岳飛

 岳飛は字を鵬挙といい、相州湯陰の人である。代々豪農で、父岳和は能く節食して民を飢餓から救った。農地を侵されてもこれを分かちあい、財を貪られても償いを求めることがなかった。岳飛が誕生した時、鵬があって室上に嘶きいたので、これに因って名としたという。幼子の頃、生まれてまもなく、黄河の内黄が決壊、洪水が起こる。姚氏は岳飛を抱えて甕の中に坐り、岸に衝突したけれども無事に免れたので、人々は奇異なることだと感嘆した。

 岳飛は幼くして気節あり、沈厚にして寡言、家は貧しかったけれども学問に力め、左氏春秋と孫呉の兵法に通じた。生来神のごとき力が有り、15歳で三百石の弓を挽き、八石の弩を挽いた。周同なる人物に射撃を学んで尽くその術を身につけたといい、左右の手で同じように射ることができた。周同が死ぬとその冢を作り、陰暦朔日と15日には祭祀を執り行った。父はこれを義人の行為と称えたが、曰く「おまえは有事の人材として用をなすだろうが、節義のために国に殉じるだろうなぁ」と。

 宣和四年、眞定宣撫・劉?《りゅう・こう》が敢戦の士を募り、岳飛はこれに応募。相州には陶俊、賈進和という賊があったが、岳飛は百騎を願うとたやすくこれを滅してのけた。まず兵を商人と偽って遣わし賊の懐に入ると、賊は普段通りにおそってきたので、岳飛は百人を遣わして山の下に伏せ、自ら数十騎を領して賊壘に逼った。賊は出戦、岳飛はひとまず北に陽動し、賊がこれを追ってくるところに伏兵を起たせ、陶俊と賈進和を擒えて帰陣。

 康王が相州にやってくると岳飛は劉浩に見え、賊・吉倩の招撫を命ぜられた。吉倩は衆三百八十を以て降る。この功により承信郎。また鉄騎三百で賊の頭領・李固渡を敗る。劉浩に従って東京の囲みを解き、敵と滑州で相対峙し、百騎をもって河上に軍を馴らした。敵がわずかに動くと岳飛はその麾下の兵に「敵は多いといえどもこちらの虚実を知らない、敵が定まらない隙に、一挙これを撃つべきである」といって一人先駆け敵を迎える。梟将の一人が刀を舞わせて迎撃に出るも岳飛の一太刀で斬られる。余勢を駆って大いに敵を破った。累進して秉義郎。留守・宗沢の下に配属され、開徳、曹州で戦ってことごとく功あり。宗沢は岳飛の才能を大いに奇として曰く「汝の勇智才芸、古の良将もすぐる能わず、しかるに野戦を好むは万全の計に非ず(君の勇気と才能は古今の名将に劣らないけれど、野戦に頼るのは万全ではないよ)」といって陣図をもって授ける。しかし岳飛は「陣だては戦のあとからついてくるもの、兵法の常道は運用の妙にあって、肝要なのはただ覚悟あるのみ」と答える。宗沢もこれに唸り、「是」とした。

 康王が即位すると岳飛は上奏する事数千言を費やす。、大略は「陛下は大宝に登られ(至尊の位につかれ)、社稷(国家)の主となられ、敵を伐つべき謀は十分でありましょう。しかして勤王の師(軍)を日々集わせる陛下に、遠くから物申し失礼つかまつります、この岳飛は素弱なれど、よろしく敵の怠に乗じてこれを撃つべし。黄潜言、汪伯彦の輩には聖意(皇帝の意志・言葉)を承けて恢復する能わず、車駕を奉じて日に南面するも、中原に繋げる望みは足らず。臣願わくば陛下の敵を、その穴のいまだ固まらざるに乗じて討たんと。親しく六軍をいて北に渡られませ、さすれば将士の気は作《な》り、中原を復すべし」

 ついで岳飛は河北招討使・張所を詣でる。張所は勇者(国士)を集めて優遇していたところであり、岳飛に補修武郎、中軍統領を充てた。張所が「汝はいったい何人の敵を倒せるだろうか?」と聞くと、岳飛は「勇気は恃むに足りません。まず用兵、そして謀計。欒枝が荊に柴を曳いて敵を破り()、莫敖が采樵をもって絞を下したように、謀をもってすれば必勝です」張所は矍然として、「君はおよそ軍伍《ぐんご》=兵卒であるべき人間ではないな」と驚いた。岳飛はこの機に説いて「国家の要は?であり、恃むべきは河北の要衝を固めるべし。要衝を恃み、重鎮に列し、一つ城が襲われれば諸城が連携して救えば、金人は河南をうかがうことはできないでしょう。京師を固める、まずこれが根本、招撫におかれては兵を率いて境を討つべしです。もしなにかあれば責任は私がとりましょう」張所は大いに喜び、岳飛を補武経郎とした。

 将軍・王彦《おう・げん》の命に従い黄河を渡る。新郷《しんきょう》に至ると金兵が盛んであり、王彦は進めず。ただ岳飛だけが部隊を率いて奮戦し、矛が折れるや敵の矛を奪って戦い、舞うがごとくの戦いぶりに諸軍励まされて勇戦、ついに新郷を抜く。翌日、侯兆河《こうちょうが》に戦い、十余の傷を受けながらも死戦してまたここも抜いた。夜、石門山《せきもんさん》の下に野営、また金軍が迫るという報せに諸軍肝をつぶしたが、岳飛だけは堅く臥して起きようともしなかったという。結局金軍の夜襲はなかった。

 糧がつきたので王彦に支援を願うも、王彦はこれを認めず。岳飛は兵を将いて逃げながら、太行山に戦い、金将拓跋耶鳥《たくばつ・やう》を擒える。太行山に居ること数日、また敵に遇い、岳飛は単騎丈八丈の鉄槍を持って黒風大王を刺殺、敵衆は敗走した。岳飛は王彦との間の間隙を知り、宗沢のもとに復帰した。職は留守司統制《りゅうしゅしとうせい》。宗沢が死んで杜充がこれに代わると、岳飛はまた軍に戻った。

 二年、胙城《さくじょう》に戦い、また黒龍潭《こくりゅうたん》に戦ってことごとく大捷。閭勍《りょ・ろく》に従って寝陵《しんりょう》を保護し、汜水関《しすいかん》に大戦、射れば金将を殪《たお》しその衆を大いに敗る功を上げる。竹蘆渡《ちくろと》に駐軍し、敵と対峙、精鋭三百を撰んで前山の下に伏せ、令して薪に芻《あわ》を縛らせる。夜半、四方から火をかけてこれをこれを燃やせば、金人は援兵を疑って肝をつぶした。

 三年、賊・王善、曹成と孔彦舟らが合して衆五十万となり、南薫門《なんとうもん》に薄《せま》る。岳飛の所の部はわずかに八百ほどだったが、その衆は敵を畏れず。岳飛が云うに「今、わたしが諸君のためにこれを敗ろう」左手に弓を手挟み、右手に矛を構えて、その陣の横を衝き、賊を乱し、大いにこれを敗る。また賊の杜叔五、孫海を東明に擒えた。仮に補英《ほえい》州刺史。王善は陳州を囲むも、岳飛は清口に戦い、その将孫勝、孫清を擒え、正式に刺史とされる。

