雲台28将

中国史

王覇

王覇(おう・は。?-59) 王覇は字を元伯といい、潁川潁陽の人である。代々文法(法律)を好み、父は郡の决曹掾となり、王覇もまた若くして獄吏となった。常々慷慨して吏職を楽しまず、父はこれを奇として王覇を西の長安に学びに遣わした。漢の兵起こり、...
中国史

邳彤

邳彤(ひ・とう) 邳彤は字を偉君といい、信都のひとである。父は邳吉といい遼西太守になった。邳彤は始め王莽の下で和成郡卒正となる。劉秀が河北を占拠し、下曲陽に至ると、邳彤は城をもって投降し、劉秀はまたかれを太守に任じ、留まる事数日。劉秀が北上...
中国史

祭遵

祭遵(さい・じゅん。?-33) 祭遵は字を弟孫といい、潁川潁陽の人。若くして読書を好み、家は富裕であったが、祭遵は恭倹な性質でボロい衣服を身に着けていた。母の喪に当たり、自ら背に土を負うて墳墓を造る。たまたま部吏が祭家を侵すところあり、賓客...
中国史

東漢-臧宮

臧宮(ぞう・きゅう) 臧宮、字は君翁。潁川郟県の人である。若いころは亭長、遊徼。のち賓客を率いて下江に入り、校尉となる。光武帝の征戦に随い、諸将は大いにその勇敢であることを称賛した。劉秀は臧宮が謹直、言葉少ないことを観察して、彼を近くに置い...
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東漢-賈復

賈復(か・ふく。?―55) 賈復は字を君文といい、南陽冠郡の人である。若くして学問を好み、≪尚書≫の大義に通暁した。師匠で舞陽の李生が、自分の門弟たちに謂うには、「賈君の容貌には非凡なものがある。また学問に勤勉であるから、いずれ将相を兼ねる...
中国史

東漢-耿純

耿純(?-37) 耿純は字を伯山といい、鉅鹿宋子の人である。父・耿艾は王莽の世で済平尹となった。耿純は長安に在って学問を求め、のち納言士とされた。 王莽が失政して更始帝が即位すると、舞陰王・李轍の招きで諸郡国は投降し、耿純の父・耿艾も投降し...
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東漢-馮異

馮異(ふう・い。?-34) 馮異は字を公孫といい、潁川父城の人である。東漢中興の名将であり、“雲台二十八将”の一人でもある。 馮異は平素より読書を好み、‘左氏春秋’‘孫子の兵法’に通暁した。 馮異は若い頃王莽に仕え、地皇三年こと西暦二二年、...
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東漢-鄧禹

鄧禹(とう・う、2-58) 鄧禹、字は仲華、南陽新野の人である。彼は十三歳にして良く詩を賦すことができた。長安に赴いて学問を求め、そこでのちの光武帝、すなわち劉秀と出会う。劉秀は8歳年下のこの少年を侮ることなく対等に接し、刎頸の交わりを結ん...