王覇(おう・は。?-59)
王覇は字を元伯といい、潁川潁陽の人である。代々文法(法律)を好み、父は郡の决曹掾となり、王覇もまた若くして獄吏となった。常々慷慨して吏職を楽しまず、父はこれを奇として王覇を西の長安に学びに遣わした。漢の兵起こり、劉秀が潁陽を通過するとき、王覇は賓客を率いて上に謁し、曰く「将軍は義兵を興され、それがしは身の程知らずにも威徳を貪慕するもの。願わくば行伍にお充てくださいませ」劉秀曰く「賢者を夢想し、ともに功業をなさんとおもっていたところに、どうして二心を疑おうか!」ついに従って王尋、王邑を昆陽に撃破し、郷に還って休む。
劉秀が司隷校尉となって潁陽を通り過ぎると、王覇は父に請うて従軍を願う。父曰く「儂は老いて軍旅を任せられぬ。お前は行って勉めよ!」王覇は劉秀に従い洛陽に至る。劉秀が大司馬となると、王覇は以て功曹令史となり、したがって河北に渡る。王覇には随行の賓客が数十人いたが、ようやくにして引き下がった。劉秀が王覇に謂いて曰く「潁川で我に従うものはみな逝ってしまった。ただ君一人があるのみである。努力しよう! 勁草が疾風を知るがごとくに」
王郎起こり、劉秀は薊に在って、王郎は檄文を飛ばして劉秀の首を購うとした(懸賞金をかけた)。劉秀は王覇に令して市中の募人に紛れさせ、まさにもって王郎を撃たんとさせる。しかし市民皆大いに笑い、王覇の挙げた手を揶揄したので、王覇は慙愧して還った。劉秀はそこで南に馳せ下曲陽に到る。伝聞に王郎の兵がすぐうしろに逼ると聞き、従者皆恐れた。滹沱河に到り、候吏(偵察兵)が還って報告するに河の水尽きる事無く流れ、船なく、渡るべからず。官属大いに懼れる。劉秀は王覇に令してこれを視にゆかせ、王覇は恐れ衆は驚く。欲するは前進する間氷が阻まれんことを。還って詭弁を曰く「氷堅くして渡るべし」官属みな喜ぶ。劉秀答えて曰く「候吏の言は妄言だったようだ」と言って遂に進む。川辺に至ると河の水は氷結しており、ここにおいて王覇には隊伍の渡河護衛の任が令されたが、いまだ数機が渡り終える前に氷が解けた。劉秀は王覇に謂いて曰く「よく吾が衆がこの河を渡りえたのは、卿の力だ」と。王覇は答えて「これは明公の至徳、神霊の佑けというものであって、周武王の白魚の兆(?)といえども、この強運には比べられませぬ」劉秀は官属たちに曰く「王覇の権計をもって大事の成就を為したことは、ほとんど天瑞である」といい、王覇を軍正、関内侯に昇遷させた。信都に至り、兵を発して邯鄲を攻め、抜く。王覇は王郎を追ってこれを斬り、その璽綬を得た。功により王郷侯に封ぜられる。
劉秀に従って河北を平定し、常に臧宮、傳俊とともに営を並べるが、王覇一人がよく士卒を撫した。死者に自らの衣服を脱いで穿かせ、傷を受けたものは自ら親しく彼らを養護した。光武帝が即位すると王覇はよく兵士を理解し愛護することから独立した任に就けられ、偏将軍を拝し臧宮、傳俊の部隊を統領した。臧宮、傳俊はともに騎都尉。建武二年、改封して富波侯とされる。
四年秋、光武帝が譙県に幸すると、王覇と捕虜将軍・馬武は東の垂恵において周建を討った。蘇茂率いる五校の兵四千余が周建を救援し、精騎をもって馬武の軍糧を断とうとしたので、馬武は前進してこれを救った。周建は城中から出撃して馬武を挟撃し、馬武は王覇の助けを受けてこれを迎え撃ったが戦に尽力できず、蘇茂、周建の前に一敗地にまみれた。馬武の軍は逃げながら王覇の軍営の前を通過し、大声で救いを求める。