 杜充《と・じゅう》まさに建康に還る。岳飛曰く「中原の地、尺寸たりとも棄てるべからず、いま一挙足、この地我に有るや非ざるや、他日また欲してこれを取るは、数十万の兵をもってしても不可なり」杜充は聴かず、ついに還る。師を鉄路歩《てつろほ》に屯し、賊張用《ちょう・よう》に遇い、六合《りくごう》に至って李成《り・せい》に遇い、これと戦ってみなこれを敗る。李成は憲臣に軍犒の銀帛を贈りつつ、軽騎で脅かすも、岳飛は兵を進めてこれを掩撃、李成は江西に奔る。時に杜充の命で建康を守り、金人と李成は合して烏江《うこう》を寇し、杜充は門を閉ざして出ず。岳飛は泣いて諌めて師を視るを請う。しかし杜充が出ることはついになかった。金人、馬家渡《ばかと》から江を渡り、杜充、岳飛らを遣わして迎戦せしめる。王燮《おう・しょう》先に遁げ、諸将皆潰す。ひとり岳飛のみが力戦。

 たまたま杜充金に降り、諸将の多くは剽掠を行うも、ただ岳飛の軍は秋毫も犯すところなし。ウジュ、杭州《こうしゅう》に趨り、岳飛広徳《こうとく》の境に至って要撃、六戦してみな捷ち、その将王権《おう・けん》を擒え、軍の首領四十余を俘虜とする。その人の用いようを察するに、恩を以て結び、遣わして還す。令して夜営を斬り縦《ほしいまま》に火を放ち、岳飛は乱に乗じて縦に撃ち、大いにこれを敗る。軍を鐘村《しょうそん》に駐し、軍糧を見るもなし、将士飢を忍び、敢えて民を騒がさず。金の兵互いに言いて曰く「これ岳爺爺《がくやや》の軍也」争って降る。

 四年、ウジュは常州《じょうしゅう》を攻め、宜興《せんこう》の令、岳飛を迎え屯に移す。盗賊郭吉《かく・きつ》岳飛の来るを聞き、遁げて湖に入る。岳飛は王貴《おう・き》、傳慶《でん・けい》を遣わしてこれを追って破らせ、また弁士の馬皐《ば・こう》、林聚《りん・しゅ》を遣わしてその衆の悉くを降らす。張威武《ちょう・いぶ》なるもが従わず、岳飛は単騎その営に入ってこれを斬る。僻地の者は岳飛の威風になつき、岳飛の像を作ってこれを祠に祀る。

 金人再び常州を攻め、岳飛は四戦して全捷、鎭江の東において追尾し、また捷ち、清水亭《しすいてい》に戦ってまた大いに捷つ。横死する者十五里に及んだ。ウジュは健康に趨り、岳飛は牛頭山《ぎゅうとうざん》に伏兵を設けてこれを待つ。夜、令して百人に黒衣をまとわせ金営中を乱し、金兵驚き、みずから互いに攻撃する。ウジュは龍湾《りゅうわん》に屯し、岳飛は騎兵三百、歩兵二千を以て新城に馳せ、大いに敵を破る。ウジュは淮西に奔り、岳飛ついに建康《けんこう》を復す。岳飛は奏して「建康は要害の地を為し、よろしく兵を撰んで固守され、すなわち淮の守兵を益し、腹心こまねいて護られるべし」帝、嘉して容れる。岳飛は清安《せいあん》を迎え撃ち、これを敗る。

  招討・戚方《せき・ほう》に岳飛は三千人を以て苦嶺に営す。戚方が裏切り、にわかに兵を益して来るも、岳飛は自ら一千人を率い、戦うこと数十合、皆勝つ。たまたま張俊《ちょう・しゅん》の兵至り、戚方ついに降る。范宗尹《はん・そうい》言うに張俊、浙西《せっせい》より来て、盛んに岳飛用うべしを称す。遷されて通、泰鎭撫使兼知泰州《つう・たいちんぶしけんちたいしゅう》。岳飛は辞し、淮南東路の最も難なる任を乞い、本路州郡を収復する。気に乗じて漸進し、山東、河北、河東、京畿などの路を次第に復す。

  たまたま金、楚を攻めるに危急。詔により張俊これを援けよと命ぜられるも、張俊辞し、そこで岳飛遣わされて行う。しかし劉光世《りゅう・こうせい》岳飛に命じて出兵させ、援ずる。岳飛は三塾《さんしゅく》に屯して楚の援けを為し、まもなく承州にあたり、三戦して三捷、高太保《こうたいほ》を殺し、酋長七十余人を擒える。しかし光世らはみな前に出ず、岳飛の師は孤にして寡、楚ついに陥ちる。詔により岳飛還り通、泰を守り、宣旨あってすなわち守って守るべしと。岳飛は如くべからずといい、ただ沙州に百姓を保護し、その都度掩撃。岳飛は泰を険なく恃むべき無しと断じ、保柴墟まで退く。南覇橋《みなみはきょう》で戦い、金を大いに敗る。百姓を沙上において渡らせ、岳飛が精騎二百を以て殿を為せば、金人敢えて近づけず。岳飛は泰州の守りを失した罪を待つ。

   紹興元年、張俊、岳飛とともに李成を討つを請う。ときに李成の将・馬進《ばしん》が洪州を犯し、西山に営を連ねる。岳飛曰く「賊は貪にしてのちの慮なし、もし騎兵を以て上流より生米渡を断てば、その不意に出、これを敗ること必定」請うて自ら先鋒となり、張俊大いに喜ぶ。岳飛は重鎧の馬を躍し、潜んで賊の右に出で、その陣を衝いて、所部これに従う。馬進大いに敗れ、?州に走る。岳飛は城の東にあたり、賊出城、布陣十五里、岳飛は埋伏を設け、もって紅羅で幟を為し、上に「岳」の字を刺して、選抜した精騎二百を幟に従わせてしかして進む。賊その少を与し易しとみてこれに迫り、伏兵発して賊敗走す。岳飛は人を使わし呼びかけて曰く「賊者に坐して従わざれば、吾汝を殺さず」降るもの八万余人。馬進は余党を以て南康の李成のもとに奔る。岳飛は夜、兵を引いて朱家山《しゅかさん》に至り、またその将・趙萬《ちょう・まん》を斬る。李成は馬進敗れると聞くや、自ら兵十万を以て来た。岳飛と楼子荘《ろうしそう》において戦い、李成の軍を大いに破り、追って馬進を斬る。李成は薪州に走り、偽斉に降った。

  張用江西を寇す。張用がまた相州の出であった。岳飛は書を持って諭して曰く「吾と汝は道里、南薫門《みなみくんもん》、鉄路歩の戦、みな悉く汝のするところなれど、今我ここに在り、戦いを欲せば出で、戦わざれば則ち降れ」張用は書を得て曰く「果たしてわが父なり」ついに降る。

  江、淮平らぎ、張俊は岳飛の功第一と奏す。加えられて振武右軍副統制《しんぶうぐんふくとうせい》、留洪州《りゅうこうしゅう》。盗賊を弾圧し、親衛大夫《このえたいふ》、建州観察使《けんしゅうかんさつし》を授かる。建州を范汝為《はん・じょい》が寇して邵武を陥とし、江西・安武回は岳飛に檄して分兵建昌軍および撫州を保たせんとした。岳飛が人を使わし「岳」の字の幟を城門に建てると、賊は望見して相戒めて犯す勿れと。賊党姚達《よう・たつ》、饒青《じょう・せい》は建昌に出で、岳飛は王萬《おう・まん》、徐慶《じょ・けい》をつかわしてこれを擒う。昇遷して神武副軍都統制《しんぶふくぐんととうせい》。

