祭遵(さい・じゅん。?-33)
祭遵は字を弟孫といい、潁川潁陽の人。若くして読書を好み、家は富裕であったが、祭遵は恭倹な性質でボロい衣服を身に着けていた。母の喪に当たり、自ら背に土を負うて墳墓を造る。たまたま部吏が祭家を侵すところあり、賓客として遇し油断させてこれを殺す。はじめ県の人々は彼を柔弱と見ていたが、のちにはその性の苛烈を畏れ憚るようになった。
光武帝が王尋を破るなど大功を重ねて帰還の途上潁陽を通った。祭遵が官吏に身を扮して光武帝の前に進むと、光武帝はその容姿を甚だ愛してすぐさま門下吏に任じた、というから相当に、少なくとも顔で世の中わたっていける程度には美男子であったらしい。河北征伐に従軍、軍市令となる。光武帝の舎中児が罪を犯したとしてこれを殺したが、光武帝は怒り、祭遵を逮捕させた。このとき主簿の陳副が諌めて「明公は常々部隊の整備を考えておられですが、今祭遵が取った行動は軍法に照らして毫ほども誤ってはおりません。軍令としてよくなすべきところをよく行ったと言えましょう」と言ったので光武帝はこれを赦し、祭遵を刺奸将軍に任じた。孝武帝は各位の将領たちに令して「常に祭遵の如く備えるべし! わが舎中子が罪を犯したとして恐れずこれを殺す、諸卿らも必ず公私混同するべからず」と。祭遵、偏将軍を拝し、河北の平定に功労あり、功績により列侯に封ぜられる。
建武二年春、征虜将軍を拝し、潁陽侯。驃騎大将軍・景丹、建義大将軍・朱祐、漢中将軍・王常、騎都尉・王梁、臧宮らと箕関に進み、南に弘農、厭新、柏華、蛮中の賊を撃つ。祭遵は石弓で口もとを射られ、流血止まらず、衆みな祭遵の傷を見るに撤退を考えたが、祭遵が自らこれを叱咤して士兵みな士気倍増、攻勢をつづけ、ついに大いにこれを破る。ときに新城蛮中の賊・張満が険隘に屯して人に害をなしたので、詔が下り祭遵がこれを撃つ。祭遵は敵の糧道を断つ作戦を取り、張満がしばしば挑戦するも堅壁して受けず。厭新、柏華の余賊もまた張満に合して霍陽聚を攻めたので、祭遵は軍を分かってこれを撃ち破る。翌年、張満餓えたところでこれを抜き、生捕る。はじめ、張満は天地に祭祀して自ら王と言ったが、囚われるに至り「讖文我を誤てりか!」と叫んだ。後漢王朝は光武帝自ら讖書を作らせるぐらいだから、よほど空前の占いブームだったらしい。さておき祭遵は張満を斬り、その妻子を殺す。兵を引き南は杜衍に鄧奉の弟鄧終を撃ち、これを破る。
時に琢郡太守・張豊が使者を擒え兵を挙げて叛き。、自らを無上大将軍と称し、彭寵と連盟する。四年、祭遵と朱祐および建威大将軍・耿弇、驍騎将軍・劉喜がともにこれを撃つ。祭遵は先鋒を承り、張豊を急襲、張豊の功曹・孟厷を擒え張豊を投降させる。はじめ、張豊は方術を好み、あなたは帝となる器だと道士に言われ、五彩の袋を括りつけた石頭像に腕を突っ込むと玉璽が入っていたのでこれを信じ、ついに造反に踏み切ったのだという。これを斬るに当たり、「石像の後ろに玉璽あり」というので祭遵は石像の頭を砕いたがそんなものはなかったので、張豊は道士に謀られていたことを知り、天を仰いで「死すとも恨むところなし!」と詠嘆した。諸将みな引き返すも、祭遵には詔が下り良郷に屯して彭寵を拒む。護軍・傳玄が彭寵の武将・李豪を潞において襲撃、大いにこれを破り、斬首数千級を挙げる。拒戦すること数歳、しばしば彭寵の鋭鋒を挫き、その朋党から降るもの多し。彭寵の死に及び、祭遵は進んでその領地を取る。
建武六年、詔下って祭遵と建威大将軍・耿弇、虎牙大将軍・蓋延、漢中将軍・王常、捕虜将軍・馬武、驍騎将軍・劉歆、武威将軍・劉尚らとともに天水から公孫述を討伐。部隊は長安に駐し、ときに車駕ここに至り、しかして隴の隗囂は漢を撃つことを欲さずと弁じて辞すると言っているが、どうしたものかと帝は諸将を召して議した。みな曰く「解囂は今静まっていてもそれは謀略の時間を稼いでいるだけで平和は長く続きませぬ、すぐにでも将帥を遣わし、もってこれを四散させるべきであります」と言ったが、祭遵は「隗囂の謀略家であることは周知、今ここで軍を退けば、その詐謀ますます深くなります。蜀への備えを増しつつ、推進するに如かず」帝これに従い、祭遵を隗囂討伐の先鋒とする。隗囂は隴抵にその将・王元を押し立てるが、祭遵は進撃してこれを破り、新関まで追い詰める。詔により祭遵の軍は汫、耿弇の軍は漆、征西大将軍・馮異の軍は枸邑から攻め、大司馬・呉漢らは還って長安に屯す。こののち祭遵はしばしば隗囂の軍と戦ってその鋭鋒を挫く。
