呉漢(ご・かん。?-四四)
呉漢は東漢中興の名将、‘雲台二十八将’の一人。字は子顔。
南陽宛 (今川の南の南陽 )の人。能く征し善く戦い、変に当たって恐れを知らず、善く将士を激励する能に長け、常に敗戦を勝利に転じることが出来た。朝廷にあって職に任ぜられ、性木訥にして慎重、常にはなはだ重んぜられた。
若い頃の呉漢は家庭の暮らし向き貧しくみすぼらしかったが、一応県里で亭長に任ぜられはした。王莽の末年、部下が賓客に無法を行ったので、漁陽に逃れ出奔。のち資金に窮乏して馬売りを生業とするようになり、彼は燕、商の間を往来してことあるごと、その土地の豪傑と交わりを結ぶべく留意した。
王郎が邯鄲で帝を称すも、北方の州郡それを知らず、従うところなし。呉漢は劉秀が仁慈の長者であると聞いて、漁陽の太守彭寵にこの機逃すべからずと進言、彼に帰順することを勧め、彭寵は深く感得してすみやかに劉秀に帰順した。劉秀は呉漢らの人を偏将军に任じ、王郎掃滅ののち、また号を賜って建策侯。
呉漢は天性質卜にして重厚、文才は乏しかったが、漢営に新たな人材が加わるまで、命令や布告は拙い言葉で自ら達した。鄧禹と諸将は彼を知ってのちしばしば劉秀に推挙し、劉秀はようやくにして呉漢を召した。しかし一旦召されるとすぐに呉漢は劉秀の賞識と信任をうけるようになり、常に門下に侍る。劉秀は幽州から兵馬を調発しようと思い立ち、連夜鄧禹を召してこの任務を誰に委ねるべきかを尋ねた。鄧禹は呉漢を推薦し、劉秀はそこで呉漢を大将軍に任じた。彼は持節を授かって北方に行き、十の郡を突撃騎兵で征し、兵馬を調発した。
時に、劉秀と更始帝はうわべこそ友好的だったが、内心では互いに離れていた。更始帝の任命した幽州牧・苗曾は呉漢の兵が発しせられて攻めてきたのを聞き、各郡に軍隊の招集を命じた。苗曾は呉漢が彼のことを侮っているだろうから、路上で迎撃できる考えていると考え、呉漢はそれを一見して知るや先制攻撃を仕掛け、果断に部下を指揮して苗曾を擒え、まさに彼の首を斬り、その軍権を奪った。これは幽州を震撼させて已まず、ここに幽州のすべての都市は風に従うように帰順する。呉漢はそれから十郡の兵を調発し、彼らを率いて南下、劉秀と清陽〈南陽の南〉で合流した。
劉秀は北伐し、呉漢は常に五千騎の突騎をもって先鋒をなし、しばしば先んじて城に登り、敵陣を攻め破った。河北平定ののち、呉漢と諸将は一斉に劉秀を擁立して帝位に就かしめ、光武帝劉秀は呉漢を大司馬、舞陽侯に封じた。
建武二年(二六)、呉漢は王梁、贾復らを率いて邮の東、漳水で大いに檀郷の農民軍を破り、十万余人を収降した。劉秀は使者を遣わして彼を広平侯に封じ、食邑四県を与えた。ついで、彼はまた衆将を率いて黎伯卿の所領に入り、坷内の修武(今の获嘉)で大いに敵を破る。劉秀から軍中を親しく見舞って労いをうけ、こののち、彼はまた進軍して南陽、把宛、涅陽、酈、穣、新野をらの城を攻めて悉く勝ちを収め、しかるのち兵を率いて黄邮水一帯で大いに秦豊を破る。さらにまた別に、かつて偏将军馮異とともに昌城に進軍して五楼の張文が領す農民軍を撃ち、また新安に進んで銅馬、五幡の農民軍を破る。
