ベリサリウス(505?– 568)
ベリサリウスは皇帝ユスティニアヌスに奉職した、東ローマ帝国最高の将軍である。彼をして大多数の場合において勝ちを制しせしめたのは、早急かつ大胆、臨機応変にして独創に富む戦術手腕と、常に敵の不利を最大限利用する極度な巧緻によるものであったーJ・F・C・フラー「西洋史における軍事史」より
ベリサリウスの正確な生年月日は、彼の受けた教育同様詳らかでない。彼の19世紀の古典的伝記作家であったヘンリー・スタンホープ・マハン卿によれば、将軍ユスティニアヌスが帝位を受ける前、527年の当時にその私的な警護メンバーとして歴史に初登場するとき、プロコピウスの筆に「あごひげを生やした最近風の若者」とあることから、この当時二十歳前後であったのではないかと論じられている。
ベリサリウスの同時代人であり秘書でありユスティニアヌスの戦争史家であったプロコピウスは、ベリサリウスがゲルマニアのイリリア出身、ユスティニアヌスの同郷人であったと書く。
たいていの情報提供者はベリサリウスについて、その出生の謙虚あるいは卑しさを主張する。が、A・T・マハンは彼が「功績の多寡にかかわらず十分な富と栄光を得ることがきわめて難しかった時代に彼は地所を所有していた」ことから、彼がある程度富裕な出身であったと論ずる。さらに言うならベリサリウスが妻アントニーナとともに、皇帝ユスティニアヌス、皇后テオドーラと同じように、プロコピウスの“秘史”において中傷を受けたこともまた、その論証であるとするが確証はない。
ユスティニアヌスは483年生まれだが、ベリサリウスがその護衛者として彼に合流する以前から両者が互いを知っていたというのはありえそうもないと否定されている。それについてプロコピウスは我々にヒントではなく、彼のキャリアを語る物語における最も確かな事実、護衛官からユスティニアヌスの「目にとまって抜擢された」という事実を示唆する。エドワード・ギボンの“ローマ帝国衰亡史”によれば、「彼はユスティニアヌスの護衛官の中で、その勇敢をもって最も高名であった。そして彼の後援者(ユスティニアヌス)が皇帝になったとき、この護衛官は軍司令官に抜擢された」とある。
彼の司令官としての最初の任務はシッタスと同じく、皇后テオドーラの義理の兄弟として勤めることであった。二人の任務が皇后の友人たちの護衛であったと想定して、これが皇帝の注目を身に受けないはずがなかった。ベリサリウスとシッタスはペルシャメニア、長らくローマとペルシア人の係争地対であった地域に526年、送られた。そこで彼らは大規模な戦闘と強奪、多数の奴隷と囚人の獲得に成功した。
2度目の襲撃では彼らはさほど幸運ではなかった。小競り合いの結果ペルシャの司令官ナルセスとアラティウスに敗れたように思われるが、この両者はまもなくユスティニアヌスのもとに亡命した。プロコピウスはこの戦いに従軍し、「シッタスとベリサリウスが参加したこの戦いにおいて、ペルシア人は有利を得た」という敵側の発言を軽視した。
この戦の戦後処理のすぐ後に、ユスティニアヌスは彼の叔父、ユスティヌスからコンスタンティノープルで帝位を受け継いだ(527年4月1日)。皇帝として、ユスティニアヌスはササン朝ペルシャ帝国との長らく続く戦争を継承した。
アケメネス朝のアレクサンダー(大王)に敗北した結果、ペルシア人はディアドコイの支配下でいくばくかのヘレニズム文明を吸収していた。偉大なるマケドニアの後継者たちが躍進するローマの前に衰弱し出すと、ペルシア人は北方騎馬民族パルティア人に接触、アルザック帝国のもとに自らの規範を見いだした。パルティア人は地域の回復と拡大を繰り返し、拡大するローマと対峙した。主にユーフラテス川沿岸を国境としてパルティア人はローマと領土を奪い合ったが、紀元3世紀早晩、彼らが凋落するとペルシア人は自ら立ち上がり、これを打ち負かして成り代わった。これがササンの家系、ササン朝ペルシアの成り立ちである。