建武八年秋、皇上親征に随従して隴を撃つ。隗囂を破るに及び、帝は東して汫県を通過、駕を幸して祭遵の軍営を訪れ、皇帝ともあろうものがわざわざ士兵を招待して慰労。この無防備な気さくさが光武帝をして天下を取らしめた要因やもしれぬ。黄門武楽を作し、深夜になってようやく宴を止める。また令を受けて隴に下り、屯す。公孫述が兵を派遣して隗囂救援に向かわせると、呉漢、耿弇ら全員撤退するが、祭遵だけが留められて帰らず。九年春、軍中において没す。
祭遵は人となり清廉にして謹慎、克己して奉公し、毎度賜った賞与は士卒に分け与え、家には私財と言えるものはなかったという。身にボロ衣を穿き、布を被り、夫人の裙にも贅沢させなかった。孝武帝はこれを非常に貴重なこととし、彼が世を去ると特別に深く哀悼した。祭遵の死体は河南県に送られ、詔が下り全地方から百官が派遣され喪礼が執り行われて、皇帝自ら喪服を着て式に臨み、哀哭した。光武帝は城門に還り、葬車隊を見るに涙やまず。喪礼が成ったのち、また親しく太牢の祭祀を行い、宣帝が霍光を喪った時の故事に倣った。詔を下して大長秋に令し、河南尹に喪時について拝謁させ、大司農に喪の全費用を出させた。博士の范昇が上表して祭遵を追想するに曰く、「わたくしが先朝の政治を思い返すに、尊厳をたっとび藩屏を憎んだもの。昔、高祖は大聖人であられ、深謀遠慮、封爵を分かち土地に封じ、臣下と功労を分かって享受なされ、功臣を録に記し、彼らの美徳を称揚さる。死してその封爵を嗣がし絶やさず、丹書鉄券をもってその伝窮まることなし。かくまことに漢朝は傳わること十余代、年を経ること数百年、衰敗してもなお再度興隆し、絶えてまた後に続くものあり。ここに陛下は至徳をもって命を受けられ、先明漢の道を復興し、輔弼の臣に褒賞を授けられて徳、高祖に比肩せらる。征虜将軍・潁陽侯・祭遵は不幸にして早くに薨れど、陛下の仁恩、陛下の感傷、遠く河南に届き、慮るに慟、聖窮を形とし、喪事行うたび県官に給わるとおっしゃられ、その妻子に厚く賜ること、その数勝るべからざり。埋葬される使者に護衛官を置かれ、厚くまた使者の甦る時を待つは、矯正して激励教化するも日月いかでか過ぎても起こり得るべからず。古来臣が病となれば君これを見舞うもの、これ徳の厚き事例なり。この一事に倣うも、衰落からすでに長らくを経る。及ぶに陛下、また起きて礼儀を為され、群臣感動し、自ら勉励せざるはなし。臣が見るに祭遵は素行修養善徳を積み、国家に対して尽忠報国、北方に漁陽を平定し、西に隴、蜀を抵御し、真っ先に隴を攻め、縦深略陽を取る。各路の部隊撤退の後、一人要衝を守る。軍心を制約し、法度を犯せしことなし。当地の官民、これほど規律ある軍隊のほかにあるを知らず。潔白であることは天下に隠れなく、清廉であること当世に著名。賜与を得てもすべて将士に分け与え、自らは珍貴な衣服を着ることなく、家中に私の財産なし。同腹の兄祭午にも祭遵にも子なく、妾もなく、祭遵は妾を娶るも生を受けず。自らをもって国家の大計を任ぜられる身と信じ、敢えて後嗣を得ることを求めず。臨終の遺言は牛車に遺体を乗せよといい、洛陽に埋葬されるを望む。家庭の事情を彼に問うも、ついにこれに答えることなし。人生は重き荷を担いで遠き道をゆくが如し、死して猶やまず。祭遵は将軍になるや将士を選抜して儒学を説き、酒を飲み楽を奏し、必定これ雅楽の投壺。また建議して孔子の後嗣に代わらんとし、上表して『五経』大夫の設立を請う。軍旅にありといえども祭祀を忘れず、もって礼学を好み、死に至るも人を愛すを忘れず。礼に照らして生前は爵位あり、死しては諡號あり、爵をもってことさらに尊卑を語らずも、諡をもって善悪明らか。臣は愚にして祭遵の薨の宜しきを知らざれど、叙を論じ功を衆に聴くに、『諡法』に照らして考えるにもって礼成というべし。古くより国家に厚く尽くしたものを顕章するは、これ嗣法なり」と。帝は范昇の上表を取り上げて公卿とした。祭遵を葬るに至って車駕また臨し、将軍を贈り、侯の印綬を授け、紅輪魂轎、軍士を介して葬送を述べ、諡を成侯とする。すでに葬った後で車駕また墳墓に往き、夫人と家族を接見して慰問。のち朝廷で集会した時、光武帝は常に慨嘆して曰く、「国を憂えて奉公し安ずるを得るに如くは、祭征虜のごとき者なり!」と祭遵を想い追悼した。儒教を国教として推進した光武帝としてみると、祭遵のような人材は長く生きて廷臣として儒学の教化推進に努めて欲しかったのであろうか。

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