを破る。功をもって遼興軍節度使を拝し、徴されて南院枢密使となる。

景宗病でようやく戻り、耶律斜軫とともに遺命を受け、梁王を天子と為す。皇后は皇太后となり、天子に代わって政務を取る。隆運の總宿衛の事、太后益々これを寵任し、隆運太后より出師して宋兵を敗り、守司空を加えられ、楚国公に封ぜられる。師還り、北府宰相室昉とともに国政を執る。山西四州しばしば兵を被ると言上し、加えて以てこの年飢饉。よろしく来流民の税賦を軽くし、上これに従う。六年、太后撃鞠を観、胡里室隆運を馬から堕とすも、命により立ってこれを来る。詔により師を将いて宋を伐ち、沙堆を囲み、敵が夜に乗じて奇襲を仕掛けてくるのを隆運は軍を厳にして待ち、これを走らす。封ぜられて楚王。九年、燕人がまた挟姦を言うので、賦役を免じ、貴族因りて袋を為し、北院宣徽使趙智に遣わして諭し誡めんと。上これに従う。

十一年、母の憂いに当たるも、詔により強制されてこれを起こす。翌年、室昉政を致し、隆運は以て北府宰相の代わりとなり、則ち枢密使を領し、国史を監修し、興化功臣を賜る。十二年六月、奏して三京諸獄の官吏を極め、多く因りかこって請い、曲げて刑罰を緩め、あるいは行いに妄りに鞭打って調べる行いを乞うて禁じた。上その奏を可とす。また奏して賢任邪去、太后悦んで曰く「賢くして輔政を進める、真の大臣の職」加えて賞与、礼服、さらに守太保兼政事令。たまたま北院枢密使耶律斜軫薨り、詔により隆運これを兼ず。まもなく大丞相を拝し、斉王に進められ總二枢府事とされる。南京、平州をもってこの年登らず、奏して百姓の農器の錢を免じ、及ぶに請うて諸軍の商売の値を平らかにし、商人これに従う。

二十二年、皇太后に随い南征、黄河に及び、宋を許すを為して還る。進められて晋王とされ、姓を賜り、宮籍を出で、隷横帳から父の後を継ぎ、改めて改名し韓徳譲とし、位は親王の上、田宅及び陪葬地を賜る。

高麗討伐から還り、病末期となり、帝と皇后親しく臨して薬を飲ます。薨る。享年七十一。尚書令を追贈され、文忠と諡され、葬具を官給された。乾陵の側に廟を建てられる。子はない。清寧三年、魏王耶律貼不の子耶律耶魯が継ぎ、天祚帝が立つや皇子敖廬幹がこれを継いだ。

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