王覇は「賊は兵威盛んであり、出れば必ず敗北するでしょうから、あなた方も努力して軍営を出ないようになさい」といって関門を閉ざし営門を固守した。軍吏はみな争いを勧めたが、王覇は「蘇茂の兵は精鋭であり、その衆もまた多く、我は軍心の恐慌を恐れる。而して捕虜(馬武)と我が互いを恃み、両軍統一されずば、これ敗北の道と言えよう。今営を閉ざして固守しているのは互いの助けなきを示しているのだ。賊は必ず勝ちに乗じて軽進するであろう。捕虜を救わなければ、作戦に必要な努力は倍増する。このように、蘇茂の衆を疲労させ、その弊に乗じて打って出てこそ、ようやく勝ちを得るべしだ」蘇茂、周建は果然として全軍で馬武を攻めた。長い戦闘の後、王覇の軍中の勇士・路潤ら数十人が断髪して戦を請うた。士卒の心に敏い王覇は、そこで営を開いたのち、精騎をもって敵の背を襲った。蘇茂、周建は前後から敵を受け、驚乱して潰走、王覇、馬武はそれぞれの営に還った。賊はまた衆を集めて挑戦したが、王覇は死守して出戦せず、士卒を饗応し楽曲を作った。蘇茂の矢が営中に向かって雨のごとく降り注ぎ、王覇の面前の酒杯に的中したが、王覇は安坐して動かず。軍吏はみな「蘇茂は前日すでに敗れたのでありますから、今これを撃つことは容易でありましょう」と建言したが、王覇は「そうではない。蘇茂は客兵として遠くから来ており、食料も不足しているからしばしば挑戦してくるのだ。これに勝つのは一切僥倖。今営を閉ざして士を休め、いわゆる戦わずして人を屈すの兵こそ、善の善なるものである」蘇茂、周建は戦うことが得られないとみるや兵を退き営に還った。その夜、周建の兄の子、周誦が叛き、城を閉ざしてこれを拒んだ。蘇茂、周建は遁走し、周誦は城を以て降る。
五年春、光武帝は太中大夫を遣わして王覇に討虜将軍を拝命させた。六年、新安に屯田、八年、函谷関に屯田。滎陽、中牟に賊が起こるが、悉くこれを平らぐ。
九年、王覇は呉漢および横野大将軍・王常、建義大将軍・朱祐、破奸大将軍・候進ら五万人とともに廬芳の将・賈覧、閔堪を高柳で撃った。匈奴が廬芳を助けて騎馬を遣わし、漢軍は雨に遇って苦戦する。呉漢は洛陽に還り、朱祐は常山に屯し、王常は涿郡に屯し、候進は漁陽に屯する。璽書によ王覇は上谷太守を拝し、屯兵は以前どおり、胡虜を撃ち捕え、郡の界に拘ることなし。翌年、王覇はまた呉漢ら四将軍と六万の兵をもって高柳に賈覧を撃ち、詔により王覇と漁陽太守・陳訴が諸軍の先鋒となった。匈奴の左南将軍数千騎が賈覧を救うも、王覇らは連戦して平城の下に於いて敵を破り、辺塞から出て追撃し、斬首数百級を挙げる。王覇および諸将は還って雁門に入り、驃騎大将軍・杜茂と兵を合して廬芳の部将・尹由を焞(正しくは山編)、繁畤で攻めるが、勝てず。
十三年、食邑を加増され、向侯。このとき廬芳と匈奴、烏桓が連合してしきりに辺境一帯を寇盗し、辺区の人々は困苦に悩まされる。詔により王覇の将で刑に服すもの六千余人を赦し、杜茂とともに飛狐道を治め、堆石を地に布き、起亭障を築くこと代から平城に至るまで三百余里。この間匈奴、烏桓と戦うこと大小数十百戦、頗る返事を識り、しばしば上書して匈奴と和を結ぶべきことを言上した。また温水から舟を漕いで荷物を運搬し、もって陸輸の労を省くことを陳べ、事を皆施行した。のち南単于、烏桓を降伏させ、北辺は事もなし。王覇は上谷にあること二十余年。建武三十年、淮陵侯に定封された。永平二年、病により免官され、数か月後に没した。子の王符が後を嗣ぐ。

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