東漢-耿弇

耿弇(こう・えん)
耿弇(3~58)は東漢の有名な将軍であり、「雲台28人将」の一人である。 字は伯昭といい、 茂陵(現在は陝西省興平の北東)出身。 耿弇は河北を策定め、南陽を計略で定め、燕卒を集めて斉彊を征服し、東漢王朝建立時における不滅の業績を残した。

1.父を解いて劉の戦陣に下る
耿弇は若い頃から頭が良くて勉強熱心であった。 郡の副官が騎士を選ぶときに旗や太鼓を設置し、馳射の練習をしている光景をよく見たので、将軍の業務に興味を持つようになった。 このころ、河北の王朗が漢王朝の成帝の息子である劉子輿のふりをして邯鄲で兵を起こし、あるひとが早々に投降すべしと説いたが、耿弇は剣を手に、王朗は大勢力にはなり難い、遅かれ早かれ敗北するだろうと言って、正論で彼らを叱責した。そして劉秀が魯粕(現在の河北省定賢県)にいると聞いたので、昼夜兼行で彼に会いに行くと、 劉秀は彼を引き留め、その場で部下の将校に任命した。耿弇は劉秀に従って北の薊県に向かった。王朗の兵が薊県に迫ると、劉秀は南に戻る準備をはじめた。 この時、薊県の一部の人々が反乱を起こし、王朗に呼応したので、劉秀はわずかの兵を率いて倉皇と南に奔り、部下の将校は散り散りになった。 耿弇は昌平に逃げ帰り、当時の上谷太守である父・耿況を説得して、寇徇を魚陽に派遣し、それぞれ2,000の騎兵と1,000の歩兵を渡して彭寵と契約を結んだ。 耿弇と景丹、寇徇は魚陽軍の将士を合して南下し、途中で王朗の将軍、九卿、校尉以下の官吏400人以上を殺し、兵士30,000人を斬ったて涿郡、中山、鉅鹿、清河、河間を含む22の県を平定し、広阿で劉秀に拝謁した。 当時、劉秀は王朗を攻撃していたが、上谷と魚陽の兵馬は王朗を救うために来たと噂され、人々は非常に心配していた。なので耿弇たちが劉秀の陣営に行って彼らに会うまで、人々は安心できなかった。劉秀はこの精鋭なる猛将を手に入れたことをとても嬉しく思い、すぐに彼らを偏将軍に任じ、引き続き彼らが彼ら自身の軍隊を指揮できるように計らった。加えて耿弇の父耿況を大将軍、および興義侯とし、彼の支持を取り付けた。耿弇らは軍に随行して邯鄲を征服した。更始帝は劉秀偉が倒れないことを深く恐れていたので、使者を送って勅命を告げ、劉秀を蕭王に任じ、軍を班師させるように命じた。 このとき、劉秀は邯鄲宮の温明殿で昼寝していたが、耿弁は劉秀の寝所に行き、軍を返すべからずと説き、であれば自らは幽州に戻って精兵を調発し、大事を成し遂げることをいとわないと言った。 劉秀は耿弇の言葉を聞いて、まさにその通りと納得した。そこで劉秀は耿弇を将軍に任命し、耿弇は呉漢と一緒に幽州に赴き、十郡の兵力を調発した。 耿弇は上谷に向かい、韋順と蔡充を斬首し、呉漢は苗曾を殺した。 その後、耿弇と呉漢は一緒に幽州の兵馬を率いて軍隊を南に進めた。 二人は劉秀に従って銅馬、高湖、赤眉、青犢の農民軍を破り、また尤来、大槍、五幡などを追撃し、元氏(常山郡行政区、現在の河北省の元氏北西)に至った。 戦闘では、耿弇はしばしば精兵を率いて先鋒となり、敵に当たれば万人辟易、風を望んで披靡した(=驚嘆するほどに強かった=無敵であった)。 劉秀は勝ちに乗じて順水(現在の満城の北西)で敵と戦い、大いに敵を破った。劉秀は薊県に戻り、耿弇や呉漢を含む13人の将軍を潞県東部に派遣して敵を追撃させた。 両軍は平谷で大戦を繰り広げ、漢軍は13,000人以上の敵軍を殺害し、無終(現在の天津薊県)と土艮(現在の河北省豊潤の東)での勝利に乗じて、ジ俊靡(現在の河北省遵化の北西)まで激しく追跡した。 敵は壊乱し、遼西・遼東東の一帯に入った。劉秀が帝位につき、光武帝となると、耿弇は建威大将軍に任命された。 建武2年(26)、彼は好畤侯に任命される。

2.二城を連ねて下し迫って張歩を降す
建武5年(29)の10月、耿弇は詔を受けて張歩討伐を命ぜられた。 彼は兵士を集め、軍を動かし、兵士を選び、騎都尉の劉歆と太山太守の陳俊を率いて軍隊を東に進めた。 張歩は漢軍が来ていることを知ると、すぐに大将軍の費邑を派遣して迎え撃った。耿毅は2つの都市を連続して下すため、まずは巨里(現在の山東省章丘の北)を攻撃するつもりであるという情報を流した。費邑は情報を得て、30,000精鋭兵士を率いて巨里に向かう。 耿弇は費邑の行動を見て、巨里の牽制に3,000人の兵士を残し、自分は精鋭を率いて有利な地形を占領し、居丈高に飛夷を阻止し、費邑を破って殺した。救援に来るはずの費邑が敗死したことで、巨里の守備隊は街を放棄して逃げ出した。 耿弇はまだ平らになっていない営台を攻撃するために軍を派遣し、40以上の営を連破して、ついに済南を平定した。当時、張歩は建都据藍(現在の山東省寿光の南東)で済南喪失のニュースを知り、弟の張蘭に命じて諸郡太守と兵を合して臨淄から40里のところまで進ませた。耿弇は軍を指揮して画中(臨淄の南西)に直進し、攻撃して西安を占領。張藍はこれを聞いて大いに失措し、自分の配下を率いて据城に逃げ帰った。張歩は相次いで二城を失うと突然悟り、兵の多数を恃むや数万の兵を20万と号して気勢を上げ、臨淄へと突撃した。耿弇はわざと自軍を弱く見せかけ、張歩は優越に慢心して兵を耿弇の陣に直撃させた。2日間の乱戦を経て、耿弇はついに張歩を破る。張歩は据県に撤退したが、耿弇はそれを追撃したので、張歩は平寿(現在の灘坊の南西)まで逃げたが、逃げるべき道なくしてついに耿弇に投降した。のち耿弇はまた兵を帯びて城陽に赴き、五校の農民軍の残党を接収、斉の地を完全に平定し、耿弇は京師に班師した。建武6年(30)、耿弇は西に出て隗囂を防ぎ、8年、劉秀に従って隴を討伐、その翌年、中郎将・来歙に従って安定・北地に向かう。13年、劉秀は耿弇の封地を加増し、大将軍の印璽を返上し列侯として奉朝するよう要請する。しかし国家に難事が起こるたび、召されて入朝し諮問を受け謀を練り、はなはだ重んじられた。永平元年(58)薨去、享年56歳。諡は「愍侯」。

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