春秋-秦-百里孟明視

秦の穆公の三十三年(前六二七)、孟明視は西乞述、白乙丙とともに命を奉じて鄭を襲う。発覚して鄭人すでに準備有り、認られて“これを攻めても克てず、これを囲んでも継かず”といって滑を滅ぼして還る。師を回して殽を経過し、晋の伏兵に遇って兵敗れ俘虜となる。文嬴(秦穆公の娘、晋文公夫人)の巧みな請求により晋の襄公はかれらを釈放し、のち襄公は先軫に責を問われる。襄公はまた陽処父を派遣してこれを追わせ、黄河畔まで追って至るが、三将すでに舟に乗る。楊処父は驂馬(三頭立ての馬車)を左辺に下り、晋襄公の名義を追贈する。孟明視叩頭して曰く、“君王の恩恵を蒙り、囚われし臣らを祭鼓に用いず、譲りて我ら秦国に還りて誅を愛く。寡が君果たして我らを殺し、死すとも不朽なり。果たして君王の恩恵に依りてしかして我ら赦免されれば、三年ののち我ら拝謝して君王の恩賜に答えん!”秦国に還るや、穆公は素服で郊外に彼らを迎え、師に向いてしかして哭き、曰く“我蹇叔の言葉に背反し、汝らに機位侮辱を受けさしめる。これ吾が罪の過ぎるなり”依然として孟明視らを重く用いた。
 秦の穆公三十五年、穆公はまた孟明視らに師を率いさせて派遣し晋を伐たせ、殽の戦いの報復を作戦す。二月七日、晋師と彭衙に戦うも、秦軍大敗。晋の国人は戯れてこれを称して秦国に“謝して拝す恩賜の部隊”と呼んだ。こののち、秦の穆公は旧を照らして孟明視を任用する。孟明視は努力して明るく政治を修め、百姓に利益を給わった。ちなみにしかして晋国の趙成子と対し大夫らと説い、“秦軍はたして再度前に来る、かならず要って避け開き、心懐け誡め懼れて意に着け徳行を修め明るくする人、これ抵抗する能わず! 孟明視已に径を知り道理を知る”
 穆公三十六年、孟明視は三度命を受けて晋を伐つ。不退転必勝の決心を表し、彼は黄河を渡ってのち船を焼く。因るに而して王官を攻め取り、郊地を取り、晋人敢えて出戦せず。秦軍は茅津より河を渡り、殽の地に至り死亡した将士を胎土して樹を標とし、しかるのち国に還り、ついに殽の戦の恥辱を雪いだ。この一戦を経て、秦穆公の西戎討伐の最高の領袖となった

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