彼らは古くアケメネス朝の時代にさかのぼってその栄冠とローマに奪われた都地の奪回の野心に燃えた。東ローマの軍隊はペルシア人を寄せ付けなかったが、それは彼らの意思を折ることは出来なかった。皇帝ヴァレンスは先帝「背教者」ユリアヌスの後を継いで366年即位、ペルシア王シャープールと戦って勝利できず、アルメニアのローマーペルシア分割支配を認め交易権を許すという、ローマにとって必要ではあったが屈辱的な条約に調印した。この時点より、東ローマ帝国は前進してペルシアを征服しようととする野心を棄てた。
363時点年から数えてユスティニアヌスの統治が始まるまで、両者の関係は一応均衡していた。387年、ローマとペルシアは先述のヴァレンスとシャープールの間にアルメニアを分割統治し、422年、のちに100年の平和と言われるようになる条約を結んだ。この期間、ペルシア領内ではゾロアスター教のマギ(魔術師、精神的指導者)が支配権に重大な影響を与え、また極北から侵入する白人系のフン族-エフタル-による威圧的恫喝を受けて、宗教的、内部的な困難に直面した。エフタルは黒海とカスピ海の両路からコーカサスを経由して侵入、ペルシアを脅した。このエリアは元来ローマとペルシア共同の守備地域であったが、しかしローマは漸進的に撤退、エフタルからの金銭的要求を飲み、ローマ-ペルシア間の条約は終わりを迎えた。ユスティニアヌスの対ペルシア制作はこの金銭的減衰を埋めるためだったという。
ペルシア人が483年返還された辺疆の都市ニシビス市(363年の条約より返還を要求されていた)の失敗に対して、ローマ人の指導者層はコーカサスの分割防衛を拒絶した。ローマ皇帝アナスタシウス1世(在位491-518)はメソポタミアとアルメニアの各地に防衛陣を築き、特にニシビスからほど近いユーフラテス沿岸ダラの町に要塞を築いた。
502年と504年、両国は大戦を持って接触した。ペルシャの国王カヴァードはローマから一時的とはいえ初めての勝利を手に入れた。504年、幾ばくかの打撃を蒙り、両国は有名なフン族の侵略の前に505年、和平を結んだ。7年間平和が続いたが、それは撤廃されることはなかったが更新されることもなかった。フンーペルシア戦争の間、ビザンチン帝国はラジカとイベリアのコーカサス王国と結び、さらにペルシア人をいらだたせた。
戦争の時
2つの大きな要因が、6世紀早期までに、根本から東ローマの軍隊を変容させた。まず、ローマ市民の性質がそれまで以前よりきわめて大きく変質した。それまで成人男性は市民権の一つとして兵役義務を課されたー質問は許されず、一年間の間あらゆる脅威に直面せねばならなかった。彼らを打ち負かす最大の脅威は通常、季節という魔物であった。共和制の終焉までに、軍は都市貧民たちによる長期の奉職、おもに専門職として継承されるものとなったが、しかしながら、帝国内における数世紀はふたたびその性質を変容させていた。ほとんどのローマ成人男性はもはや徴兵義務に応えず、今や軍事に携わって年を越すのは外国人の傭兵に多くを負うた。多くの市民は通商、貿易などの行為により徴兵から免ぜられた。兵役は多くの市民にとってきわめて人気のない職業だったので、商才に恵まれぬ市民には自ら四肢を切断し兵役を避けるものも珍しくなかった。そのため、軍は田舎から、あるいは敵前からすら募兵され、ますますその兵に依存するようになった。
減少した人的資源に対して要求される前線は広範囲にわたり、攻撃より以上の防御力が求められた。それで帝国は石灰岩の防壁、防御非常線、紐状に繋がる要塞と都市の要塞化に依存し、これらが自然の要害に守られていなかった市民および通商路を守った。ユスティニアヌスは驚くべき数とサイズの石灰岩を作らせたことで知られる。この戦線を維持するのは強度を度外視して機動力重視でデザインされた戦闘部隊であった。