  二年、賊・曹成《そう・せい》、衆十余万を擁し、江西から湖湘の由、道、賀二州に拠す。岳飛は命を受けて仮知潭州《かちたんしゅう》兼仮荊湖東路安撫都総管《かけいことうろあんぶとそうかん》、金字牌、黄旗をもって曹成を招く。曹成は岳飛まさに至るを聞き、驚いて曰く「岳家軍来れりか」すなわち道を分かって遁ぐ。岳飛は茶陵に至り、詔を奉じてこれを招くも、曹成従わず。岳飛は奏して「招安して比年多命なれど、盗力強くして故に乃ち肆暴《しぼう》す。いやしくも力で屈せしめて則ちつけるしか剽除《ひょうじょ》を略せず。蜂起の衆未だ拠しつくさんのみ」主上これを許す。

  岳飛は賀州の境に入り、曹成の間諜を得る。これを帳下《ちょうか》に縛し、岳飛は食糧の調査を行う。吏曰く「糧尽きるなり、如何?」岳飛陽動して曰く「しばらく茶陵に反る」間諜を顧みるに不満の状、地団太を踏み、ひそかに令して間諜を逃す。間諜帰って曹成に告げ、曹成大いに喜び、翌日を期して追撃す。岳飛は布団の中で食事をとらせ、ひそかに迂回して嶺に趨る。未明、已に太平場《たいへいじょう》に至り、その砦を破る。曹成は険に拠して岳飛を拒むが、岳飛は麾下の兵と掩撃し、賊を大いに潰す。曹成は北藏嶺《ほうそうれい》、上梧関《じょうごかん》に走り、将を遣わして迎戦するも、岳飛は布陣せずして鼓し、その士は争って奮戦し、二拠の隘路を奪う。曹成はまた桂嶺より北藏関に至る砦に隘道を連ね、親しく十万余で蓬頭関を守る。岳飛の部はようやく八千、一鼓嶺に登り、その衆を破る。曹成はなお連州に奔った。岳飛は張憲《ちょう・けん》に曰く「曹成の衆散りて去る、追いてしかしてこれを殺せ。乃ち脅しに従うものは可憫《かびん》、縦にする者は即ちまた盗を為す。今汝らを遣わしてその酋を誅し、しかしてその衆を撫すも、謹んで妄りに殺す勿れ。主上はかさねて保民の仁を謂う」ここにおいて張憲が賀、連より、徐慶が邵、道より、王貴が?、桂より、招降者二万を得、岳飛と連州にて会す。兵を進めて曹成を追い、曹成は走って宣撫司に降る。時に夏盛んにして師の行くは瘴地《しょうち》、撫循の道四方と雖も、士に癘者一人もなく、嶺表平らぐ。武安軍承宣使を授かり、江州に屯す。はじめ入境のとき、安撫李回が岳飛に檄して捕劇を命じた賊馬友《ば・ゆう》、?通《かく・つう》、劉忠《りゅう・ちゅう》、李通《り・つう》、李宗亮《り・そうりょう》、張式《ちょう・しき》、みなここに平らぐ。

  三年春、行在所《あんざいしょ》に召される。江西宣諭《こうさいせんゆ》劉大中《りゅうだいちゅう》が奏して「飛の兵には規律有り、人安んじて以て恃み、今行在に赴けば、恐盗また起こることなし」果たして行われず。時に虔、吉の盗連兵して循、広、恵、英、韶、南雄、南安、建昌、汀、邵武諸郡を寇掠し、帝乃ち専らに命じて岳飛にこれを平らげと。岳飛は虔州に至り、固石洞《こせきどう》の賊・彭友《ほう・ゆう》の衆悉く?都に迎戦し、躍馬馳突するも、岳飛麾下の兵すなわち馬上これを擒え、余酋固石洞に退き保つ。洞は高峻にして水巡り、入るべき道は一つ。岳飛は騎兵を列べて山を下り、令す。みな満を持し、黎明、死士を遣わし疾馳登山すれば賊衆を乱し、山の下に棄て、騎兵これを囲む。賊は呼びかけて命を請い、岳飛令して殺す勿れとその降るを受ける。徐慶らに方略を授け、捕諸郡の余賊、みなこれを降し破る。はじめ、もって隆祐震驚《りゅうゆうしんきょう》の故、ひそかに旨令して岳飛に虔城を屠れと。岳飛は請うて誅すは悪の首にして脅され従うものは赦せと。許されず。請い至ること三四、帝乃ち曲げて赦す。人その徳に感じ、像を象りこれを祠す。余寇の高聚、張成が袁州を犯すのを、岳飛は王貴を遣わして平らぐ。

  秋、入見。帝手ずから「世忠岳飛」の四字を書いた旗を賜与される。鎮南軍承宣使《ちんなんぐんしょうせんし》、江南西路沿江制置使《こうなんせいろえんこうせいちし》を授かり、また改めて神武後軍都統制《しんぶごぐんととうせい》、すなわち制置使として、李山、呉全、呉錫、牛皐らを隷下に置く。

  偽斉は李成を遣わし、たばさんで金人入侵、襄陽、唐、鄧、、郢の諸州および信用軍を破り、湖寇の楊幺《よう・こう》また偽斉に通じて順流降るを欲す。李成はまた自ら江西を欲して陸を行き、趨って両浙で楊幺と会す。帝の命で岳飛にこれの備えを為せと。

  四年、荊南《けいなん》、鄂岳州制置使《がくがくしゅうせいちし》。岳飛は奏して「襄陽ほかの六郡は中原恢復の基本、今先に当たって六郡を取らずば、もって心膂《しんりょ》の病は除かれん。李成遠く遁げ、しかるのち湖湘に兵を加え、もって群盗を尽くさん」帝をもって趙鼎《ちょう・てい》が諭し、趙鼎曰く「上流の利害を知るに、飛に如くものなし」ついに黄復州《こうふくしゅう》、漢陽軍《かんようぐん》、徳安府制置使《とくあんふせいちし》を授かる。岳飛は長江中流を渡り、幕僚を顧て曰く「飛は賊を擒えずして、この江を渡らず」郢州《えいしゅう》城下に当たり、偽斉の将京超《けい・ちょう》、號して「万人の敵」城に登って岳飛を拒む。岳飛が鼓すれば衆しかして登り、京超崖から身を投げて死す。郢州を復し、張憲、徐慶を随州恢復に遣わす。岳飛は襄陽に赴き、李成が迎戦する。襄江の左に臨んで、岳飛笑いて曰く「歩兵の利は険阻、騎兵の利は平広、李成は左列の江岸に騎兵を、右列の平地に歩兵を置く、衆十万と雖も、なんのことやあらん」鞭を挙げ王貴を指して曰く「爾《なんじ》長槍歩兵をもってその騎兵を撃て」牛皐を指して曰く「爾騎兵を以て歩卒を撃て」合戦、騎兵は槍の前に斃れ、のち騎兵は入り江に擁し、歩卒の前に死者無算。李成夜遁げ、襄陽復す。劉豫益して李成の兵と新野に屯し、岳飛と王萬、これを挟撃してその衆を連破する。

