鄭吉(てい・きつ。?-前四十九)
鄭吉は会稽の人であり、行伍(兵卒)出身である。しばしば西域に出て、この由を以て郎となる。人となりは強堅にして執着強く、外国の事情に習熟する。張騫が西域を開拓し、李広利がそれを征伐してのち、西域にははじめて校尉が置かれ、渠黎に屯田がはじめられた。宣帝のとき、鄭吉は渠黎屯田となり、穀物を積み、兵を発して諸国を攻め車師を破り、昇遷せられて衛司馬。護領を派遣して鄯善の西南道を護る。
神爵年間、匈奴の内乱発生、日逐王・先賢が漢に降るを欲し、使いの人と鄭吉は相連携す。鄭吉は渠黎を発し、亀茲らの国五万人をもって日逐王を迎え、口に一万二千と号し、王の小将十二人を従えて河曲を渡る。逃走を欲するもの頗る多くあるも、鄭吉は追ってこれを斬り、ついに京師にこれを詣でさせる。漢帝は日逐王を帰徳侯に封じた。
鄭吉はすでに車師を破り、日逐王を降し、威は西域を震わす。ついに併せて車師の西北道を護り、号して都護。西域に都護として置かれたのは鄭吉が始めてである。皇帝はその功とてがらを嘉し、詔を降して曰く「都護西域騎都尉・鄭吉、外国の蛮を安撫し、威信を宣明にし、匈奴単于の従兄・日逐王の衆を従え、車師を兜訾城に破り、功績顕著。よって吉を安遠侯に封じ、食邑一千戸とする」鄭吉はここにおいて西域に幕府を立て、烏塁城を治め、諸国を鎮撫し、安撫に従わぬものを誅伐する。漢の号令範囲は西域にまで広がり、これは張騫に始まって鄭吉によって成る。このことは『西域傳』に詳しい。鄭吉薨ってのち、諡は繆侯。息子の鄭光が爵位を継ぎ、しかし鄭光には子がなかったため、封爵を除かれる。元始年間、絶えた功臣の中で罪を獲たものでないものが復され、鄭吉の曾孫・鄭永が安遠侯に封ぜられた。
漢書九十六巻の下、西域列伝より抜粋。
地節二年、漢は侍郎鄭吉、校尉司馬憙をもって遣わし、刑罪人を率いて渠黎に赴かせ、穀を積んで、車師を攻めるを欲す。秋の収穀に至り、鄭吉、司馬憙城郭を発して諸国の兵万余人と自ら率いるところの田士千五百人をもって車師を撃ち、交河城を攻めてこれを破る。王なお石城の中にあり、いまだ得ず、たまたま軍糧尽き、鄭吉ら兵をやめて渠田に帰る。畢に秋の収穫を終え、また兵を発して石城に車師王を攻める。王は漢兵至るを聴くや北(逃げ)して匈奴に救いを求めるも、匈奴未だ兵を発することなし。王還り、貴人蘇猶と議して漢に降るを欲し、恐れ見て信じず。蘇猶は王に匈奴が辺境の小国を伐ち斬首し、その地の民を略すを教え、もって鄭吉に降る。車師は金附国が漢軍にしてのち車師から盗むを知り、車師王また自ら請うて金附を撃破する。
匈奴は車師が漢に降るを聴くや、兵を発して車師を撃つ。鄭吉、司馬憙は兵を率いて北にこれを迎撃し、匈奴敢えてこれに前せず。鄭吉、司馬憙は侯に進められ、二十人の卒に王の留守を守らせる。鄭吉らは渠黎に引き返した。車師王は匈奴の兵を恐れてまた至るをこれ見殺し、軽装騎兵で烏孫に奔り、鄭吉は即刻その妻子を渠黎に人質として引き取る。東に奏して酒泉に至り、詔を受けて渠黎および車師の田に帰り、西国に穀をますます積んで安ぜるところに、匈奴侵攻す。鄭吉還り、車師王およびその妻子を長安に詣でさせて、賞賜甚だ暑し。毎朝四夷のことを会し、常に尊顕をもってこれを示される。ここにおいて鄭吉ははじめ吏卒三百人を率いて車師に屯田す。降るというものを得れば単于大臣みな曰く「車師の地は肥えて美しく、匈奴に近い。漢これを得たと雖も、多く田の穀を積み、必ず国人を害す、争わざるべからずなり」果たして騎兵を遣わして田者を襲い、鄭吉即ち校尉としてまさに渠黎の田士千五百を田に率いて往かせる。匈奴また騎兵を増して来たりて、漢の田卒寡少にして当たらず、車師城中に保つ。匈奴の将は将に即ちその城下で鄭吉に謂いて曰く「単于はこの地必争という。田地とすべからず」城の囲みは数日にして解ける。のち数千騎が往来して車師を守り、鄭吉言上して曰く「車師は渠黎から去ること千余里、間に山河あり、北に匈奴ある。漢兵渠黎にあるもの勢い相救う能わず、願わくば田卒を増されんことを」公卿は議して以て道遠く費用煩雑なるを認め、車師の田者かつやめるべしと。詔により長羅侯まさに張掖、酒泉より騎馬出撃して車師の北千余里に出、威武を揚げて車師を労す。胡騎引き下がり、鄭吉即ち出るを得、渠黎に帰り、凡て三校尉にて屯田す。
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