もう一つの要因は、彼ら自身の性質にあった。東西二つのローマ帝国はアジアあるいはヨーロッパからの“野蛮な”機動的戦闘力に圧力をかけられた。侵入してくる軍隊はますます歩兵よりも騎兵よりになり、伝統的ローマのレギオン戦術はこの騎兵隊をよく支えることができたけれども、それらの兵士は何年もの奉職により訓育されてきたものであり、もともとのやる気にかける小規模軍隊(特にローマに対する強い絆なく、辺疆で育てられた人々)は、騎兵の迅速なチャージ(突撃)戦術に対応するだけの鍛錬を受ける率が低かった。そのため、両帝国は歴戦の軍人、すなわち迅速な反応と高速移動を使いうる軍人によって敵軍に打撃を加え、脅かして、権力を握る必要があった。国境に流入する人的資源を軍に加えることは、騎兵指向の訓育方法と経験を持つ異民族の合併を意味し、同時に伝統的な歩兵隊依存体質の減衰をも意味した。これにより東ローマ帝国は襲撃者以上の速度で移動可能な騎兵隊と軽歩兵隊で軍隊を再編する。この新編成軍の速力はカエサルの率いた軍-マニプルス-よりさらに大きな柔軟性を持ち、ローマの伝統重歩兵主体の戦力を書き換えた。
重装騎兵部隊(カタファラクチ)はチェイン・メイルと脛当て、あるいはもっと長いレガースを身につけ、主としてランス(騎兵槍)と弓で武装していた。これは彼らが敵を攻撃している間、敵の反撃の矢に耐えうることを可能とした。場合によっては馬もまた同様に装甲していた。兵士に双方の武器を用意するには訓練期間とコストの両面からの困難があったので、ビザンツ帝国の騎士は彼の最も大きい威力を持つ突撃の衝撃行動を好んで行った。故に弓よりランスが主体として使われ、弓は“もし必要なら”という汎用補助兵器の域を出なかった。騎兵隊の大多数は帝国周辺の異民族から召募された。アッティラの死後、フン族の騎兵がローマに奉職するようになってまもなくフン帝国が瓦解したように、アラン人のイランの大草原、ゲルマンのゴス・サウザスタンなどが斉しく馬と騎手のための飼育場となった。それはまるで過日の(マケドニアの)フィリップとアレクサンダーのそれのように。
“野蛮な”兵の大部分は不忠実への怖れから400年、軍から除籍されていたが、ユスティニアヌスは地中海帝国を再確立するために軍事力を拡大したく、その願望の限りにおいてどのような不安も抱えていなかった。これら外人部隊のいわゆる「foederati(連合に加わ)」った者たちは、ユスティニアヌスに忠誠を誓ったビザンツの指揮官によって統率、指揮された。このような準個人的な軍はコミタトゥスと呼ばれた。部隊の指揮官はユスティニアヌスに忠実であり、そして部隊員は皇帝よりむしろ指揮官に忠実であることを要求された。これはしばしばビザンツの歴史における問題として提示される。
馬弓手は彼らの有名なコンポジット・ボウ(複合弓)を用い、フン族の戦士のように長い射程を誇り、さらには接近戦においても高度な戦闘力を保有した。同じくエリート護衛官として育てられるユニット(ブセラーリ)はビザンツか連合のどちらかに属し、連合がビザンツの一部に加わっているからには皇帝にとって同じ条件下で入手可能だった。
一例として、ベリサリウスの私的護衛官は7000人いたといわれる。軽歩兵隊は防御のために小型のシールドを、そして近接戦闘のために剣あるいは斧を使用した。が、彼らの最主要兵器は弓であった。指揮官階級には弓は既に充分供給されており、そして敵の矢と投げ槍に対する防護として大盾を供給された。すべての兵士たちは弓の使用を指示され、遠距離戦闘が戦争開始の主要な手段となった。重騎兵は敵の弱点エリアを突破するため連携して使用された。
若干の敵がきわめて精妙な馬弓手であったが、基本的にビザンツ兵の弓はさらに強く正確で、安定性を誇った。ローマ-ビザンツ帝国のリミターニ(国境市民軍)は重装歩兵の数でこそ劣ったが、より重厚な甲冑、剣あるいは斧の重歩兵装備において勝った。彼らは敵の襲撃を防ぎ、そして弓手を守る伝統的防壁の役割を果たした。これらは以前のローマよりもパーセンテージ上ではずっと少ないけれども、多くの著作家が6世紀の戦闘における彼らの重要性に着目している。ユスティニアヌスの治世の間、これは古代ギリシアのそれよりなおいっそう柔軟なユニットであったと。しかし基本的戦術ユニットは旧来のレギオンを踏襲し、一般的な一構成単位は512人と記述される。12人の士官により指揮されたこのレギオンは6144人で、それまでの伝統的ローマのそれよりわずかに大きい人数で形成された。