  岳飛奏して「金賊これ子女金帛を愛するところあり、志已に驕隋、劉豫偽を僭すも、人心遂に宋を忘れず。以て如くに精兵二十万、直ちに中原を衝き、故郷を回復すること、誠易き力を為す。襄陽、、郢の地はみな実り多く、いやしくも営田を行い、その利厚きを成す。臣候糧足り、すなわち江を過ぎて北の敵兵を剽戮すべし」時に方重深入りの挙、しかして営田の議これより興る。

  兵を進めて鄧州に至り、李成と金将劉合悖謹砦を並べて岳飛を拒む。岳飛は王貴、張憲を遣わして掩撃、賊衆を大潰させ、劉合悖謹はわずかに身を以て免じた。賊党高仲は鄧城に退保し、岳飛は兵を将いて一鼓これを抜き、高仲を擒え、鄧州を復す。帝これを聞いて喜び曰く「朕はもとより岳飛の軍に規律有るを聞くも、いまだ能く敵を破ることかくのごとしを知らず」また唐州、信用軍を復す。

  襄漢平らがれ、岳飛は制置使を辞して重臣に荊襄の計略を委ねんと望むも、許されず。趙鼎奏し、「湖北鄂、岳もっとも要害の上流を為す、乞うに飛に令し鄂、岳に屯せしめ、江西の声勢その籍をこれとせず、湖、広、江、浙また獲るに安なり」すなわち、郢、唐、鄧、信陽並びに襄陽府路を岳飛に隷させ、岳飛を移して鄂に屯せしめ、清遠軍節度使《せいえんぐんせつどし》、湖北路荊襄潭州制置使《こほくろけいじょうたんしゅうせつどし》を授け、武昌県開国子《ぶしょうけんかいこくし》に封ずる。

  ウジュ、劉豫兵を合して廬州を囲み、帝は手札をもって岳飛に解囲を命ずる。兵を引っ提げ廬に趨ると、偽斉すでに駆甲五千を以て城に逼る。岳飛は「岳」字の旗と「精忠」の旗を張り、金兵を一戦にして潰し、廬州を平らぐ、岳飛は奏して「襄陽は六郡の人戸を養わせてなお牛、糧あり、乞うは給官の錢両。官を免じてわたくしに逃れるを負い、州県の官を以て流亡を召集し最殿をなさんや」

  五年、入覲。母を国夫人に封ぜられ、飛寧鎮《ひねいちん》、崇信軍節度使《すうしんぐんせつどし》、湖北路荊襄潭州制置使《こほくろけいたんしゅうせつどし》を授かり、封を進められて武昌郡開国侯《ぶしょうぐんかいこくこう》。また荊湖南北襄陽路制置使《けいこなんぼくじょうようろせいちし》、神龍後軍都統制《しんりゅうごぐんととうせい》とされ、楊幺の招討を命ぜられる。岳飛の部することろみな北人であり、水戦に習熟せず。岳飛曰く「兵は何をもって常とするか、顧みてこれを用いるは何を如くのみ」まず先遣使を招諭してこれす。賊党・黄佐《こう・さ》曰く「岳節使の号令は山の如し、もしこれと敵すれば、生の理万に一もなく、往かば降るに如かず。節使誠を信ぜられ、必ず我を善に遇わす」ついに降る。岳飛は表して黄佐に武義大夫《ぶぎたいふ》を授け、単騎その部に乗り入れ、背に黄佐を乗せて曰く「子《きみ》は逆順を知るもの。果たして能く攻を立て、侯に封ぜられても豈足らんや? 欲するにまた子を遣わして湖中に至らせ、その乗ずるべきものを視てこれを擒え、勧めるべきものこれを招け、如何?」黄佐は感涙し、死すとも報いると以て誓う。

  時に張浚、都徳軍事を以て潭に至り、参政・席益《せき・えき》と張浚語らう。岳飛が寇と通ずるの疑あり、欲してもって聞くに「岳侯は忠孝の人なり、兵には深機あり、胡の言易くするべけんや?」席益慚愧して止む。黄佐、周倫の砦を襲い、周倫を殺し、その統制陳貴らを擒う。岳飛はその功を上して、遷して武功大夫。統制任士安は王燮の令を受けず、ここに軍を以て功無し。岳飛は士安を鞭して賊の餌にせしめ、曰く「三日にして賊平らがずば、汝を斬る」士安宣言して「岳太尉の兵、二十万に至れり」賊は士安の軍を見て止まり、、力を併せてこれを攻める。岳飛は伏を設け、士安の戦うの急に四方から起って賊を撃ち、賊を走らす。

  たまたま張浚に召されて秋還り、岳飛は袖から小図を出して張浚に示し、張俊は来年もこの議があることを欲した。岳飛曰く「已に定劃あり、都督が能く少し留められれば、八日とせずに賊は破れん」張浚曰く「なんぞ易きを云うや?」岳飛曰く「王四廟をもって王師水寇を攻めるは則ち難、飛は即ち水寇をもって水寇を攻める、則ち易し。水戦は我が短にして彼が長、ゆえに短を以て長を攻める、難の所以なり。もし因りて敵将敵兵を用い、それを奪って手足の助けとすれば、その腹心の心離れてこれに託し、孤立せしめ、しかるのち王師を以てこれに乗ず。八日のうち、まさに諸酋を俘う」張浚これを許す。

  岳飛遂に鼎州に如く。黄佐は楊欽を招いて降し、岳飛喜びて曰く「楊欽、驍悍なるもすでに下る、賊の腹心潰えるなり」表して楊欽に武義大夫を授け、礼遇甚だ厚し。すなわちまた遣わして湖中に帰す。二日、楊欽は余端、劉?《れゅう・せん》らを降す。岳飛は偽って楊欽を罵って曰く、「賊悉く降らず、何をして来るなりか?」これを杖ち、また令して湖に入らす。この夜、賊営をおおい、その降る衆数万。楊幺は負けを認めるも服さず、浮舟で湖中をすすみ、環をなして激しく水砦し、その行くは飛ぶに如く、かたわらに撞竿を置き、官船を迎えてこれをしきりに砕く。岳飛は君山の木を伐って巨大な筏を作り、塞の諸港を別れ流し、また朽木を以て乱草を上流から下に浮かせ、水を撰んで浅瀬に流す。善く罵るものを遣わしてこれに挑ませ、かつ行きかつ罵る。賊怒りて追來すれば、則ち草木を積んで防がれ、舟輪凝って往かず。岳飛は速やかに兵を遣わしてこれを撃ち、賊が港中に奔るを筏で阻む所と為す。官軍筏に乗り、牛革を張ってもって矢石を蔽ぎ、巨木を挙げてその舟を衝き、尽く壊す。楊幺水に投じ、牛皐これを擒えて斬る。岳飛は賊の壘に入り、余酋驚いて曰く「なんぞ神なるか!」ともに降る。岳飛は親しく諸砦を慰撫して、老弱を田に還し、少壮を軍に組み込む。果たして八日にして賊平らぐ。張浚は讃嘆して曰く「岳侯神算也!」と。はじめ、賊はその険を恃んで曰く「我を犯すを欲する者、これ飛来するほかなし」此処に至り、人その言を以て讖《うらない》を為した。賊の船千余を得、鄂渚《がくしょ》の水軍を沿江の冠に為す。詔により兼ねて薪黄制置使《しんこうせいちし》、岳飛は眼病を以て軍事を辞めるを乞うたが、許されず。檢校少保《けんこうしょうほ》を加えられ、封を進められて公。軍を鄂州に還し、荊湖南北襄陽路招討使《けいこなんぼくじょうようろしょうとうし》とされる。

