中国史

中国史

岳飛

岳飛は字を鵬挙といい、相州湯陰の人である。代々豪農で、父岳和は能く節食して民を飢餓から救った。農地を侵されてもこれを分かちあい、財を貪られても償いを求めることがなかった。岳飛が誕生した時、鵬があって室上に嘶きいたので、これに因って名としたと...
中国史

霍去病

霍去病は大将軍・衛青の姉・衛少児の子である。その父・霍仲孺は先だってより霍少児と私通しており、それで生まれたのが霍去病だった。衛皇后が尊貴に上るにおよび、衛少児も詹事・陳掌の妻となる。霍去病は衛皇后の姉の子として、十八歳で侍中とされた。騎射...
中国史

李靖

李靖(り・せい。五七一-六四九)李靖、字は薬師、京兆三原の人。姿貌雄偉にして書史に通ず。かつて親しきに謂うところ「ますらおになるにはまさに功名を以て富貴を取るべし、なんぞ章句を作って儒者とならんや!」と。その伯父韓擒虎は李靖とことごとに兵を...
三國志

呂蒙

呂蒙(りょ・もう)呂蒙は字を子明と言い、汝南富陂の人である。家は貧しく若くして父を失った呂蒙は戦乱に会い、姉の夫鄧当に身を寄せる。鄧当は孫策の武将であって、山越討伐などに功があった。呂蒙が15、16になったとき鄧当に従って賊を撃ち、深入りし...
中国史

五代-李克用

李克用(り・こくよう。八五五-九〇七) 李克用、本姓は朱邪、もとは隴右金城の人である。先祖の朱邪抜野は唐太宗に随い高麗、薛延陀の討伐に功を建て、金方道副都護を授かる。太宗は北庭に都督府を置くとその地・大沙堆に因んで沙陀都督府と名付け、高宗の...
中国史

遼-耶律隆運

耶律隆運、本姓は韓、名は徳譲、西南面招討使匡嗣の子なり。統和十九年、徳昌の名を賜り、二十年、耶律の姓を賜り、二十八年、また名を賜与されて隆運。重厚にして智略有り、功を建てることを喜んだ。景宗に侍り、もって謹み戒めるを聴き、東頭承供官を加えら...
中国史

東漢-臧宮

臧宮(ぞう・きゅう) 臧宮、字は君翁。潁川郟県の人である。若いころは亭長、遊徼。のち賓客を率いて下江に入り、校尉となる。光武帝の征戦に随い、諸将は大いにその勇敢であることを称賛した。劉秀は臧宮が謹直、言葉少ないことを観察して、彼を近くに置い...
中国史

東漢-賈復

賈復(か・ふく。?―55) 賈復は字を君文といい、南陽冠郡の人である。若くして学問を好み、≪尚書≫の大義に通暁した。師匠で舞陽の李生が、自分の門弟たちに謂うには、「賈君の容貌には非凡なものがある。また学問に勤勉であるから、いずれ将相を兼ねる...
中国史

宋太祖趙匡胤

趙匡胤は宋の太祖である。涿州の人で927年生まれ、976年没。後周の著名な大将であったが、960年陳橋の兵変で皇帝に即位し、宋王朝を建立した。彼は各個撃破戦略を駆使して荊南、湖南、後蜀、南漢、南唐などを前後して攻略、中央集権を推し進めて、唐...
中国史

東漢-耿純

耿純(?-37) 耿純は字を伯山といい、鉅鹿宋子の人である。父・耿艾は王莽の世で済平尹となった。耿純は長安に在って学問を求め、のち納言士とされた。 王莽が失政して更始帝が即位すると、舞陰王・李轍の招きで諸郡国は投降し、耿純の父・耿艾も投降し...