宋太祖趙匡胤

 趙匡胤は宋の太祖である。涿州の人で927年生まれ、976年没。後周の著名な大将であったが、960年陳橋の兵変で皇帝に即位し、宋王朝を建立した。彼は各個撃破戦略を駆使して荊南、湖南、後蜀、南漢、南唐などを前後して攻略、中央集権を推し進めて、唐以来分裂していた天下をふたたび統一した。

趙匡胤は将門の子であり、先祖は代々官途についた。高祖父は趙洮といい、唐朝で永清、文安、幽都の大令。曽祖父・趙珽は藩鎮の主を歴官した。祖父は趙敬といい営、薊、涿の三州刺史。父は趙弘殷、後唐で官を重ねて検校司徒、留典禁軍。趙匡胤はこの趙弘殷の長子であり、唐の天成2年に洛陽で生まれ、成長すると容貌魁偉、度量大きく、闊達であり、騎射を学んで驍勇人に傑る。後漢のはじめ、周の太祖郭威が枢密使であった頃、李守貞討伐のときの募兵に趙匡胤は応じ、郭威の帳下に起居して征伐に従い、しばしば戦功を立てる。この功績により滑州副指揮。周の世宗が京兆尹なると、趙匡胤は開封府馬直軍使となされた。

 954年、世宗柴荣即位。趙匡胤を留典禁軍に命ずる。このとき、北漢の主・劉崇は遼と連合し、世宗の新たに立ったのに乗じて三万の軍と騎兵1万で大挙来寇した。世宗は北方危急の知らせに接すると自ら禁軍を率いて強行軍で北上、北漢軍を高平で拒む。両軍陣を整えたのち、接戦となるや、突然周の将帥樊愛能、何徽が歩騎数千を率いたまま北漢に投降、これにより周軍は窮地に陥る。趙匡胤はこの状況を見るや大声を上げて諸将を糾合し、馬を躍らせ突撃、敵中に沖撃を加え、その鋭鋒はなはだ鋭かった。北漢軍はこれを支えきれず、ふんぷんとして退き倒れ、周軍はこの勢いに乗じて追撃、北漢軍は河東に下がって城に入り、堅守の構え。翌日、世宗は自ら督戦して城を攻め、城から矢石が雨嵐と降り注ぐ中を趙匡胤は士卒に先んじて登城した。火をかけて城門を焼き壊したが、趙匡胤の左ひじに矢が当たり、流血止まらなかった。世宗は城下に兵を屯し、とうぶん恐れるべき計略なしと見て取るや、兵を引いて汴京に帰った。戦後、趙匡胤は殿前都虞侯に抜擢され、厳州刺史を兼ねる。

 956年、趙匡胤はまた世宗に従い、淮南征伐。趙匡胤は先遣の南唐軍と遭遇、南唐の兵馬都監、何延錫を斬る。南唐では危急を聞き、節度使皇甫暉、姚風に十万余を与えて派遣、彼らは清流関に拠して険阻を頼み、周軍を拒む。趙匡胤は身を乗り出し、啓奏して曰く「わたくしに二万の兵をお与えくだされば、関を奪ってごらんに入れます」これに対して世宗は「卿は忠勇といえども、かの関城は堅固。また、皇甫暉、姚風は南唐の健将であり、これを下すことは困難であろう」趙匡胤は応じて「皇甫暉、姚風が真の勇者ならば、関を開いて出戦してくるでしょう。いま関に迫りながら内にとどまるは明らかに怯懦。敵の不意に出て、一鼓関を奪うべし」世宗はうなずき、その言を容れる。すぐさま2万の兵を趙匡胤に与えた。趙匡胤は将士に旗を隠し息をひそめるよう命じ、星の夜に進み、関のもとにたどりつくと、未明のうちに自ら勇士を率い、関門に伏兵を埋伏させた。城内では周軍いたることを夢にも思わず、そらが明けるや偵察の騎兵を出して敵情を探ろうとした。はからずも関門が開いたその瞬間、趙匡胤は手に刀を握って突撃、門衛数人を立て続けに切り殺し、一挙関内に入って力の限り殺戮した。城内は備えなく、趙匡胤の一団がつくった混乱に組織だった抵抗をすることができず、皇甫暉、姚風は慌てふためいて逃げ去った。趙匡胤は斬獲多数を得てまた追撃し、滁州城下を直撃、雲梯をかけて全軍猛攻をかける。皇甫暉は城墻から趙匡胤に向けて「貴公も我もその主のために戦う身、貴公がしばらく下がられれば我は城を出て陣を列べ、一戦して勝負を決さん」それを聞いて趙匡胤は攻撃を停止、兵を下がらせ、陣が並ぶのを待つ。約半日後、皇甫暉と姚風は兵を率いて城を出た。趙匡胤は敵にまみえて士卒に先んじ突撃、敵陣に入り、陥し、皇甫暉と姚風の二将を捕らえる。唐軍は大混乱に陥り、滁州城は戦わずして降る。趙匡胤は城に入り民を安んじ、使者を遣わして世宗に捷報を言上した。