  六年、太行山の忠義杜に梁興ら百余人、岳飛を慕い義をもって衆を率い帰参する。岳飛は入覲して北面して陳べ、「襄陽修復より後、いまだ監司置かれず、州県もって按察無し」帝これに従い、李若虚《り・じゃくきょ》をもって京西南提挙兼転運《せいせいなんていきょけんうてん》、提刑《ていけい》、また令して湖北襄陽府路自知州《こほくじょうふろじちしゅう》、通判以下の賢否は岳飛に黜陟(才能があるものを抜擢し、ないものを斥ける)が許された。

  張浚は江上で諸太師と会し、岳飛と韓世忠に倚るべき大事を告げた。岳飛に命じて襄陽に屯せしめてもって中原を窺わせ、曰く「これ君の素よりの志なり」岳飛は軍を京西に移し、改めて武勝定国軍節度使《ぶしょうていこくぐんせつどし》、新官に付けて宣撫副使置司襄陽《せんぶふくしちしじょうよう》。命ぜられて武昌で軍を閲す。母の憂い(喪)に中るも、制を降して復帰、岳飛は霊柩を護送し廬山に還り、表を連ね軍務を終わって喪に服すを請うも、許されず、しきりに詔を受けて趣きを起こし、すなわち軍に就く。また命ぜられて宣撫河東、節制河北路。まず王貴らを遣わして?州を攻めさせ、これを下し、糧は十五万石、その衆数万を獲る。張俊曰く「飛の措置計劃は甚大、令してすでに伊、洛に至り、すなわち太行一帯の山砦、必ず応ずるもの有り」岳飛は楊再興《よう・さいこう》を遣わして兵を進め長水県に至らしめ、二度闘って皆捷つ。中原饗応し、また人を遣わして蔡州の糧を焚く。

  九月、劉豫は子の劉麟、甥の劉猊を遣わして分道淮西を寇す。劉光世は廬州にやどるを欲し、張俊は?胎《くたい》を棄てるを欲す。ともに奏して岳飛に召されるを以て兵を東に下し、岳飛その鋒に当たり、しかして己の退保を得るを欲す。張浚謂うに「岳飛の一動、則ち襄漢の何所を制すや?」力してその議を阻む。帝は張俊、光世では任に足らずとして、岳飛に東下を命じた。岳飛は曹成を破ってより、楊幺を平らげるまで、すべて六年、皆夏の盛りの行師であり、目疾を致すも是に至ること甚だ。詔を聞いて即日行くを啓き、未だ至らずして劉麟を破った。岳飛は奏し至り、帝の言葉を趙鼎が語りて曰く「劉麟の敗北は喜ぶに足らさせるなり。諸将朝廷を尊して知るべきを喜ぶ」ついに札を賜り、言うに「敵兵既に淮に去り、卿すべからく進発せず、それ或いは襄、鄧、陳、蔡の機に乗ずべき有り、従って長らく措置せよ」岳飛乃ち軍を還す。時に偽斉の兵屯して唐州を窺い、岳飛は王貴、董先《とう・せん》らを遣わしてこれを攻め、敗ってその営を焚く。奏して蔡を劃して中原を取るの策、許されず。岳飛王貴等を召して還る。

  七年、入見し、帝従容として問いて曰く「卿良馬を得るや?」岳飛曰く「臣に二馬あり、日に食らう芻豆数斗、泉を飲むこと一斛、しかるに清潔に非ずば則ち受けず。介して馳せ、初めて疾甚ならず、日に百里を行って始めて奮迅、午より酉に至るまで、猶二百里あるべし。鞍甲を奪って息継がず汗せず、しかるに無事然。これその大を受けしかしていやしきを取り、力裕して逞しきを求めず、致遠の材なり。不幸にして相継いでもって死す。今乗るところの者、日過ぎずして数升、しかして糧秣を撰ばず、飲む泉を撰ばず、轡を覧して未だ安らがず、勇躍疾駆、ただ百里、力渇して汗し喘ぎ、ほとんど斃然と欲す。これその寡を取り盈ちやすく、好んで逞しきを極め易し、駑鈍の材なり」帝は善しと称し、曰く「卿の議論今極進す」太尉を拝し、官を改めて宣撫使兼営田大使。建康への巡行に従い、もって王徳、?瓊《れき・けい》の兵を岳飛に隷せしむ。王徳らに詔で諭して曰く「飛の号令を聴くは、朕の親しく行うに如く」

  岳飛はしばしば帝に見え、恢復の略を論ずる。また手ずから疏して(一条ごとに奏して)言うに「金人の故名は劉豫を河南において立たせ、けだし中原に茶毒を欲す、中国を以て中国を攻め、ネメガ兵を休めるを得て血塗るを観る。臣が陛下に欲するは臣が月日のいとま、則ち兵を提げ京、洛に趨り、陝府、潼関、以て號して五路の叛将を召す。叛将すでに還り、王師遣わして前進す、彼ら必ず?を棄てしかして河北に走り、京畿、陜右をもって尽く復すべし。然る後兵を分かって濬、滑、両河を経略し、劉豫を擒えるを成せば即ちこれに如き、金人滅ぼすべく、社稷長久の計実にこの挙に有り」帝答えて曰く「有臣かくのごとく、顧みて復すに何を憂うか。進みて止まるの機、朕の制に中らず」また召して寝閤、これに命じて曰く「中興の事、一を以て卿に委ねる」命ぜられて節制光州。

  岳飛は計劃大挙、たまたま秦檜が和を主張し、ついに徳をもってせず、?瓊、岳飛に隷す。詔により都督府を詣でで張浚と事を議し、張浚岳飛に言いて曰く「王徳淮西の軍を服す所、浚は都統を以て為すを欲し、しかして呂祉に命じて都督府参謀を領させんとする。これ、如何に?」岳飛曰く「徳と瓊はもとより互いに見下し合い、一旦堰の上に在らば、すなわち必ず争う。呂尚書軍旅を習わず、恐れて衆服すに足らざるなり」張浚曰く「張宣撫如何?」岳飛曰く「暴にして謀少なし、もって瓊の服すところに非ず」張浚曰く「しからば楊沂中は?」岳飛曰く「沂中視るに徳らの輩、豈よくこの軍を御するや?」張浚怫然と怒りを発し「浚知るかたくなに太尉(岳飛自身)にあらざれば不可と」岳飛曰く「都督飛に正しく問うをもって、あえてその愚を尽くさざるをせず。豈兵を得るを以て念を為すや?」即日上章して兵権を解くを乞い、遂に喪に服す。張憲もって軍事をかわり、歩いて帰り、廬母の墓に側す。張浚怒り、奏してもって張宗元を宣撫判官となし、その軍を監す。

  帝はしばしば岳飛に還職を請うたが、岳飛は力めて辞し、詔に幕属して廬をつくり、以て死を乞う。およそ六日、岳飛は朝に趨り罪を待ち、帝これを慰めて遣わす。宗元還って言うに「将と士鋭く、人は忠孝に懐く。みな飛の訓養の致すところなり」帝大いに喜ぶ。岳飛奏して「寝閤《しんこう》の命に比べる者、みな聖談已に堅しといいて、何ぞ今なお未決に至るや? 臣願わくば兵を提げ進み討ち、天道に順じ、よって人心の曲を以て直と為し、老壮順逆を以て強弱を為し、これ万全必ずの效を為すべし」また奏して「銭塘《せんとう》を斥け海の隅に在るまで、武を用いる地に非ず。願わくば陛下都を建て上遊し、漢光武の故事を用いて親しく六郡を率い、往来督戦あれ。庶将士聖意の向かうところを知り、人々命を用う」未だ報いずして?瓊叛き、張浚始めて悔やむ。岳飛また奏して、「願わくば准甸《しゅんふく》に進屯し、?瓊を討つの便を窺う、期によっては破滅なり」許されず。詔により江州に駐師せられ、淮、浙の援けを為す。

