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中国史

西漢-霍去病

霍去病は大将軍・衛青の姉・衛少児の子である。その父・霍仲孺は先だってより霍少児と私通しており、それで生まれたのが霍去病だった。衛皇后が尊貴に上るにおよび、衛少児も詹事・陳掌の妻となる。霍去病は衛皇后の姉の子として、十八歳で侍中とされた。騎射...
中国史

西漢-衛青

【人生】 衛青は西漢の名将である。字は仲卿、河東平陽のひと。もとは平陽公主に仕える家奴だったがのち漢の武帝の寵遇を受け、大将軍、長平侯に。武帝の元朔二年(前127)、衛青は軍を率いて大いに匈奴を破り、河套地区を漢の版図に入れた。元狩四年には...
中国史

西漢-李広

李広 李広は隴西成紀の人である。祖先の李信は秦の時代の将軍で、燕の太子・丹を擒えたものである。李の家は代々射術に習熟した将門であり、孝文帝の十四年、匈奴が大挙?関を侵すと、李広は良家の子弟たちによる軍を率いて匈奴に抗撃、よく射て虜を殺すこと...
中国史

西漢-周亜夫

周亜夫(?-前143)周亜夫は周勃の息子である。周勃死後、息子周勝之が後を継いだが、公主との結婚生活が不仲で殺人を犯し、死刑に処され国を除かれた。その翌年に文帝の選抜で引き立てられたのが周勃のもう一人の息子、賢者・河内守・周亜夫であった。周...
中国史

西漢-韓信

韓信(?-前196)略歴 韓信は西漢初期における大将であり、淮陰の人である。陳勝呉広の起義ののち、まず項梁、項羽についたが重用されず、のち劉邦に付き従い、丞相・蕭何の力強い推挙により大将を拝すに至った。劉邦を助け「三秦を定めもって天下を奪う...
エジプト史

エジプト-ラムセス2世

ラムセス2世ラムセス2世、またはラムセス大王は、紀元前1314年から紀元前1224年に生存した伝説的なエジプトのファラオである。その治世は紀元前1290年から、紀元前1224年に彼が死ぬまで、66年間続いた。彼は24歳のときにファラオになり...
アッカド

アッカドのサルゴン大王

アッカドのサルゴン大王(BC2334-2279在位)サルゴン大王またはサルゴン1世と呼ばれることもあるアッカドのサルゴンは、歴史上3番目の皇帝であり、多民族帝国の最初の征服者であった。しかし、彼はあまりにも昔に生きた人物なので、その人生と征...
中国史

漢楚-項羽

項羽(こう・う。前二三二-二〇二) 項羽は本名を項籍といい、羽は字ではあるが、世には一般に項羽として膾炙する。彼は自立して西楚の覇王を称し、後世の人々は皆彼を楚の覇王と呼ぶ。項羽は下相の人であり、西暦前二三二年、楚の幽王六年に生まれた。代々...
中国史

戦国-王翦

王翦(おう・せん。生没年不明) 王翦は秦の頻陽の人で、戦国末の秦を代表する名将である。深く秦王政に重んじられ、秦始皇の六国併合、天下統一に重大な貢献をした。 戦国末、長らくの封建的割拠とそれに付随する戦争の経過で、中国を一つに統一して戦争を...
中国史

戦国⁻楽毅

楽毅(がっ・き。生没年不詳) 楽毅には楽羊という祖先がいた。楽羊は魏の文侯の将として中山を攻め、文侯から中山の霊寿(常山の近く)に封ぜられた。学羊が死ぬと霊寿に葬られたが、その後子孫は家を終わった。中山が復国して楽家は再興されたが、趙の武霊...