石守信、開封浚儀の人。はじめ周祖に仕え、帳下に隷すを得る。広順のはじめ、累遷して親衛都虞候。世宗に従い晋陽を征し、高平で敵に遇い、力戦、遷せられて親衛左第一軍都校。師を還してのち鉄騎左右都校。淮南征伐に従軍、先鋒を為し、六合を下し、渦口に入り、揚州に克つ。ついに嘉州防禦使を領し、充鉄騎、控鶴四廟都指揮使。関南征伐に従い、陸路副都部署となり、功を以て遷せられ殿前都虞候、轉都指揮使、洪州防禦使を領す。恭帝が即位すると、領義成軍節度を加えられた。
太祖即位すると遷せられて侍衛馬歩軍副都指揮使、改められて帰徳軍節度を領す。李筠叛くと、守信と高懐徳は前軍を将いて進討し、李筠の衆を長平に敗って斬首三千級。またその衆三万を澤州に破り、偽河陽節度范守図を獲え、太原を降し援軍数千、みなこれを殺す。澤、潞州平らぎ、功を以て同平章事。李重進が揚州に反すると守信はもって行営都部署兼知揚州行府事となされる。帝の親征で大儀頓に至り、守信馳せて奏し「城朝夕にあって破れん、大駕親臨せられ、一鼓これを平らぐべし」帝速やかにこれに赴き、果たしてその城に克つ。建隆二年、鎮を移されて鄆州、兼侍衛親軍馬歩軍都指揮使、また本州に邸宅一区を賜る。
乾徳の初め、帝は晩から朝まで守信らと酒を飲み、宴もたけなわ、帝曰く「吾爾の曹(ともがら)これ及ばざるに非ず、然るに吾天子となり、もし殊更節度使の楽をなすをせずば、吾終に夕未だかつて枕を安じてしかして臥するなし(吾は汝らの同輩であり両者の間に差なし、しかして吾は天子となってしまった。ことさら節度使の楽を為すを思うと、夜になっても安心して眠ることができない)」守信ら頓首して曰く「今天命已に定まり、誰がまた敢えて異心有らん、この言何を為して出るや?(今、天命はすでに定まっております。誰が異心を抱きましょうか。そんな言葉はどこから出るのですか?)」帝曰く「人いずれ富貴を欲さず、一旦あって黄袍を汝の身に加える、なさずを欲すと雖も、それ得るべし(人が富貴を欲さずして、もし一旦黄袍を汝の身にかけたとしよう。そんなことはご免だと言っても、受けるしかないのだ)」守信ら謝して曰く「臣愚にしてこれに及ばず、これ陛下哀矜なり(私たちは愚昧にして気づかず、これは陛下の悲哀であり矜持でありましたか)」帝曰く「人生駒駒隙を過ぐ、金を多く積むに如かず、市に田宅を以て子孫に残し、歌児舞女を以て天年を終える。君臣の間に猜疑するところなければ、善しとせずもまたならずや(人生は光陰の如し、ただ金を集めるのではなく、田宅を買って子孫に残し、歌舞音曲を以て天命を終える。君臣の間に猜疑するところがなければ、善いことがないということもないであろう)」守信謝して曰く「陛下の念此に及ぶ、所謂生死にして骨肉なり(陛下の想いかくのごとし、恩施深切なり)」翌日、みな病と称して乞うて兵権を解き、帝これに従い、皆以て散官(閑職)につけ、賞与甚だ厚し。
既にして、太祖符彦卿に管軍を使うを欲す。趙普屡諌め、彦卿は名位すでに盛んにして、また兵権をもって委ねるべからずと。太祖従わず。宣して已に出す。趙普またこれを思い、太祖これを迎えて謂うに曰く「あに符彦卿の事にあらずや?」対して曰く「あらざるなり」因って他の事を奏す。すでに罷め、すなわち彦卿を出して宣べこれを進まし、太祖曰く「果然、何をもってまた卿の所在を宣べるや?(はたしてなにをもって卿の所在あきらかならん?)」趙普曰く「臣侏離の者に処分を託すの語を以て有り、またこれを留める。ただ陛下は利害を深く思い、また悔やむ勿れ(わたくしは意味不明の言葉に裁きをつけるを以てあり、これを留めました。ただ陛下は利害について深い考えあられ、また悔やむことはあられますまい)」太祖曰く「卿は彦卿を苦擬する、何なりか? 朕彦卿を待つこと厚く、彦卿豈朕に負うことなし(卿が彦卿を疑うのはどうしてか? 朕は彦卿を待遇すること厚く、彦卿が叛くことなどありえないというのに)」趙普対して「陛下何をもって周世宗を負わん(陛下はなにをもって自らが周の世宗にならんというのですか?)」太祖黙然とし、事遂に中止さる。
開宝六年秋、守信は侍中を加えられる。太平興国のはじめ、加えられて兼中書令。二年、中書令を拝し、河南尹を行い、西京留守に充てられる。三年、檢校太師。四年、范陽征伐に従軍、前軍を督して律を失い、責を負って崇信軍節度兼中書令。俄かに進められて衛国公。七年、陳州に移り、また中書令を守る。九年卒、享年五十七歳。尚書令を追贈され、武威郡王に追封されて、武烈と諡される。
石守信は鎮節に累似されるごと、衆を斂めて事を専らにし、巨万の財産を積んだ。尤も釈尊の教えをわ信奉し、西京に崇徳寺を建て、民を募って輦に瓦や木を積ませ、工事を急がせること甚だ急、しかして雇人に給料を支払わず、人は多くこれに苦しめられた。

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