  岳飛は劉豫とネメガが結ぶを知り、しかしてウジュと劉豫を悪む。もって間諜をして動くべし。たまたま軍中にウジュの間諜を得、岳飛は陽動してこれを責めて曰く、「汝吾が軍中の人張斌にあらずや? 吾汝を斉に遣わし、四太子を誘うを約すも、汝往きてまた来ることなし。吾遣わして継いで人に問い、斉已に我を許す。今冬江を寇して名を為し以て会合し、四太子を清河に致す。汝の持書はついに至らず、何ぞ我に背くか?」間諜はこいねがって死を緩め、すなわち詭道に服す。蝋書を作り、言うに劉豫とともに謀ってウジュを誅すの事、因って間諜に言いて曰く「汝今吾の代わりなり」また遣わして斉に至らせ、兵期を挙げるを問いて、股に納書を隠し、戒めて泄らす勿れ。間諜帰り、書を以てウジュに示す。ウジュ大いに驚き、馳せてその主に白し、ついに劉豫を拝す。岳飛は奏して「よろしく劉豫の廃されるに乗じてその不備を搗けば、長躯中原を以て取るべし」報いず。

  八年、軍を鄂州に還す。王庶は江、淮の師を視、岳飛と王書で書して「今歳兵を挙げずば、節を納めて閑を請うのみ」王庶はなはだこれを壮とす。秋、召されて行在に赴き、命ぜられて資善堂の皇太子を詣で見える。岳飛は退いて喜び曰く、「「社稷に人を得るなり、忠孝の業の基、それここに在りや?」たまたま金の使い将に河南の地に帰る。岳飛曰く「金人信ずるべからず、和を好んで頼むべからず、臣互いに国を謀ってよくせず、恐れをはらんで後世のそしりを受けるなり」秦檜これをふくむ。

  九年、もって河南を復し、大赦。岳飛は表謝して和議にやどすの不便意を語り、「燕雲手に唾し、復讎国に報いる」と。開府儀同三司を授かるも岳飛力めて辞し、謂うに「今日の事、危うべくして安ずるべからず。憂うべくして嘉すべからず。兵を訓して士をただすべく、備えを謹んで虞れず、しかして論功を行い賞すべからず、取れば敵人笑う」三度詔して受けず、帝温言して奨諭し、すなわち受ける。たまたま遣わされて士?諸陵に謁し、岳飛が軽騎を以て酒を払うを請うと、実に血塗るをもって討伐する謀を観るを欲した。また奏し「金人との講和に事無かれど、これ必ず近く虞れ有り、名をもって我地に帰り、実にこれに寄るなり」秦檜は白帝(西方)でその行くを止めた。

  十年、金人拱、毫を攻め、劉錡危急を告げる。命を受けて岳飛馳せて来援し、岳飛は張憲、姚政を遣わしてこれに赴かせる。帝は札を賜って曰く「施設の方、一を以て卿に委ねる。朕遥かにして度せず」岳飛は即ち王貴、牛皐、董先、楊再興、孟邦傑、李宝らを遣わし、分かって西京、汝、鄭、潁昌、陳、曹、光、蔡諸郡を経略させた。また梁興に命じて黄河を渡らせ、忠義の杜を糾合し、河東、北州県を取らす。また兵を遣わして東に劉錡を援け、西に郭浩を援け、自らはその軍を以て長躯中原に?む。将に発するにあたり、ひそかに奏言して「まず正しき国の本はもって人心の安、しかるのちその居に当たらず、以て復讎の意を忘れずを示す」帝奏を得、大いにその忠義を褒め、授けて少保、河南府路、陝西、河東北路招討使、ついで改めて河南、北諸路招討使。まもなく、遣わしたところの諸将あいついで勝ちを奏す。大軍潁昌に在り、諸将道を分かって出戦、岳飛は軽騎を以て?城に駐し、兵勢甚だ盛ん。

   ウジュ大いに懼れ、竜虎大王と会して議し、もって諸師与し安けれど、独り岳飛には当たるべからず、その師を誘い致すを欲し、力を併せて一戦。中外これを聞き、大いに懼れ、詔により岳飛は審所を自ら固める。岳飛曰く「金人の技、窮すなり」すなわち日の出とともに挑戦し、かつこれを罵る。ウジュ怒り、竜虎大王、蓋天大王と韓常の兵を合して?城に逼る。岳飛は息子岳雲に騎兵を領させて直ちにその陣を貫かせ、これを戒めて曰く、「勝てずば先に汝を斬る!」鏖戦数十合、賊の屍野に布の如し。

  はじめ、ウジュは勁軍あり、みな重鎧を着て、革索《かくさく》(革のひも)をもって貫き、三人で連を為して號して「拐子馬《かいしば》」、官軍当たる能わず。この役もって一万五千騎。岳飛は歩卒を戒め麻札刀《まさつとう》を以て入陣させ、仰ぎ見る勿れ、ただ馬の脚を斬れと。拐子馬互いに連なり、一馬が仆れれば二馬動く能わず。官軍奮撃し、遂に大いに敵を破る。ウジュ大いに慟哭して曰く「海上より兵を興し、皆以てここに勝つ。今已にして破れんや!」ウジュに援軍来て、武将王剛五十騎を以て敵を見て、これに遇い、奮闘してその将を斬る。岳飛は時に戦地から出視し、望見して黄塵が天を蔽う。自ら四十騎を以て突戦し、これを破る。

  まさに?城《えんじょう》で再捷し、岳飛岳雲に言いて曰く、「賊屡破れるも、必ず潁昌を還さんと攻める。汝宜しく速やかに王貴を援けよ」既にしてウジュはたして至り、王貴まさに遊撃を並べる。岳雲は背嵬軍を将いいて城西に戦う。岳雲は騎兵八百を前に挺して決戦し、歩軍を左右翼に張ってこれに継ぐ。ウジュの婿・夏金吾《かきんご》を殺し、副都統ネメガ、悖謹、ウジュは遁走する。

  梁興太行の忠義及び両河の豪傑らと会し、しばしば戦いみな捷ち、中原震撼す。岳飛奏して「興らは河を過ぎ、人心朝廷に還るを願う。金兵しばしば敗れ、ウジュら皆令して老少北に去り、まさに中興の機」岳飛は軍を進めて朱仙鎮に至り、?京から距離四十五里、ウジュと対壘して陣し、驍将に背嵬の騎兵五百を遣わして奮撃させ、大いにこれを破り、ウジュは敗れて?京に入る。岳飛は陵令行視諸陵に檄し、葺いてこれを治むる。(実際には朱仙鎮の戦いは行われず、糧道が続かず岳飛は軍を退いた)

