慕容延釗は太原のひとである。父・慕容章は襄州馬歩軍都校、開州刺史。慕容延釗は年少から勇猛果敢を以て知られた。漢の高祖(劉知遠)起こると周祖郭威はその佐命をなし、慕容延釗はその帳下に置かれた。周の広順初年、補西頭供奉官、さらに尚食副使、鉄騎都虞侯を歴任する。
周の世宗(柴荣)立つと殿前指揮使都校とされ、渓州刺史を領す。高平の戦いにおいて左先鋒を督し、戦後功により虎捷左廟都指揮使、本州団練使。遷せられて殿前都虞侯、睦州防禦使。淮南征伐において改めて龍捷左廟都校、沿江馬軍都部署とされ、帰朝してまた殿前都虞侯。出ては鎮淮軍都部署とされる。顕徳五年、柴荣は迎鑾江口にあって呉人の舟数百艘が東沛洲(沛は正しくはさんずいに布)に停泊していることを知るや、即時、慕容延釗と右神武統軍・宋延渥をもってこれを討たす。慕容延釗は驍騎を以て陸路を進み、宋延渥は水軍を率いて江沿いを進んで、大いにこれを破る。淮南平らぐと遷えられて殿前副都指揮使、淮南節度。恭帝が即位すると改めて鎮寧軍節度、殿前副都点検に充てられ、また北面行営馬歩軍都虞侯に。
太祖(趙匡胤)即位すると、慕容延釗は重兵を掌握して真定に屯し、帝の聖旨が遣わされるや、もって便宜に従事する(うまい話に乗る)ことを承諾した。慕容延釗と韓令坤は率いるところの部署をもって按兵辺境を治め、もって鎮静を聞く。太祖はこれを嘉し、殿前都点検、同中書門下二品、その父の諱を避ける由なき恩典を授ける。李筠が叛くとはじめ王全斌と東路で会合し兵力を合して征討し、まもなく行営都部署、潞州行府知府に。叛乱平定後、侍中を加えられ詔により澶州に還された。
建隆二年、長春節に来朝、邸宅を賜る。上表して軍権を返上し、山南東道節度使、西南面兵馬都部署とされる。この冬大寒となり、宮廷から貂の毛布と沢山の絨毯を賜る。四年春、命を受け軍を率いて南征、湖南道行営前軍都部署とされる。当時慕容延釗は病を患い、詔により輿に乗って督戦することを許された。賊将・王端と数千の人馬は朗州を擾乱していたので、慕容延釗はこれを捕え磔刑に処す。荊、湘州平らぐと、檢校太尉を加えられる。この冬薨る。享年五十一歳。
はじめ、趙匡胤と慕容延釗の間柄は非常に良好であり、顕徳末年、趙匡胤が殿前都点検となり慕容延釗がその副となると、趙匡胤は慕容延釗に兄事するようになった。趙匡胤即位後、ことごとに使いを遣わして労を問われ、なお以て兄と呼ばれる。病に倒れると皇帝は自ら親しく薬を包んで彼に給わり、その死を聞くと慟哭久しかった。中書令を追贈し、河南郡王に追封する。記録によれば彼の子弟のうち官を授かったものは四人いるが、割愛。

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