建武三年、呉漢は杜茂、陳俊を率いて広楽を包囲した。まず劉秀に投降したが、のちまた叛いて劉永の緑林軍の将領・蘇茂に投じる。このとき劉永の部将・周建が十万の人馬を率いて広楽を救い、呉漢は騎兵を領して迎撃するも失敗、不覚にも馬から落とされ、膝を傷つけ、撤兵して営に戻る。周建は広楽に入って蘇茂と連合、将領らは呉漢に対し「大敵を前に貴方様が怪我をしたことで、将士皆非常に恐れております。」といった。呉漢はこれを聞くとすっくと立って、怪我を包むと営塁を巡回して、牛を殺し酒を振る舞って将士を労い、意気軒昂に将士をあおって曰く「敵は確かに多い。だがすべて烏合である。‘互いに譲らないものは勝たず、互いに救わぬものは負ける’という戦いにあたっての節義、死の覚悟を持っていない。今こそまさに努力して戦い、的を殺して功を立てるべし。将を拝し侯に封ぜられる格好の機会ぞ、諸君の努力を請う!」諸将に呉漢の熱気は深く感染し、士気は倍増。蘇茂は翌日、周建を出陣させて呉漢を囲む。呉漢は烏桓の四部の精鋭と突撃騎兵三千余を選抜し、鼓を叩き擂を鳴らし、同時に突撃した。周建は大敗し、逃れて場内に入る。呉漢はほしいままに追撃し、部下とともに周建の敗卒を追い争って門に殺到、蘇茂、周建は城をうち捨てて逃亡した。呉漢は敗兵逆襲に備えて広楽に兵を駐守させ、自らは残りの兵を率い睢陽の蓋延を助けて劉永を包囲した。双方百日あまり対峙し、劉永は糧尽きて囲みを就いて突撃するが蓋延に斬られ、睢陽はここに帰順した。
建武十一年(三五)春、呉漢と征南大将軍岑彭らは蜀地に割拠する公孫述を征討する。岑彭は連戦連勝を重ねるが暗殺され、呉漢は朝廷の命でその軍を併せる。翌年春、呉漢は魚清津(今の四川楽山北)にて蜀将魏党、公孫永を大いに破り、進んで武陽(今の四川彭山東)を囲む。公孫述はその娘婿史興を派遣して軍の救援に向かわせたが、呉漢のために迎撃され殲滅された。漢の兵は勝ちに乗じて犍為に入り、属県すべて門を閉ざして守り、敢えて兵鉾に当たるものなし。ここで呉漢は軍を指揮し直ちに広都(今の成都南)を攻め、疾風迅雷の猛攻で攻略し、そのうえ軽装騎兵を派遣して成都の市橋を焼き壊した。軍隊の威勢勇猛なるを前に、武陽以東の小城は次々と投降した。ここに到り呉漢と公孫述は広都、成都の間で接戦を行い、呉漢は八戦八勝して成都の外城を占領した。
公孫述は延岑らに計略を請い、岑延は広く財宝を散在して死中に活を求めることを進言した。国庫の全財宝・珍奇をなげうち五千名の決死隊を公募した公孫述は、その指揮を岑延に委ねた。岑延は成都の橋前に旗幟を立てると鼓を鳴らして挑戦し、ひそかに奇兵を放って漢軍の後ろを襲わせた。倉皇として呉漢は水の中に陥ちたが、幸いにして馬の尾を掴んでようやっと水上に這い上がった。呉漢の挫折は深刻であり、しかも軍中に食糧がなく、暫時成都の囲みを解こうかとすら考える。蜀郡太守・張堪は公孫述の必敗を計り、彼に撤退は不要と解いたので、呉漢はこれに従う。
この年十一月、呉漢は精鋭の士を派遣して公孫述を猛攻、公孫述の部局は大乱となり、彼自身混戦の中で胸を刺されて馬から落ちた。下手人を捕らえて鞭打って彼は城に帰ったが、もはや支える気力なく兵権を岑延に委ね、その晩世を去った。翌日岑延は漢の大軍亭据して押し寄せるのを見て、城を挙げて投降、蜀地ついに平らぐ。
建武十五年(九)、呉漢は北に匈奴を撃つ。十八年、蜀の守将・史散が造反し、呉漢は兵万余を率いて蜀地に入り、広漢、巴、蜀三郡の兵を調発し成都を攻囲すること百日、城を破り、呉漢は史散らを誅殺し、軍を率いて京師に帰る。建武二十(四四)年病により逝去。謚は‘忠侯’。
コメント