春秋-晋-士会

士会(し・かい。字は季。生没年不明)
 食邑から范会、随会、また末子であったため随季などとも言われます。初めて名を顕すのは城濮の戦い(先軫の項参照です)で、晋軍が黄河を渡ったとき、車右の舟之僑が逃げ帰ったのでその後任として車右となりました。文公は7月丙申に凱旋して楚軍の俘虜と耳(当時は首級の代わりに耳を切り取るしきたりでした)を宗廟に献じ、広く恩賜を加え、諸侯を招集して離反者を咎め、そして舟之僑を捕えて殺し、敵前逃亡の罪を国中に布告し賞罰を明らかにしたので民は心服したといいます。まあこの城濮での士会がどれほど活躍したかは左氏伝に書いてないのでわかりませんが。

 前621年、晋の襄公没。嗣子の霊公が幼少だったので、晋人たちは国事多難を前に幼君では心もとないといって年長の国主を立てようとしました。趙衰の息子で上軍の将・趙盾は「それなら公子雍を立てよう。善良で年も長け、文公に愛されていたし秦とのつながりも深い。秦は以前からの友好国だから、よき人を立てれば国の交わりは強固になる。年長者を立てるのは順序の上で正しく、文公に愛された公子雍を立てることは孝になり、以前からの友好国とのつながりが強化されれば国は安定する。国事多難の今こそ公子雍を立てるべし。以上の利点から、内紛は緩和されるだろう。」と、言いました。賈季は公子楽を推しましたが、趙盾は聞かず、「公子楽の生母・辰嬴は文公の妃の中では9番目だから、その子である公子楽には威光がない。それに辰嬴は懐公と文公に寵愛され、淫蕩である。また太子楽が先君の子でありながら大国の支持が得られず小国の陳に出ているのは僻陋(いやしいこと)である。母が淫蕩なうえ子が僻陋では威厳がない」として、公子雍を秦に迎えに行かせました。このとき使者に選ばれたのが先蔑と士会です。賈季も公子楽を陳から迎えようとして使者を放ちましたが、趙盾はこれを郫で殺させました。

 秦では康公が公子雍を晋に送るに当たり、多数の護衛をつけましたが、晋の側では襄公夫人・穆嬴が日々物狂いに騒ぎ立てまた朋党をなしたので、その一党に殺されるのを恐れて公子雍に背き穆嬴の子・霊公を立てました。それなら最初から霊公を立てていれば浪も立たなかったのですが、とにかくもはや公子雍は邪魔になったということで彼を護衛してきた秦軍を攻撃します。そして秦軍を令狐で破り、刳首に達しましたが、士会と先蔑はここで嫌気がさし秦に亡命。ちなみに士会の秦におけめ亡命生活は三年に及びますが、一時も先蔑とは顔を合せませんでした。従者が「一緒に晋から亡命してきたのに、ここで会えないのはどういうことか」と憤激するのに対し、士会は「わたしは公子雍を迎えようとした罪を同じくするので先蔑と同行したが、彼と義によって同道したわけではない。顔を合わせてもしかたがないのだ」といって、晋に帰国した後も先蔑とは顔を合せなかったということです。

 前616年冬、令狐の戦いでの恨みから、秦伯は晋に攻め入りました。まあ興るのも無理はないですが。そして羈馬を占領したので晋軍もこれを迎撃。趙盾が中軍の将、荀林父がその佐、郤缼が上軍の将、臾駢がその佐、欒盾が下軍の将、胥甲がその佐という陣容で、河曲で秦軍を迎え撃ちました。臾駢が「秦軍は持久戦ができないから堡壘を高くして守備を固め、相手の出かたを待てば問題はなかろう」と言い、趙盾はそれを採用。しかしこのとき秦には士会がいた、というわけで。会戦を欲する秦伯は「どうすれば秦軍を破れるか」と士会に聞きました。士会は「この作戦は臾駢が立てたものでしょう。わが軍を疲弊させようというわけです。趙氏の傍流に趙穿というのがいて襄公のの娘婿ですが、こいつは士若年で作戦など頭になく猪突猛進するだけの男です。これが自分を差し置いて臾駢が上軍の佐になったことを恨んでいますから、敏捷なものにこれを攻撃させれば必ず挑発に乗ってきます」と答えます。秦伯は玉壁を黄河に捧げて戦勝を祈願すると、12月戊午の日、晋の上軍に襲撃を駆けました。思慮の浅い趙穿は果然として追いかけましたが及ばず。帰ってきて「敵が攻めてきたのに友軍は反撃もしない。いったいどういうことか」と言い、軍吏が「持久策を取っているのですよ」と言っても「俺には作戦など分からないから、一人でも出撃する」といって出撃、趙盾は卿を一人失って帰国したのでは帰国後宗廟になんと報告すればいいか、とついに全軍を出して会戦し、この戦ではついに勝負はつきませんでしたが。のち再び晋に侵入、瑕を攻めとりました。