現代史家の多くはよく訓練された、そして統制された歩兵隊がその比率にかかわらずローマの戦勝の鍵であったとする。実際、彼らは保護として防御として、軽歩兵隊や騎兵隊の攻撃力同様に重要であった。軍隊の一般的布陣は、もし敵の騎兵突撃が差し迫って見えたなら、歩兵を中心に側翼を騎兵で固め、そして軽騎兵(スリンガー)が先頭に立つ。しかる後、長らくユーラシアの騎兵に対抗してきた経験から、ビザンツ騎兵は彼ら独自の布陣を完成させた。ユニットの3分の2が前方に布陣し、中央を八段階、左右の翼を4段階の深さに分ける。400メートル後方に第2防衛ラインを敷き、騎馬を前線に沿って装甲させ、それぞれのファクターがしっかりと攻撃を補助しあった。このように、防御陣によって保護された弓兵戦術はその後約1000年、地中海世界の基本戦術として君臨した。
ササン朝ペルシアの軍隊は480年代において既に”白きフン”エフタル族の手にかかって敗北したことにより、若干の改革を経験していた。6世紀への移り目によってクローズアップされるそれは、ローマービザンツ式のそれと異なりそれほど革新的ではなかった。最有力の軍隊は“自由民”およびあまり正規的ではない上流階級の兵からなる騎兵部隊であった。ビザンツ帝国式のカタファラクチより軽装であったが、軍中における比率はほぼ同等であり、馬弓手の多くはフン族とアルメニア人で構成された。傭兵と平民とが若干の補助的騎兵隊を供した。サタラ攻撃のために傭兵として3000人のサビール・フン族が募集されたという。他方ベリサリウスがダラの戦いで戦ったカディシャヤ(あるいはカディシニ)は、ペルシア軍右翼の正規で主要なユニットであった。
この軽装騎兵隊は弓兵の補助を得たとき重騎兵同等に機能し、ローマのシヴァナリ(ローマ胸甲騎兵)とササン朝のサヴァラン(ペルシア重装騎兵)はほぼ斉しく、完全武装のカタファラクチ(重装騎兵)は堅牢さにおいてペルシアの重装騎兵を凌駕した。しかしササン朝はこの時期までに騎馬を獣皮で覆う比率を下げていたように思われ、実際的により頑丈なスケールアーマーを使用するに至っていた。彼らはローマ兵と同じく多数のハンド・ウエポンを装備したが、特殊な状況を除いては主に騎兵突撃を敢行した。ユスティニアヌスとそしてベリサリウスの同時代、カヴァードとその子ホスローの治世において、サヴァランはまったく弓という兵器を放棄しており、このササン朝軍隊におけるエリートたちは古代の英雄のように”不滅の人(イモータル)”と呼ばれた。そしてその練度はローマの兵と同等かそれ以上であると見做されていた。
ペルシアの歩兵隊は最も弱卒として知られた。ローマ人によって彼らは軽蔑の対象であった。ベリサリウスはダラの戦いの前にスピーチを行った。プロコピウスの引用に寄れば「彼(か)の歩兵は戦争の目的も知らぬ哀れな小作農以下の存在である。彼らはその敵対者(われら)を煩わせるかも知れないが、これはさしたる脅威ではない。防ぐためにはただ盾があれば事足りる」と。
現代の史家はダラの戦いについて、その態度に共鳴する。そのときペイギャン(ペルシア歩兵隊) はサヴァランの潰走後、あっさりその保護を放棄して戦場を断念したのだから。彼らは主に後衛を担当したが、小作農兵よりなお意欲・モチベーションに欠け、無用の長物に近いと見做された。
ペルシアの歴史についてはまさしく同時代人であるプロコピウスが、ローマービザンチンとムスリムの戦術についてほぼ正確なところを記録しているのでそれが主な情報源たり得る。彼らはフン族に敗北したことで交戦様式の転換をとった、と。また、プロコピウス以外の状況提供者は典型的なササン朝の戦闘様式について、代え馬を後方に留め、丘の上に双翼を描いて布陣した、と描写する。
