耿純(?-37)
耿純は字を伯山といい、鉅鹿宋子の人である。父・耿艾は王莽の世で済平尹となった。耿純は長安に在って学問を求め、のち納言士とされた。
王莽が失政して更始帝が即位すると、舞陰王・李轍の招きで諸郡国は投降し、耿純の父・耿艾も投降して済南太守とされた。このとき李轍兄弟が政治を専断し、大権を独掌したので、賓客説客は甚だ多かった。耿純は連続して拝謁を求めたがなかなか好みを得られず、長らく後になってようやく接見したとき、李轍に勧め説いて「大王には竜虎の資質有り、風雲の時に遭って迅速にそばだたれ、一か月のうちに兄弟して王を称され、ただ恩徳威信を士民聞かず、功労いまだ百姓において施せざる。寵禄暴興、これ知者の忌むところ。兢々として自ら危ぶみ、なお懼れ終わらず、しかして況や雨激しく降らば自ら足り、成功者を以てすべしにあらんや?」李轍はこれを奇とし、かつその鉅鹿の大姓をもって皇上の旨を聴き、耿純を騎都尉に拝任し、符節を給わり趙・魏の平定を任じた。
たまたま劉秀が黄河を渡って邯鄲に至るとき、耿純はすぐこれに謁見を申し入れ、劉秀は深くこれに接す。耿純は下がり退き、劉秀の部下の将兵がほかの将兵と法度同じからざるを見て、ついに自ら好を結び、駿馬および帛数百匹を献じた。劉秀は北上して中山に至り、耿純は邯鄲に留まる。たまたま王郎が造反し、劉秀は薊から疾駆東南に馳せ、耿純と従兄弟の耿訴、耿宿、耿植とともに宗族賓客二千余人、さらに老病のものをみな棺材に載せて付き従わせ、育県で劉秀を迎えた。劉秀は耿純を前将軍に拝命して耿郷侯に封じ、耿訴、耿宿、耿植らをみな偏将軍とし、かれらを派遣して耿純を先鋒とし、宋子を投降させ、劉秀はそのあとをついて下曲陽と中山を攻め打った。
このとき郡国の多くは邯鄲に投降し、耿純は宗家が異心を抱くことを恐れ、そこで耿訴、耿宿を使わしてその廬舎を焼く。劉秀は耿純にその故を問い、耿純はこれに答えて「私が見るに明公は単車をもって河北に来られ、府臧の蓄なく、重賞甘餌、もって人を聚めるべきなれど、ただ恩徳をもってこれに懐け、これにより士兵楽しんでこれに帰す。今邯鄲自立し、北州に疑惑あり、純、族を挙げ命に帰すといえども、行在するは老弱、なお宗人恐れ賓客の半ばは不同心者に過ぎず、故にその房室を焼き、その反顧の望みを絶つ」というので劉秀は慨嘆した。鄗に到って劉秀は駅站に在り、鄗の大姓・蘇公は城に拠し劉秀に反叛して城門を開き王郎の将・李惲を迎えた。耿純は先んじてこれを知覚し、兵を将いて逆に李惲と交戦し、大いにこれを破りこれを斬る。こののち劉秀は邯鄲を平定し、また銅馬を撃ち破った。
時に赤眉、青犢、上江、犬彤、鐵脛、五幡が十余万の衆を并せて射犬に在り、劉秀は兵を将いてこれを撃つ。耿純は軍の前に在り、営を去ること数里。賊は忽然と夜、耿純を攻め、営中に矢を雨と射かけて将士に死傷者多数。耿純は部隊を勒し堅守して動かず、決死隊二千を選抜し、総員に強弩を持たせそれぞれに三本の矢を持たせ、枚を銜えて悄悄と行動、賊軍の後ろに出て一斉に吶喊、強弩を斉射したので、賊衆は驚いて走り、追撃してついにこれを破る。騎兵を馳せて劉秀に報告した。劉秀は翌朝、諸将とともに営に到り、耿純を労って「昨夜は困ったことであったな?」耿純は答えて曰く「明公の威徳を頼り、幸いにして全きを獲ました」劉秀曰く「大軍は夜行動する能わず、ゆえに汝を救援する能わず。軍営は進退常なく、卿の宗族悉く軍中に居るべからず」そこですぐに耿純の族人・耿伋を蒲吾の県令となし、彼を以て蒲吾県に住まう親族を率いさせた。
世祖が即位すると、耿純は高陽侯に封ぜられた。劉永を済陰、下定陶に撃つ。初め、耿純は王郎を攻めたとき、馬から堕ちて肩を折り、時に疾病を発し、還って懐宮に詣でた。帝が問うて「卿の兄弟、誰か使者とすべし」耿純は従弟の耿植を推薦し、これにより耿植は耿純の軍営を統率したが、耿純も以前どおり将軍職にとどまった。
