東漢

中国史

皇甫崇

皇甫崇(こうほ・すう)皇甫崇は字を義真といい、安定朝那の人である。度遼将軍・皇甫規の兄の子であり、父・皇甫節は雁門太守であった。皇甫崇は幼いころから文武を兼ねて学び、ことに≪詩『尚書』を好み、騎射にも習熟した。はじめ推薦により孝廉、茂才に挙...
中国史

張奐

張奐(ちょう・かん。104-181) 張奐は字を然明といい、敦煌淵泉の人である。父は漢陽太守。張奐は幼くして三輔に遊び、太尉の朱寵を師として随い、欧陽氏に『尚書』を学んだ。はじめ、無卿が撰するところの『尚書章句』は言辞冗長で四十五万語に達し...
中国史

王覇

王覇(おう・は。?-59) 王覇は字を元伯といい、潁川潁陽の人である。代々文法(法律)を好み、父は郡の决曹掾となり、王覇もまた若くして獄吏となった。常々慷慨して吏職を楽しまず、父はこれを奇として王覇を西の長安に学びに遣わした。漢の兵起こり、...
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邳彤

邳彤(ひ・とう) 邳彤は字を偉君といい、信都のひとである。父は邳吉といい遼西太守になった。邳彤は始め王莽の下で和成郡卒正となる。劉秀が河北を占拠し、下曲陽に至ると、邳彤は城をもって投降し、劉秀はまたかれを太守に任じ、留まる事数日。劉秀が北上...
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虞詡

虞詡 虞詡は字を昇卿といい、陳国武平の人である。祖父・虞経は郡県の獄吏であり、法を執るに公正、務めて寛恕あり、毎冬上表して罪人のために涙流して止まず。かつて称して曰く、「東海の于公里門を高くなし、しかしてついにその子于定国を丞相の位につけん...
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班超

班超 班超は字を仲昇といい、扶風平陵の人であって徐の令・班彪の子である。人となり大志あり、細節を修めず。然るに内では孝順恭謹なれど、家にいては常の執務がつらく、栄辱を恥じる。彼は口を開けば猟読した書の傳を弁じた。永平五年、兄・班固が召されて...
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祭遵

祭遵(さい・じゅん。?-33) 祭遵は字を弟孫といい、潁川潁陽の人。若くして読書を好み、家は富裕であったが、祭遵は恭倹な性質でボロい衣服を身に着けていた。母の喪に当たり、自ら背に土を負うて墳墓を造る。たまたま部吏が祭家を侵すところあり、賓客...
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東漢-臧宮

臧宮(ぞう・きゅう) 臧宮、字は君翁。潁川郟県の人である。若いころは亭長、遊徼。のち賓客を率いて下江に入り、校尉となる。光武帝の征戦に随い、諸将は大いにその勇敢であることを称賛した。劉秀は臧宮が謹直、言葉少ないことを観察して、彼を近くに置い...
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東漢-賈復

賈復(か・ふく。?―55) 賈復は字を君文といい、南陽冠郡の人である。若くして学問を好み、≪尚書≫の大義に通暁した。師匠で舞陽の李生が、自分の門弟たちに謂うには、「賈君の容貌には非凡なものがある。また学問に勤勉であるから、いずれ将相を兼ねる...
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東漢-耿純

耿純(?-37) 耿純は字を伯山といい、鉅鹿宋子の人である。父・耿艾は王莽の世で済平尹となった。耿純は長安に在って学問を求め、のち納言士とされた。 王莽が失政して更始帝が即位すると、舞陰王・李轍の招きで諸郡国は投降し、耿純の父・耿艾も投降し...