幾人かの情報提供者が、ベリサリウス独自の陣形、歩兵弓手の左翼に騎兵隊の護衛をつけるという戦闘法について記述する。いくつかのケースでは象兵についての言及もあり、ベリサリウスが戦ったあらゆる敵の中で最も頑健であったという。のちに情報提供者はベリサリウスは中央の歩兵に騎兵のエリート部隊が翼として構成され陣形を取ったか、あるいは高度に優れた軍隊は固定観念に囚われず、中翼の歩兵・弓兵に騎兵が追従したという。どちらにしても戦闘の主役が重装騎兵であったことは疑いなかった。ローマの騎兵突撃は主として単純であったが、ベリサリウスはしばしば側面攻撃や虚偽によるフェイクを多用した。
The Opponents-対抗者-
ビザンツ帝国との和平に向かい、523年あるいは524年、ペルシア国王カヴァードは彼の死後嫉妬深い兄から我が子を守るため、ユスティニアヌスのもとに第4子でもっともお気に入りの息子、ホスローを供出した。ローマ人はこの申し出について熟考したが、帝国はこれが獅子身中の虫となる可能性を考え、申し出を拒絶した。カヴァードはこの拒絶に対し個人的な恨みを持った。
もし524年の作戦で敵を退けた指揮官がベリサリウスとシッタスであったなら、彼らは反撃によってペルシアのアルメニア地方をじらしイベリア方面を征服する行動に出ることが出来たであろうが、おそらく見たところ彼らは526年ナルセスとアラティウスによって敗北したためユスティニアヌスの寵から外されていたらしい。そのため彼の力はユスティニアヌスという偉大な君主の影に霞んだ。
マハン卿は口角泡を飛ばして語る。「我々はベリサリウスの個人的な振る舞いが、最後まで彼が責任を蒙るべきことではなかったことを知っている。我々はすぐにその後、ダラの戦いに彼を見いだす。彼にはダラの知事のポストを要求する権利とてあったと、私は結論づける」
この戦いでベリサリウスがどう戦いどう振る舞ったのか、その個人的功績は記録に残っていない。しかしもう一人の男(シッタス)は528年、ローマにとってより悪い結果を運んでくることになった。南方国境、サヌリスに築かれるはずのビザンツの要塞ほ支え、支えきれずに敗北した。プロコピウスのショックは大きかったと見え、「ローマ(人)が負けた。凄絶な戦闘の結果、大虐殺があった」と記述している。
同時代人、ミトレーンのザッカリアの記述はプロコピウスのそれほど簡潔ではないが、いっそう非好意的である。ペルシア人がローマからの攻撃を知ったとき、「彼らは策を考案して深い塹壕を掘り、そしてそれをすっかり覆い隠した。三角形の木の杭が様々な隙間から飛び出すのを、彼らは知覚できなかった。ペルシア人は詐謀を以てローマ人を引っかけ、ローマの将官たちは全速力でペルシアの塹壕に飛び込んだ…ローマ軍の騎馬警邏隊は転身後退してダラに帰還し、ベリサリウスに合流した。しかし歩兵たちの内逃げることをしなかったものは殺され、あるいは捕虜とされた」
この挫折にもかかわらず、529年から530年にかけてベリサリウスは東方(オリエントゥム、マギスタ、ミリトゥム)の戦士たちの中で帝国の5つの野戦軍を率いる指揮官に選出された。彼は同じくこの時点で、ベリサリウスの同時代の記録官、秘書官にして参謀であるプロコピウスを受け入れた。両軍接触の発火点はニシビスの、ペルシアの寨から遠くないチグリス川上、ダラのビザンツ式の都市にあった。ベリサリウスは彼がニシビスで引き受けた任務、ペルシアの寨に接近してビザンツの都市を回復すること、を達成するためにダラへと進み、勝ち進んだ。これら国境軍事的逆転に引き続き、もし彼が本国に要求していた兵備維持のための軍資金が枯渇していなかったとしたらという前提のもと、ユスティニアヌスはカヴァードと和平交渉に入った。「しかし敬虔なクリスチャンとして肉体と生活を惜しみ、汝の財貨を求めるものである。もし汝に金を支払う用意がないのであれば、戦争の準備をするがよい、汝自身のために。汝にとってこの警告は向こう一年の間有効である。我らは準備を整えぬ敵から勝利を盗むことはない、あるいは詐欺や欺瞞によって戦争に勝ったと思われる不名誉も望むところでない」同時代の年代記編者、ジョン・マララスはユスティニアヌスの警句をそう記述している。カヴァードはしかし1年も待たなかった。ユスティニアヌスの公使がペルシアの首府からの帰路にあったとき、彼はダラに滞在していたが、このときペルシア軍は既に進軍を開始していた。
