春秋-晋-郤克

郤克、またの名を郤子、郤献子、郤伯といい、春秋中期の晋の大夫、中軍元帥である。晋の景公の時、郤克は使いして斉国に赴き、駱駝の背に乗って斉の頃公の母蕭同叔子の謗り笑いを受ける。彼は斉に仇を報じるを誓い、曰く「これに報いる所あらずば、よく河を渡る無し!」郤克は晋に帰り、晋侯に斉を討つべしと請求するも、晋侯応答を得ず。自らの宗族のみを領して生を攻め打つを請うと、晋侯没なりと答える。

范武士(士会)は老いて引退するをもくろみ、彼の児子を呼び止め、曰く「和せよ! 我説くを訊くに喜怒をよく合して礼する人はこれはなはだ少なく、これに相反する人は甚だ多し。『詩』に曰く君子果たして怒りを発せば、願わくは禍乱をもって阻止すべく、君子果たして喜悦すれば、願わくば禍乱もって止む。君子の喜怒これ用いて禍乱を阻止すべし。もし止まずばこれ必ず悪しきを助長す。郤子あるものはこれ要りて斉国の禍乱を阻止し、もしこのようにならずば、我彼と会して禍乱増すを怕れる! 我老いを告げるをもくろむも、郤子の願う心を満足させ得る。願わくば禍乱解除をもってす可し。汝幾位の大夫につき随い、謹慎として従事せよ」これにより老いを告げるを請い、郤克執政となる。

斉頃公、晋の覇業中衰に乗じ、斉楚両国と有利な関係を作り上げ、兵を将いて晋の盟国魯と衛を攻め、魯と衛は晋に救援の師を求める。晋恵公は七百両の兵車をもって派遣するを決した。郤克曰く「これ城濮の戦の戦車数。当時先君の明察と大夫の敏捷、勝ちを取るの所以。克の大夫の比、簡直連ねて彼らに供しみな使役し配さず。請うは八百両の戦車を発せよ」晋侯了解す。郤克は中軍元帥の身分をもって八百乗の兵車および狄人の歩卒を率い、魯、衛と聯合して攻勢を発展、斉軍これを聞いて東に徹すが、軍を連ねて追尾する。靡笄山の下鞍地に在って対陣す。時に晋景公十一年。

斉人敵を軽んじ、斉将高固晋軍に沖撃し、石頭を起こし拿した人を投げ、晋軍を捕える。彼は戦車上に坐して、桑の樹の後ろに在って一挙抜き下し、斉営に還って栄耀威風、曰く「勇者をあきなうを欲す、勇余るほど饒かなり!」斉侯すなわち曰く「余姑を翦滅すにこれしかして朝食あるのみ!」馬に甲冑せず馳せて晋軍に向かう。

両軍鏖戦し異常激烈、郤克は箭傷を受け、血を流しながら草鞋を踏み、ただ鼓の声を絶やさず、曰く「我傷を受けるなり!」彼の御者解張曰く「開始して接戦するに従い、箭に手と肘を射られ穿たれ、左辺の車輪赤黒く染まるを成す。どこに敢えて傷を受けるを説く? 貴公忍びて点しつつあるや!」車右の鄭丘緩曰く「接戦開始して果たして危険に遇うに至り、我必定下去して車を推し、貴公難道を解くや? 貴公まさに傷を受けるも過ぎず!」解張曰く「軍隊の耳目は我らの旗幟と鼓声、前進後退みなこれを聞く。この車両子一個人鎮して坐し、闘争してもって成功すべし。因りて一点苦痛を為してしかして敗壊するは国家の大事ならんや? 身に甲冑を被り、手に武器を執り、本来是死を準備するも、苦痛還って死なず。貴公還ってこれ尽力するべしなり!」ここにおいて左手に馬僵を握り、右手に鼓槌擂鼓を取って、よし手を余らせ馬を拉ぎ、馬を奔跑させ停止すること能わず。全軍みな郤克に続き、斉軍大敗して逃れる。晋軍は斉軍を追撃し、華不注山三圏まで追った。

晋軍は勝ちに乗じて斉の都城まで逼り、斉侯媚人に古宝玉器と土地を質にして派遣し、同時に使いして斉国境内の田畝すべてを朝に東す。媚人回答して曰く「蕭同叔子の過失は別人、まさにこれ我が君の母親。実に対等の地位で説き、すなわち過ぎるなり。先王天下に対して境界を分かち定め、みなこれ地に因ってよいようにする。現在貴公にへりくだり、田畝全部朝に東す。地勢を顧みずこれ適宜に否し、ただこれ自己の兵車の方便、恐怕せず先王の政令に合す。先王のこの道議に合さず違反すれば、それよく盟主の為すところや?」魯、衛両国中に立って諌めを勧め、晋人応答して講和す。

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