 滁州が下ったことで南唐は大いに震撼した。唐主・李璟は弟の斉王・李景を元帥に任じ、6万の精兵を与えて江北に向け進発させた。斉王は揚州に迫り、六合と呼応する。このとき揚州はすでに趙匡胤の父・趙弘殷の奪取するところとなっており、趙弘殷が滁州に帰ると韓令坤が揚州の留守を守った。韓令坤は唐軍いたるを聞くや衆寡敵せずを畏れ、滁州に救援を乞う。世宗はまた詔を出して趙匡胤に六合への急行を命じ、兼ねて揚州救援を命じた。趙匡胤はこの命を受けて自ら選抜した精鋭の騎兵2万を率い、即日東に向かって六合を目指す。揚州の主将韓令坤が城を捨てて西に奔ったと聞き、憤然を禁じえず「揚州は江北の重鎮、もしまた南唐にこれを復されれば、大難いたる」また、配下に厳命し「揚州の兵ここを過ぎらば、これを放置すること許さず」また書を書いて韓令坤に送り、そこで「貴兄、揚州を一歩離れるは、上への忠誠を無にし、下の友情を無にす。昔日の英名、今はいかに?」韓令坤は憤激、兵を督して引き返し、揚州を再奪回して堅守、攻め寄せる南唐の偏将・孟俊を斬る。南唐軍は揚州の戍りはなはだ厳であると聞き、揚州は置いて顧みず、軍を率いて西の六合に進む。六合から20里の塞を前にして周軍と唐軍は対峙し、対峙すること数日。趙匡胤は武将の凝匡胤が戦いを前にして怯えるのに速戦で勝敗を決すことに決し、諸君、なすところをしらずんば、我ただ2000をもって堅守りに突撃、勝つことははなはだ難なり。もし来戦あれば、我逸を以て労を待つ。勝たざるを憂うことなし」また数日経過。唐の李景は果たして軍を率いて来戦、双方激戦すること半日、勝負わからず、各自軍を収める。翌日再び戦い、趙匡胤は再三兵を督して将士を励まし、周軍は勇戦してついに南唐軍を大いに破る。斬殺万余を数え、唐軍は江南に撤退、捷ちをえて世宗のもとに凱旋した趙匡胤は殿前都指揮使を拝命、また定国軍節度使。

 957年春、南唐軍は周軍が北に帰った隙に乗じて将軍、朱元を派遣、江北に出兵して舒、和、薪の各州を攻め取り、兵鋒は揚州、滁州を衝く。滁州の守将は風聞を聞いて淮北に下がり、南唐軍はまっすぐ寿春をついた。世宗は自ら寿春救援に出ることを決し、趙匡胤はその偏将として随行。趙匡胤は遊撃としてたちまち南唐の営塞を取り、南唐軍が出戦すると趙匡胤は戦いかつ下がり、城の南門まで引きずり出すと趙匡胤は翻身、敵の陣中に躍り込み、南唐の連珠営を立て続けに破って唐軍を大いに破り、二万人を喪わしめて南に引き下がらせた。周主に従って京師に帰り、この一戦の功績で義成軍節度使、検校大保。この年冬、周世祖は淮泗に出、趙匡胤は自ら請うてその先鋒となる。兵は泗水の北18里の灘にいたり、対岸には南唐軍の陣営が森のように並ぶ。趙匡胤は騎兵を率い、躍馬水に入って流れを断ち川を渡り、敵営を直撃、大いに敵軍を破り、敵船数隻を得る。勝ちに乗じて船で下り、泗州の城下を衝いた。泗州城の主将は恐慌をきたし、城を上げて投降。その他の各地も情勢を見て一斉に周に靡く。さらに勝勢に乗って楚州を攻撃、趙匡胤は水軍を率いて清江口に入り、力戦して城を破る。勢いのままふたたび揚州を下す。南唐主は大いに惧れ、表をもって和を請い、ついに江北の地をことごとく割譲、ここに兵たちはようやく息をつく。世宗はここで趙匡胤に忠武軍節度使を授けた。

 959年、世宗は北の煩いを除こうと、また親征を決断。趙匡胤を水路都部署に任じた。趙匡胤は水軍を率て出発、進んで莫州にいたり、まず瓦橋関にいたった。守将・姚内斌は騎兵数千を率いて関を出、迎撃。趙匡胤は奮力勇戦してたちまちに関を下し、翌日、姚内斌を下す。趙匡胤は主上を関内に導いた。世宗は北進継続を欲したが、ここで病を得てついに班師(撤兵)せざるをえなかった。趙匡胤は検校大傳、殿前都点検を拝命し、その威名これより天下に轟く。年末、世宗崩御、7歳の継嗣柴宗訓が即位して趙匡胤を帰徳軍節度使、検校大尉とした。殿前都点検は従前のまま。

 960年、北漢と遼が連合して北辺を騒がす。趙匡胤は命を受けて各鎮の諸将を率い、出征。しかし軍が陳橋駅にいたったところで兵変が起こり、黄袍をかぶせられて趙匡胤は皇帝に即位、宋朝を建立した。趙匡胤は即位後、その年のうちに昭義軍節度使・李筠、淮南節度使・李重進を消滅させ、しかるのち、各個撃破の戦略を立てて各地の割拠勢力を順次に、前後して荊南、湖南、後蜀、南漢、南唐と下し、また諸将を選抜して北方の防備にあて、契丹への防御を強化する。さらに先代までの教訓を顧みて、禁軍諸将と藩鎮の兵権を削減、高級将領が兵を擁して身を固めることを防止した。また、文臣を地方に派遣して地方の軍閥将領に代え、地方の財政を掌握した。これらの中央集権を推進。彼はまた荒れ地を開墾して水利(ダム)を興し、運河を整備し税制措置を強化した。彼のこれらの政策は封建専制主義的中央集権として、割拠勢力や藩鎮が力をつけることを長らく防いだ。しかしながら外部の異民族に対する防御力はついに育まれることがなく、宋という国は外寇に悩まされ続けることになる。

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