中国史

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ドルゴン

多爾袞(ドルゴン。一六一二-一六五〇) ドルゴンは明の万暦四〇年(一六一二)一二月二五日に生まれ、清の順治七年(一六五〇)一二月九日に没した。清の太祖ヌルハチの第十四子であり、母は大妃ウラナラ氏、同母兄にアジケがおり、同母弟にドドがいる。 ...
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東漢-馮異

馮異(ふう・い。?-34) 馮異は字を公孫といい、潁川父城の人である。東漢中興の名将であり、“雲台二十八将”の一人でもある。 馮異は平素より読書を好み、‘左氏春秋’‘孫子の兵法’に通暁した。 馮異は若い頃王莽に仕え、地皇三年こと西暦二二年、...
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東漢-鄧禹

鄧禹(とう・う、2-58) 鄧禹、字は仲華、南陽新野の人である。彼は十三歳にして良く詩を賦すことができた。長安に赴いて学問を求め、そこでのちの光武帝、すなわち劉秀と出会う。劉秀は8歳年下のこの少年を侮ることなく対等に接し、刎頸の交わりを結ん...
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西漢-鄭吉

鄭吉(てい・きつ。?-前四十九) 鄭吉は会稽の人であり、行伍(兵卒)出身である。しばしば西域に出て、この由を以て郎となる。人となりは強堅にして執着強く、外国の事情に習熟する。張騫が西域を開拓し、李広利がそれを征伐してのち、西域にははじめて校...
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西漢-霍去病

霍去病は大将軍・衛青の姉・衛少児の子である。その父・霍仲孺は先だってより霍少児と私通しており、それで生まれたのが霍去病だった。衛皇后が尊貴に上るにおよび、衛少児も詹事・陳掌の妻となる。霍去病は衛皇后の姉の子として、十八歳で侍中とされた。騎射...
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西漢-李広

李広 李広は隴西成紀の人である。祖先の李信は秦の時代の将軍で、燕の太子・丹を擒えたものである。李の家は代々射術に習熟した将門であり、孝文帝の十四年、匈奴が大挙?関を侵すと、李広は良家の子弟たちによる軍を率いて匈奴に抗撃、よく射て虜を殺すこと...
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西漢-周亜夫

周亜夫(?-前143)周亜夫は周勃の息子である。周勃死後、息子周勝之が後を継いだが、公主との結婚生活が不仲で殺人を犯し、死刑に処され国を除かれた。その翌年に文帝の選抜で引き立てられたのが周勃のもう一人の息子、賢者・河内守・周亜夫であった。周...
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西漢-韓信

韓信(?-前196)略歴 韓信は西漢初期における大将であり、淮陰の人である。陳勝呉広の起義ののち、まず項梁、項羽についたが重用されず、のち劉邦に付き従い、丞相・蕭何の力強い推挙により大将を拝すに至った。劉邦を助け「三秦を定めもって天下を奪う...
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戦国-王翦

王翦(おう・せん。生没年不明) 王翦は秦の頻陽の人で、戦国末の秦を代表する名将である。深く秦王政に重んじられ、秦始皇の六国併合、天下統一に重大な貢献をした。 戦国末、長らくの封建的割拠とそれに付随する戦争の経過で、中国を一つに統一して戦争を...
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戦国⁻楽毅

楽毅(がっ・き。生没年不詳) 楽毅には楽羊という祖先がいた。楽羊は魏の文侯の将として中山を攻め、文侯から中山の霊寿(常山の近く)に封ぜられた。学羊が死ぬと霊寿に葬られたが、その後子孫は家を終わった。中山が復国して楽家は再興されたが、趙の武霊...