高懐徳(こう・かいとく。926-982)

高懐徳(こう・かいとく。926-982)
 高懐徳は字を蔵用といい、真定・常山の人。後周の天平節度使・齎王こと高行周の息子である。高懐徳は平素から忠孝の念厚く、武芸は絶倫だったと記載される。高行周は延、潞二鎮および洛陽留守の任から宋州、毫州の節制と、悉ごとく低級職に甘んじていたが、後晋の開運はじめ、遼人が辺境を犯すと高行周は北面前軍都部署として壮行、このとき高懐徳は弱冠をかぶる年となり、父に北伐への随行を頼んだ。高行周はこの言を甚だ壮として出征に随軍することを許し、親子出陣。戚城まで到達したところで遼軍の数重におよぶ包囲を受け、援軍未だ至らず事態は風雲を告げる、という状況に至る。ここで高懐徳は城を出て左右自在に矢を射かけ、縦横に馳せ、重囲を突き崩して向かうところ敵なし。これに高行周が呼応して囲みを破り、高懐徳は戦後、羅州刺史に任ぜられ、珍貴の皮袋と宝帯、名馬を授かる恩寵を受けた。高行周が改めて鄆州鎮に移ると、高懐徳は刺史から低級武官に換わって父に随行。また信州刺史となるとふたたび高行周にしたがって宋州に鎮した。
 
 後晋の末年、契丹が侵犯、高行周は邢・趙路の全部署をあげてこれの防衛に努め、高懐徳は睢陽の留守。杜重威が契丹に降り、京東諸州に盗賊が大挙跋扈しても高懐徳は堅壁清野、敵を一兵たりとも睢陽城に入れぬ。その間高行周は兵を率いて鎮に戻り、遂に敵の囲みを解くことに成功した。後漢のはじめ、高行周は魏博鎮に移され、さらに天平を領すことを許された。高懐徳は過去の官職をすべてひきついだまま忠州刺史となる。周祖郭威が慕容彦超征伐の戦を興し、汶河を越えて凱旋すると、高行周は極めて厚い恩寵と賞与を下賜された。衣装と玉帯、彩絹と馬鞍など。

 高行周が世を去ると、高懐徳は東西班都指揮使を任され吉州刺史を領し、改めて鉄騎都指揮使に。太原(北漢)の劉崇が後周を攻めると世宗柴荣は逆にこれを討伐、高懐徳は先鋒都虞候として最前線に充てられる。高平の戦いで大勝利を獲た高懐徳は鉄騎右廟都指揮使、果州団練使に。

 淮南征伐に従軍、廬州知事行府事に任ぜられ招安使に充てられる。廬州城下の戦いにて斬首700余級。まもなく昇進して龍捷左廟都指揮使、岳州防禦使となり、賞与として駿馬7頭を下賜される。南唐の将劉仁瞻が寿春を占拠し、舒元が紫金山を占領して大連営を作り後周軍に対抗すると、世宗は高懐徳に親兵数十名を率いて敵の営塁を探ってくるよう命令。高懐徳は夜数十騎を率いて淮河を渡り、黎明、敵に発見され交戦と相成る。ここで高懐徳は神懸り的な用兵の妙を発揮して寡よく衆を斃し、敵の裨将を捕らえて帰還し敵の強弱のすべて、偵察してきた情報のあらましを語る。世宗は大いに喜び、その場で高懐徳に袍と金帯と器いっぱいの財貨と銀製の鞍を与えた。世宗は翌日、淮河周辺を騎馬で観察、そこに敵将の一軍が襲うも、一人の将領に率いられた部隊がそれを打ち破り、追撃して陣営に帰った。世宗が命令して自らを救った将は誰かと問えば、みな口を揃えて「懐徳なり」と。世宗は行在所に高懐徳を呼んで彼を慰労すると、斧鉞とそれに伴う重大な権限を授けた。

 世宗の北伐において、高懐徳は命令を受け先遣隊として韓通とともに滄州を押さえた。すぐさま関南を取り、また副将・陳思譲を雄州兵馬都部署に任じ、瓦橋関の戦いで快勝、敵将の姚内斌を擒えて帰還。恭帝が即位すると昇進して侍衛馬軍都指揮使とされ、江寧軍節度使に。その直後さらに昇進して北面行営馬軍都指揮使に任命された。

 宋太祖趙匡胤が即位すると殿前副都點検を授かり、改めて滑州に鎮守、ついで開南副都部署とされ、宣祖の娘燕国長公主を妻に娶って皇族となる。貴族ということで名誉職、附馬都尉を加増。上党で李筠が叛乱を起こすと皇帝自らの親征に先遣隊として出陣し、石守信とともに前進。沢州の戦いで李筠の人馬を壊滅的に破り、太祖が現地に到着するより先に反乱平定。この功により忠武軍節度使、検校大尉となった。その後太祖に従って揚州を平定、建隆2年、改めて帰徳軍節度使に。開宝6年秋、同平章事を加増。同年冬、妻たる公主を喪い、附馬都尉の称号を削られる。

 太宗が即位すると侍中を加えられ、さらに検校太師を加増された。太平興国3年春、流行り病にかかり、ご典医の王元佑、道士の馬志などから治療を施されて回復。4年、太原征伐に従軍し、平定の功により改めて曹州鎮節度使、冀国公に。7年、武勝軍節度使に改められ、同年7月逝去。享年57歳。中書令を追贈され、渤海郡王に追封され、武穆と謚された。

 高懐徳はまさに武門の子であり、軍事に習熟し、読書を好まず、生活は簡潔素朴、細かいことにはこだわらなかった。また、音楽にも造詣が深く、自ら新たな曲調を創作するほどでその韻律はきわめて精妙。きわめて狩りを好み、かつて35日連続で野にあって狐・狸・兎の類数百匹を狩り帰還したほどの狩猟狂。あるとき客が来ると挨拶もそこそこに狩りに出たということもあったそうである。

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