中国史

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五代-李克用

李克用(り・こくよう。八五五-九〇七) 李克用、本姓は朱邪、もとは隴右金城の人である。先祖の朱邪抜野は唐太宗に随い高麗、薛延陀の討伐に功を建て、金方道副都護を授かる。太宗は北庭に都督府を置くとその地・大沙堆に因んで沙陀都督府と名付け、高宗の...
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遼-耶律隆運

耶律隆運、本姓は韓、名は徳譲、西南面招討使匡嗣の子なり。統和十九年、徳昌の名を賜り、二十年、耶律の姓を賜り、二十八年、また名を賜与されて隆運。重厚にして智略有り、功を建てることを喜んだ。景宗に侍り、もって謹み戒めるを聴き、東頭承供官を加えら...
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東漢-臧宮

臧宮(ぞう・きゅう) 臧宮、字は君翁。潁川郟県の人である。若いころは亭長、遊徼。のち賓客を率いて下江に入り、校尉となる。光武帝の征戦に随い、諸将は大いにその勇敢であることを称賛した。劉秀は臧宮が謹直、言葉少ないことを観察して、彼を近くに置い...
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東漢-賈復

賈復(か・ふく。?―55) 賈復は字を君文といい、南陽冠郡の人である。若くして学問を好み、≪尚書≫の大義に通暁した。師匠で舞陽の李生が、自分の門弟たちに謂うには、「賈君の容貌には非凡なものがある。また学問に勤勉であるから、いずれ将相を兼ねる...
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宋太祖趙匡胤

趙匡胤は宋の太祖である。涿州の人で927年生まれ、976年没。後周の著名な大将であったが、960年陳橋の兵変で皇帝に即位し、宋王朝を建立した。彼は各個撃破戦略を駆使して荊南、湖南、後蜀、南漢、南唐などを前後して攻略、中央集権を推し進めて、唐...
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東漢-耿純

耿純(?-37) 耿純は字を伯山といい、鉅鹿宋子の人である。父・耿艾は王莽の世で済平尹となった。耿純は長安に在って学問を求め、のち納言士とされた。 王莽が失政して更始帝が即位すると、舞陰王・李轍の招きで諸郡国は投降し、耿純の父・耿艾も投降し...
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ドルゴン

多爾袞(ドルゴン。一六一二-一六五〇) ドルゴンは明の万暦四〇年(一六一二)一二月二五日に生まれ、清の順治七年(一六五〇)一二月九日に没した。清の太祖ヌルハチの第十四子であり、母は大妃ウラナラ氏、同母兄にアジケがおり、同母弟にドドがいる。 ...
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東漢-馮異

馮異(ふう・い。?-34) 馮異は字を公孫といい、潁川父城の人である。東漢中興の名将であり、“雲台二十八将”の一人でもある。 馮異は平素より読書を好み、‘左氏春秋’‘孫子の兵法’に通暁した。 馮異は若い頃王莽に仕え、地皇三年こと西暦二二年、...
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東漢-鄧禹

鄧禹(とう・う、2-58) 鄧禹、字は仲華、南陽新野の人である。彼は十三歳にして良く詩を賦すことができた。長安に赴いて学問を求め、そこでのちの光武帝、すなわち劉秀と出会う。劉秀は8歳年下のこの少年を侮ることなく対等に接し、刎頸の交わりを結ん...
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西漢-鄭吉

鄭吉(てい・きつ。?-前四十九) 鄭吉は会稽の人であり、行伍(兵卒)出身である。しばしば西域に出て、この由を以て郎となる。人となりは強堅にして執着強く、外国の事情に習熟する。張騫が西域を開拓し、李広利がそれを征伐してのち、西域にははじめて校...