  これより先、紹興五年、岳飛は梁興らを遣わして徳威を布告させ、両河の豪傑を招き結び、山砦の韋銓、孫謀ら兵を収斂して堡を固め、王師の到来を待った。李通、胡清、李宝、李興、張恩、孫琪ら衆を挙げて来帰する。金人の動息、山川の険要、一時みなその実を得る。尽く磁、相、開徳、澤、?、晋、絳、汾、隰の境、みな日を期して兵を興し、官軍と会す。その掲げる所の旗に「岳」の號を記し、父老百姓争って車を挽き牛を牽き、糧糒を乗せてもって義軍の食糧と為し、香盆を焚き頂いて迎える者、道路に充ち満ちる。燕より以南、金の號令行き届かず、ウジュは軍を閲してもって岳飛に抗おうと欲すも、河北に従うもの一人もなし。乃ち嘆いて曰く「我北方より興って以来、未だ今日の挫衂あらんや」金師・烏陵思謀素より號して桀黠(ずるがしこい)、またまたその下を制すこと能わず、ただこれを諭して曰く「軽道するなかれ、岳家軍来ればすなわち降るなり」金の統制王鎭、統領崔慶、将官李覬、崔虎、華旺らみな部を率いて降り、もって禁衛竜虎大王の下査を嫌う千戸高い勇の属、みな密かに岳飛の旗を受け、北方より来降す。金の将軍韓常五万の衆を以て内附し、岳飛大いに喜び、それに誤を下して曰く「黄龍府直撃、しかして諸君と痛飲せん!」

  まさに指して日に黄河を渡り、しかして秦檜の劃を欲するを以て淮以北の地を棄てさせられ、風の臣班師を請う。岳飛は奏して「金人鋭気沮喪し、尽く輜重を棄てる。疾走して黄河を渡り、豪傑の風向き、士卒命を用うべし。時は再来せず、危難軽く失す」秦檜は岳飛の志鋭にして回す能わずを知り、すなわち先に張浚、楊沂中らに帰るを請わせ、然る後孤軍となった岳飛は久しく留まるべからず、乞うて班師を令す。一日に十二の金字牌が奉ぜられ、岳飛は憤?泣いて下り、東南を再排して「十年の力、一旦にして廃す」岳飛班師し、民馬慟哭、訴えて曰く「我ら香盆を戴き、糧草を以て運びもって官軍を迎える。金人尽くこれを知り、相公去れば、吾輩らを?む類の者なきなり」岳飛また悲涙し、詔を取って示して曰く「我擅(ほしいまま)に留まるを得ず」哭声野を震わし、岳飛は留まる事五日してその徒を待つも、従い而して南者市の如く。奏極まってもって漢上六郡の間の田この処となる。

  まさにウジュ?を棄て、ある書生馬を叩いて曰く「太子走るなかれ、岳少保かつ退くなり」ウジュ曰く「岳少保五百騎をもって十万を破り、日夜京城を望来して来る。何と謂うて守るべしや?」書生曰く「古より権臣内に在って、大将能く外に功を立てるは未だあるべからず。岳少保かつ免ず、況や成功を欲すか?」ウジュ悟り、遂に留まる。岳飛既に帰り、所得の州県、ひるがえってまたこれ失す。岳飛は力めて兵権を解くを請うも、許されず、廬より入覲し、帝これを問い、岳飛拝謝してすでに已む。

  十一年、間諜が金軍分道して淮を渡り、岳飛請うて諸師の兵を合し敵を破らんと。ウジュ、韓常と竜虎大王疾駆して廬に至り、帝岳飛を応援に赴かせ、およそ十七札。岳飛は策して金人の挙国南に来りて、巣穴必ず虚ろなりと。しかして長躯京、洛をもってこれを搗けば彼必ず奔走すとし、坐して蔽す可し。時に岳飛まさに寒さに苦咳しながら、力めて疾りしかして往く。また帝敵の急な退散を恐れるも、即ち奏して「臣の虚実に如く。勢必ず利を得、もし敵方近在を為すも未だ遠図の暇、欲するは薪、黄に親しく至るを請い、以て議して攻め退かせん」帝奏を得て大いに喜び、札を賜って曰く「卿は寒疾に苦しみ、即ち朕行いを為す。国のために爾身を忘れては、誰が卿に如くや?」師廬州に至り、金兵風を望んでしかして遁ぐ。岳飛は軍を還し舒をもって命を待ち、帝また札を賜る。岳飛もって小心恭謹、進退を専らにせず礼を得て為す。ウジュ濠州を破り、張俊黄連鎭に駐軍して敢えて進めず。楊沂中また伏兵に遇って敗れ、帝命じて岳飛にこれを救わす。金人岳飛至るを聞き、また遁ぐ。

  時に和議決し、秦檜岳飛の己と異なるを患い、即ち密かに三大将を召して論功行賞を行う。韓世忠、張俊すでに至り、岳飛独り後になり、秦檜はまた参政王次翁と計って待つことこれ六七日。既に至り、枢密副使を授かり、位は参知政治の上、岳飛は固く請うて兵権を還す。五月、詔により同じく張俊が楚州措置辺防、世忠は軍をまとめて鎭江に駐軍した。

  初め、岳飛は諸将の中にあって最年少、もって列校から身を起こし、しばしば顕功を立て、世忠、張俊均しからず、岳飛に己を屈してこれに下り、幕中軽く鋭く岳飛に教える勿れと降意を苦慮す。金人淮西を攻めるや、張俊分地なり、張俊始めて敢えて行かず、士卒功無し。岳飛は命を聞いて則ち行き、遂に廬州の囲みを解き、帝岳飛に両鎭の節を授ける。張浚益々愧じる。楊幺を平げ、岳飛張浚、世忠に楼船各一を献じ、兵械畢に備わる。世忠大いに喜び、張俊反してこれを忌む。准淮の役、張俊は以って前途の糧を乏しくし岳飛の兵を引かせんとするも、岳飛止まらず、帝は札と褒諭を賜って曰く「転じて餉の難阻なるに、卿顧みて復さず」張俊は岳飛の漏らす言を疑い、朝に帰り、反証言して岳飛逗留して進まず、餉乏しくなってもって辞を為すと。世忠の軍を見るに至り、張俊世忠が秦檜に逆らうを知り、岳飛にその背嵬軍を分かつを欲す。岳飛議によって肯んぜず、張俊大いに悦ばず。楚州城に同行するに及び、張俊城を補修し備えを為すに、岳飛曰く「まさに戮力をもって恢復を図り、あに退歩の計を為すべきなり」張俊顔色変わる。

  たまたま世忠の軍吏景著と総領胡紡謂うに、「二枢密もし世忠の軍に分かれれば、生事恐るに至る」胡紡朝に乗するも、秦檜景著を逮捕して大理寺に下し、将に以て世忠の誣告を煽った。岳飛は馳せて書に告げ秦檜の意を以て、世忠は帝に見えて自明。張俊はここにおいて岳飛を大いに遺憾とし、ついに証言して岳飛が山陽に議を棄て、かつ密かにもって岳飛が世忠に報せる事を秦檜に告げる。秦檜大いに怒る。

