中国史

東漢-鄧禹

鄧禹(とう・う、2-58) 鄧禹、字は仲華、南陽新野の人である。彼は十三歳にして良く詩を賦すことができた。長安に赴いて学問を求め、そこでのちの光武帝、すなわち劉秀と出会う。劉秀は8歳年下のこの少年を侮ることなく対等に接し、刎頸の交わりを結ん...
中国史

東漢-光武帝劉秀

後漢光武帝劉秀(前6-57) 後漢光武帝は姓は劉、名は秀といい、字は文叔、南陽蔡陽の人である。漢の高祖から9代の子孫であり、祖父の劉回は鉅鹿都尉、父、劉欽は南頓令を努めた。 劉秀は9歳で父を喪い、叔父・劉良のところで養われた。劉氏は当地の豪...
インド史

チャンドラグプタ・マウリヤ(インド)

チャンドラグプタ・マウリヤ(BC340-293)アレクサンダーのインド侵攻は、彼が実際に同盟国を訪れた場所をはるかに超えた地域に影響を及ぼした。そのような影響の1つが、インド北東部のマガダ王国である。マガダは、インド亜大陸を支配する多くの小...
マケドニア

アレクサンドロス大王(マケドニア)

アレクサンドロス大王多くの人が、アレクサンドロスを史上5番目に偉大な司令官として評価することには同意しないだろう。しかし、最近の学問と史料の再評価は、彼の業績が少し誇張された可能性があることを示唆している。たとえば、現代の歴史家は、伝統的に...
中国史

西漢-鄭吉

鄭吉(てい・きつ。?-前四十九) 鄭吉は会稽の人であり、行伍(兵卒)出身である。しばしば西域に出て、この由を以て郎となる。人となりは強堅にして執着強く、外国の事情に習熟する。張騫が西域を開拓し、李広利がそれを征伐してのち、西域にははじめて校...
中国史

西漢-霍去病

霍去病は大将軍・衛青の姉・衛少児の子である。その父・霍仲孺は先だってより霍少児と私通しており、それで生まれたのが霍去病だった。衛皇后が尊貴に上るにおよび、衛少児も詹事・陳掌の妻となる。霍去病は衛皇后の姉の子として、十八歳で侍中とされた。騎射...
中国史

西漢-衛青

【人生】 衛青は西漢の名将である。字は仲卿、河東平陽のひと。もとは平陽公主に仕える家奴だったがのち漢の武帝の寵遇を受け、大将軍、長平侯に。武帝の元朔二年(前127)、衛青は軍を率いて大いに匈奴を破り、河套地区を漢の版図に入れた。元狩四年には...
中国史

西漢-李広

李広 李広は隴西成紀の人である。祖先の李信は秦の時代の将軍で、燕の太子・丹を擒えたものである。李の家は代々射術に習熟した将門であり、孝文帝の十四年、匈奴が大挙?関を侵すと、李広は良家の子弟たちによる軍を率いて匈奴に抗撃、よく射て虜を殺すこと...
中国史

西漢-周亜夫

周亜夫(?-前143)周亜夫は周勃の息子である。周勃死後、息子周勝之が後を継いだが、公主との結婚生活が不仲で殺人を犯し、死刑に処され国を除かれた。その翌年に文帝の選抜で引き立てられたのが周勃のもう一人の息子、賢者・河内守・周亜夫であった。周...
中国史

西漢-韓信

韓信(?-前196)略歴 韓信は西漢初期における大将であり、淮陰の人である。陳勝呉広の起義ののち、まず項梁、項羽についたが重用されず、のち劉邦に付き従い、丞相・蕭何の力強い推挙により大将を拝すに至った。劉邦を助け「三秦を定めもって天下を奪う...