王審琦(おう・しんき。925-974)

王審琦は字を仲宝といいまして、遼西・・・地図年表に記載がないので正確な位置が分かりませんが・・・の生まれ。のち洛陽に移り住んだといいます。後漢の乾祐初年、周祖の帷下に隷し、その実直純謹をもっていたく親任されたのが経歴のはじめ。李守貞を平定するに功あり、その功績をもって応直左番副将。広順年間に東西班行首、内殿直都知、鉄騎指揮使を歴任、世宗の代になっても戦歴衰えず、力戦を続けて東西班都虞候、ついで鉄騎都虞候、さらに本軍右第二軍都候。本軍は周の主力軍を意味しその右第二軍の都候=総指揮官、ということですから、武官としての格はかなり上位です。世宗柴栄が射宴を催した際、王審琦は矢継ぎ早に矢を放って連続で的を射貫き、世宗に嘉されて報奨を賜与されました。またこの当時に勤州刺史に封ぜられています。

 淮南親征において舒州の守りが堅く落すことかなわずというとき、世宗は先んじて郭令図を舒州刺史に任じ、そのうえで王審琦と司超に精騎を授けて支城攻略を命じました。これは奏功し、一夕にして城は落ち、王審琦は刺史もろとも多数の敵兵を生け捕り、武器防具軍需物資併せて数十万を手に入れたといいます。郭令図がこの城に入るや王審琦らはまず黄州を抜き、数日、舒州人民は郭令図に逐われるところに転じました。ここで王審琦は軽装騎兵隊を選抜して夜、馬に枚を含ませ出陣、州城を攻めて大いに舒人を破り、郭令図を州城に据える大功を建てます。世宗はこれを嘉し、散員都指揮使に王審琦を抜擢しました。散員、というのがどの程度の規模の軍事単位か分かりませんが、都指揮使というからにはその単位における総指揮官であり、高級将校であることは疑いありません。また南唐軍との最大の激戦、紫金山の戦いにおいては全軍に先駆けて突撃、流れ矢に当たりながらも勇戦し、戦後控鶴右廂都校に転じ、虔州団練使を拝領します。世宗が濠州の包囲を開始すると王審琦は敢死隊数千人を募ってその先陣に立ち、水砦を抜き支城を奪い、八面六臂で濠州を奪ってのけます。楚州攻略の際には南面巡検とされ、城が落ちるに際して淮人が逃げることを予測、そのルートを看破、伏兵をもって待ち構え、果たして城中の兵が南門から潰走するのをこてんぱんに打ち負かして斬首数千、捕虜五千余人を獲て行在所の世宗に献じ、名馬に玉帯、および綿綵数百匹を賜与されました。淮南一帯が平定されると改められて鉄騎右廂都校。瓦橋関の戦いを歴て恭帝の即位におよび、殿前都虞候、睦州防御使に。

 宋代になるとさらに昇進して殿前都指揮使、泰寧軍節度となり武官として獲られる栄誉のほぼ最高位に登ります。この上は大将軍クラスの都部署、都点検があるくらいで、次いでおこる李筠征伐で王審琦は御営前洞屋都部署にのぼりつめますから当代きっての大将軍と言って良いかと思われます。まあこの戦で王審琦が特別な功績を立てたと言うことはなく、かえって飛礫を喰らい負傷、車駕に乗って督戦したことが記載されるのみですが。澤州、潞州が平定されると改めて武成軍節度を拝命。李重進の叛のときは石守信の副将として先鋒軍を率いこれを打破しています。ちなみに将器で言えば石守信より王審琦が勝ると思うのですが、これは太祖趙匡胤との個人的信頼関係の差、でしょうか。

 建隆二年、改めて忠正軍節度。鎮にあること8年、政について寛大・寛仁であり、法を簡潔にしたとあります。つづけて「邑々の官吏は独断でなく議事録をもとにして咎人を裁き、幕僚たちへの申し伝えは府台の決定よりもまず自らが目を通した」と。そして王審琦自身「五代以来、諸侯が専横を極めたのは、かかることどもに練達の家宰がいなかったためである。今、天下は太平となり、かたじけなくも私は藩屛としてこの地を任されるに至った。このうえは貪官汚吏を斥け、誠実を慶ぶべきであろう。書類仕事の手間などなにほどのことがあろうや?」と語ったので、聞くものはみな感嘆しその高邁に服したといいます。

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