 その後も晋軍は士会のために何度も秦に苦杯を嘗めさせられます。趙盾はこれを気にかけ、「随会(士会)は秦にあり、賈季は狄にあって、内紛が起こりかねない。どうするべきか」と言いうと、荀林父は「賈季を呼び戻しましょう」と言いましたが、郤缼は反対して「賈季は趙盾に逆らって公子楽を立てようとしたし、陽処父を殺した罪も大きい。むしろ随会を呼び戻すべきであろう。卑しめられても恥を知り、従順でも人に辱められず、その智謀は役に立つ。秦に逃れたとはいえ彼に罪はないのだし」と言いました。結局趙盾は郤缼の言を採択し、魏寿余にわざと魏の邑とともに離反する行動をとらせ、それによって士会を誘い出そうとしました。趙盾は魏寿余の妻子を都に逮捕して夜間脱走させ、秦に帰属させたいと請わせます。秦伯(康公)がこれを許すと魏寿余は朝廷で士会に遇い、その足を踏んで密かに内通の使命を伝えました。
 秦伯が魏を接収するために黄河の西に出陣すると、魏の人は東岸で待ち構えていたので秦伯はたばかられたことを知ります。魏寿余は「晋の出身者であちらの役人と語らえる者はおりませんか。そのご仁と私が一足先に対岸に渡りましょう」と見え透いたことを言い、秦伯も度量の大きい人物だったようで士会を生かせようとします。が、士会は「晋人は虎狼も同然。前言に背けば私は殺され、妻子は秦で殺されるでしょう。秦君の役にも立てず、いまさら後悔しても追い付きはしません」と断りました。秦伯が「たとえ晋が前言に背くとも、もし汝の妻子を送り返さないということがあれば河神よ、わしを罰したまえ」と誓いを立てたので、士会は川を渡ることを決心しました。このとき秦の繞朝が士会に馬鞭を贈り、「どうか秦に人なし、とお考え召さるな。私の策謀が用いられなかっただけですぞ」と言っています。士会らが渡河し終わると魏の人々はたばかられた形の秦を馬鹿にして引き上げましたが、秦伯は約束通り士会の妻子を晋に送り返しました。

 前607年、晋の霊公が暴虐なので趙盾と士会は相次いでこれを諌めましたが素行改まらず、かえってしばしば趙盾が諌めるのを嫌って暗殺しようとしました。ひれは失敗しましたが晋公は趙盾を攻め殺そうとしたので趙盾は一時出奔、趙穿が桃園で霊公を殺すと趙盾はすぐさま帰国しましたが、大史(史官)は「趙盾、霊公を弑す」と記録しました。趙盾が事実に違うと主張しても「あなたは晋の正卿であるのに、逃げて国境を超えるでなく、還って趙穿を討とうとしないのですから、責任はあなた以外にありません」と一蹴されます。孔子曰く、「趙盾は古のよき大夫であった。書法に従って弑逆の汚名を受けたが、国境を越えていたなら、悪名を免れたのに」とのことですが、士会にはあまり関係のない話ですね。

 のち宣公10年(前599)、楚が荘王という英主を得て勢い強大となり、これが鄭に進行しました。士会は援軍として鄭に赴き、潁水の北岸でこれを撃破、追撃します。ちなみにこのとき晋では趙盾が死に、郤缼が後任となっています。

 前597年6月、鄭が楚に攻められると晋軍はその救援に出ました。中軍の将・荀林父、先穀がその佐。士会は上軍の将で郤克がその佐。趙朔が下軍の将で欒書がその佐でしたが、黄河に達したところで鄭は早くも楚と講和したとの報せが入ります。荀林父は「救援に間に合わないのに民を疲れさせてもどうにもならない。楚の撤退に乗じて鄭を攻めても遅くはあるまい」と言い、士会もそれに賛成しましたが、先穀が独断専行して黄河を渡ってしまったのでやむなく全軍出陣、晋軍楚軍は延で会戦し、敗北しましたが、士会は上軍大夫の鞏朔と韓穿に命じて傲山(傲山の傲は人偏なし)の前に伏兵7軍をもうけさせました。おかげで全軍壊滅の中士会率いる上軍だけは敗れることなく、楚の潘党率いる戦車40両が上軍に挑戦したときも郤錡が「迎撃を」と言いましたが、士会は「楚軍は今絶好調にあり、うかつに敵の挑戦に乗れば必ず上軍は全滅する。兵をまとめて撤退した方がいい。敗北の非難はあろうが、戦わずに民を生かすのも悪くはない」といって自らしんがりとなり、退却戦を成功させたので晋軍は壊滅を免れました。

 前593年、士会は軍を率いて赤狄の甲氏ほか諸族を滅ぼし、同年冬、晋侯は士会を周王室に派遣しました。定王はこれを饗応し、大夫の原襄公が儀礼を補佐しました。骨付きの切肉が皿に盛って出されたので士会はそのわけを尋ねると、王はそれを聞いて士会を召し、「季氏(士会)よ、汝は知らんのか。王の享礼には半身の枝肉を、宴礼には骨付きの切肉を出す。公には享礼を設け、卿には宴礼を設ける。これが王室の礼法である」と言ったので、士会は帰国後、典礼について学び晋の法律を整備しました。

 その後は特別な活躍もなく、結構長生きして死んだようですが没年、享年はわかりません。諡は武。ゆえに范武子とも呼ばれます。

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