時に真定王・劉揚がまた讖言を作って曰く「火徳九代の後、瘤揚主とならん」劉揚は病により瘤があり、衆を惑わすことを欲して綿曼の賊と好を結んだ。建武二年春、世祖は騎都尉の陳副、遊撃将軍・鄧隆を召して劉揚を懲罰せんとしたが、劉揚は城門を閉ざし、陳副らの入城を阻んだ。そこでまた耿純が符節をもって遣わされ、耿純は道々幽州、冀州で大赦を行い、経過した地方で使者を遣わして王侯を慰労した。世祖の密勅に曰く「もし劉揚を見れば、すぐにこれを収め(逮捕せ)よ」耿純は将士百余騎を連れて陳副、鄧隆と元氏で会し、ともに真定に到り、駅站に止まる。劉揚は病と称して拝謁せず、もって耿純を真定の宗室の出といい、使いを遣わして耿純に書を送り、相見えんと欲す。耿純は返答して曰く「命を奉じて王侯牧守会見し、ゆえに先ず去った汝を見ること能わず。もし見相を想うなら、城を出て以て駅站に来るべし」当時、劉揚には弟の臨邑侯・劉譲と従兄の劉細が各々万余の兵を擁し、劉揚は自らの衆の強さを恃みしかしてかつ耿純の意を安静にし、すぐに属官を従えて彼を詣で、兄弟とも軽兵を将いて門外に在り。劉揚が耿純に入見すると耿純は敬礼をもってこれに接し、機に乗じて兄弟の入場を請う。兄弟皆駅站に入ったところで門を閉ざし、悉くこれを誅し、部隊を統領して駅站を出た。真定は震えて怖れ、敢えて動くものなし。帝は劉揚、劉譲の謀略不発を憐れみ、并せてその子を真定に封じて故国を回復した。
耿純は京師に帰ると、この機に乗じて自らの請求を説き、曰く「わたくし(臣)は本来吏家の子孫であり、幸いにも大漢復興の手伝いができ、聖帝の命を受け、位は将軍に列し、封爵は侯に通ず。天下平定されてわたくしの志を用いるところなく、願わくば試しに一郡の治を、尽力功労いたしますゆえ」と願った。帝は笑って「卿はすでに武を治め、また文をも修めようと欲すのか?」といい、耿純を東郡太守に拝任した。時に東郡はまだ平らがれなかったが、耿純が視察すること数か月で盗賊たちはきれいさっぱりいなくなった。建武四年、詔により耿純の将兵は更始の東平太守・范荊を撃ち、これを降す。さらに進撃して太山、済南および平原の賊、悉くこれを平らぐ。東郡にあること四年、時の発干県令に罪があり、耿純は奏文を案出して囲んでこれを守るも、奏文未だ下らずして県令は自殺した。耿純は罪に連坐して免官され、列侯の身分も朝廷に奉還した。帝の董憲討伐の折、東郡を通過するとき、百姓老若数千人が車駕にとりついて号泣し、「願わくばまた耿君を得んことを」と言ったので、帝は公卿に「耿純と言えば若年のころ甲冑を穿いた軍吏があるのみだが、治郡の能を見せつけられるとは思わなかったな?」と語って耿純を復官させた。
建武六年、東光侯に封ぜられる。耿純は国に就くことを辞したが、帝の「文帝の周勃を言うに“丞相は吾が所に重く、君我が率いる諸侯の国に就くべし”と。今また然るなり」耿純は詔を受けて行く。鄴に到り、穀物万斛を賜る。国に至り、死者を弔い病を問い、民から敬愛を受けた。八年、東郡、済陰に群盗蜂起し、朝廷は大司空・李通、横野将軍・王常を遣わしてこれを撃たしむる。帝は耿純の威信が卓著な衛の地において使者を遣わし太中大夫を拝し、東郡で大軍と会させる。東郡では耿純が入界したと聞くや盗賊九千余人みな耿純に投降し、大軍は戦うことなく京師に帰った。璽書によりまたもって東郡太守となされ、吏民悦んでこれに服した。建武十三年、官上に卒。諡は成侯。子の耿阜が後を継いだ。
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