  初め、秦檜は趙鼎を逐い、岳飛をことごと対客して嘆息し、また恢復を以て己の任と為すを、肯んぜずながら和議に附く。秦檜奏を読んで至るに「師には常に徳なし、主よく師を為せ」の語を悪みその欺罔(欺き騙すこと)を恚《いか》りて曰く「君臣の大倫、根においては天性。大臣而して面謾(面と向かって相手を馬鹿にする)を忍ぶ、ましてやその主をや!」ウジュが秦檜に遣わした書に曰く「汝朝夕を以て和を講じ、しかして飛まさに河北の劃をなす。必ず飛を殺し、始めて和を結ぶべし」秦檜また以て岳飛死なずばついに講和ならずを知り、己必ず災いを及ぼすと。故に力謀してこれを殺す。諌議大夫万俟?《ばんき・せつ》は岳飛に恨みあり、風評を以て?に岳飛を弾劾させ、また中丞・何鋳《か・ちゅう》、侍御史・羅汝楫《ら・じょい》に章を交えて弾論させる。大意言うに「今春金人淮西を攻め、飛舒を略すに至って薪まで進まず。これと比するに張俊は淮上に按兵し、また山陽を棄てるを欲して守らず」岳飛はおびただしい章請に枢柄を罷め、ついで両鎭節に還り、萬壽観使に充てられ、奉じて朝を請うた。秦檜の志いまだ伸びざるも、また張俊が諭令して王貴を脅かし、王貴を誘って謀って張憲を誣告させ、岳飛は兵を還した。

  秦檜は使者を遣わして岳飛父子を捕え張憲の身事を証かさせ、使者至って、岳飛は笑いて曰く「皇天后土、この心表すべし」はじめ何鋳に命じてこれを取り調べたところ、岳飛は衣装の背をもって裂いて何鋳に示し、有るは「尽忠報国」の四大字。深く肌の奥まで刻まれていた。すでにして事実を閲して左験(証拠)無く、何鋳はその無辜を明らかにする。改めて万俟?が命ぜられ、?誣告し、岳飛と張憲の書、令して虚を申し探報をもって朝廷を動かし、岳雲と張憲の書、令して岳飛を軍に還すの措置あり、と、謂い且つその書を已に焚いた。

  岳飛は坐して繋がれること二ヵ月、証拠となるものなし。あるいは?に教え章所をもって淮西の事を指す言うを為す。?喜んで秦檜に白し、岳飛の家の簿に?し、当時の御札を取って藏の迹を滅す。また孫革らに逼って岳飛が逗留の詔を受けた証を取り、評事に命じて元亀年間に取った行軍時日の雑定もこれ、傳じてその獄に会した。歳暮れ、獄ならず。秦檜は手ずから小紙に獄に付す、と書し、即報じられて岳飛は死んだ。時に三十九歳。岳雲は棄市された。家財は召し上げられ、家は嶺南に移された。幕僚の于鵬ら従って連座したもの六人。

  初め、岳飛は獄に在り、大理寺丞李若樸、何彦猷、大理卿薛仁輔らに言を並べて無罪を訴えたが、?が弾劾に来た。宗正卿・士?《しじょう》が百口をもって岳飛を保たんとしたが、?はまたこれを劾し、建州で鼠死させた。布衣劉允升は上書して岳飛の冤罪を訟したが、下棘寺でもって死ぬ。およそその獄に傳を成す者、みな左遷されるか獄死するかした。

   獄の状に上と韓世忠は不平であり、秦檜を詣でてその実を詰った。秦檜に「岳飛の子岳雲と張憲の子の書は不明と雖も、その事礼莫須有(あったかもしれない)」に世忠曰く「「莫須有の三字で、何をもって天下が復するか?」時に洪皓金国中にあり、?書を馳せて奏す。金人の畏れ服するところの者はただ岳飛、致すに以て父とこれを呼ぶ。諸酋その死を聞き、酒を酌してこれを賀した。

  岳飛は至って孝、母を河北に留め、人を遣わしてこれを求め、迎え帰る。母に長病みがあると、薬も食事も必ず親しく手ずから与えた。母率すると水一滴も口に容れぬこと三日。家には侍る姫なし。呉?は素服の岳飛を見てこれと交歓を願い、名を飾って妹を遣わしたが、岳飛は「主上が宵?(政治に勤勉である)、豈大将安楽の時か?」と斥けて受けず、呉?は益々敬服した。若くして酒豪であり、帝がこれを戒めて曰く「卿は異時河朔に至る。乃ち飲むべし」言われて遂に絶対酒を辞めた。帝ははじめ岳飛に営第を勧めたが、岳飛は辞して曰く「敵いまだ滅ばず、何をもって家ありや?」ある問いに天下何時太平かと、岳飛曰く「文臣錢を愛さず、武臣命を惜しまず、天下泰平なり」

  師のことごとの休舎、将士に課して坂を下り濠を跳ねさせ、みな重鎧してこれを習す。子の岳雲はかつて坂を下り、馬躓き、怒られこれを鞭される。卒に民から取るもの麻一縷、芻一束でもあれば、立って斬りもって徇えた。卒の宿に夜、民の開門の願いを入れ、敢えて入るものなし。軍に號して「凍死しても屋を折らず、餓死しても鹵掠せず」。卒に病有れば窮して調薬を為し、諸将遠くを戌って、妻を遣わしその家の労を問う。死者有れば哭きしかしてその孤を育て、或いは子を以てその娘と結婚せしめた。およそ労いを分かつに均しく軍吏に給し、秋毫もわたくしせず。

  善く少を以て衆を撃つ。欲するは挙ぐる所あれど、尽く諸統制と謀り、謀を定めて而るのち戦う、故に勝ちあって無敗。ずるがしこい敵に遇っては不動、ゆえに敵これを語って曰く「山を動かすは易く、岳家軍を撼かすは難なり」張俊がかつて用兵の術を問うて、曰く「仁、智、信、勇、嚴、一つも欠けるべからず」軍食を調べて、必ず額を顰めて曰く「東南の民力、消耗疲弊の極なり」荊南を平らげ、民を募って営田させ、また屯田を為し、歳の漕運の半ばを省く。帝は手ずから書して曹操、諸葛亮、羊?の三事、これを賜い岳飛をそれに並べるも、岳飛は曹操を姦賊と指して憎む。しかるに尤も奸悪の所、秦檜、悪むべし。

   張所死すと岳飛は旧恩に感じ、その子張宗本の身の証を立て、奏してもって官につける。李宝楚より来帰すると韓世忠これを留め、李宝は哭して岳飛に願い帰した。世忠は書を持って来歴に深く立ち入るも、岳飛また曰く「均しく国家を為す、彼はここ何分や?」世忠嘆じて服す。襄陽の役、詔により劉光世の援を為し、六郡すでに復し、光世始まるに至る。岳飛は奏して先ず光世の軍を賞した。賢を好み士に礼し、経史を閲読して雅歌を壺に投じ、恂恂として書生に如く。毎度を辞し、必ず曰く「将士の效力、飛になにほどの功有らん?」しかるに忠憤激烈、義論に正を持ち、人に対して挫けず、卒するを以て禍を得る。

  秦檜死し、議して岳飛復官。万俟?は金まさに和を願うと謂うも、一旦胡将を?し、天下心疑い、べからず。紹興末年に及び、金益々猖獗、太学生程宏図上書して岳飛の冤を訟し、詔により岳飛の家を自ら便ず。始め、秦檜は岳州が岳飛と同姓なのを悪み、改めて純州と為す。ここに至って旧に復す。中丞汪澈荊、襄を宣撫して故部曲合してこれを辞訟し、哭声雷震《こくせいらいしん》。孝宗は詔により岳飛を復官させて、礼を以て改めて葬し、錢百万を賜り、その後裔を求めて尽く官につける。鄂に廟を立てて號して忠烈。淳熙六年、諡して武穆。嘉定四年、追封して鄂王。

  五子有り、岳雲、岳雷、岳霖、岳震、岳霆。

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