チャプター.2
ダラの戦い-The Battle of Dara-
ベリサリウスはダラにおいて25000の兵を率いた。そしておそらくその三分の一は騎兵であった。兵の闘争への潜在的恐怖感は彼が地方を巡って錬磨することでもそぎ落とすことはできなかったが、しかし軍規と精神は鍛えられた。そして彼らの精神は以前の蹉跌を打ち破った。騎兵隊の状態は洗練されており、少なくとも1200のフン族と300のヘルール(スカンジナビア系の種族)に匹敵し得た。この戦闘力の優越をもって、ベリサリウスは戦争を準備するペルシアに対した。彼には十分な時間的余裕があった。
おそらく、彼は2年前に彼自身がペルシアから蒙った大惨事、タンヌリス近郊での出来事を忘れておらず、よって、彼はかつて敵手が取ったのと同じ手段で、深い溝を市壁に平行する形で深く掘った。プロコピウスによればそれは市壁から近距離であったという。溝は直線的でも絶え間ないものでもなかったが、兵が向こう側に進むか、あるいは向こう側から撤退するためのポイントには必ず横断線が設けられていた。「中央部分には幾分短い直線があり、そしてこの両端の終端に正直角をなす2本の溝が交差して掘られた。彼らはまずこの二つの直線溝の最端に着手し、独自の方向性から非常に長い距離溝を掘り続けた」
左翼ボーズの丘の下にはファラス率いるヘルール300騎を含んだその数不明の重装騎兵隊があり、彼らは溝に直角に立っていた。600のフン族軽装騎兵はサニカスとアイガンの指揮下にあった。その他の兵は塹壕を掘りながら、互いに鏡面状のフォーメーションを取ったがそのため丘の翼面という地の利を失った。もう一つ、情報源は定かではないが、ニシタスの息子ヨハンの総指揮のもと重装騎兵がローマ軍に派遣されてきたという。
歩兵隊はベリサリウスと彼の上官たる後方支援官ヘルモゲネスのもと、それぞれブセラーリ(エリート部隊)の主導下ほぼ数千人に達し、溝の後ろから騎兵隊を支援した。プロコピウスはこれについて、いくつかの軽装歩兵の前線における小競り合いに過ぎないとして言及しておらず、深い溝のセクションは、主にそれに対して直角を為したとだけ記述される。この塹壕セクションが部隊前方、あるいは後方に置かれたのか、プロコピウスはそれを明確にしていない。オマーンは“中世の戦闘芸術(Art of War in Middle Ages)” において、防衛ラインは地図から見て後方に位置し、都市寄りに展開していると述べる。しかしプロコピウスのハーバード版、およびゴールズワージー(ローマ史家)、グレートレックス(ローマ、ペルシア史家)はことごとく、防衛ラインはペルシアの戦線に向かって広がっていた、と記している。
防衛ラインの主立った箇所が市壁から「近距離」であったとするならば、ベリサリウスの護衛騎兵たちが塹壕エリアを拒んだのと同様、歩兵たちもまたその命令を受諾したことは全くあり得そうになく思われる。そうすることは確かに最も歩兵隊と騎兵隊という二つのセクションを整然と結びつけたであろうが、そのどちらかが欠けた場合について高名なプロコピウスは気づき、だから市街から離れたペルシア前線と主張したのかも知れない。ペルシア軍の戦力はペローズ・マルハーンの指揮統率能力により初手で40000人に達し、彼は自信に満ちてダラに進行した。彼は言う「準備ができ次第ベリサリウスに大損害を与えて見せよう、彼が無事次の日を迎えることを望むように打ち破って見せよう」と。
彼はローマ軍を偵察して、ローマ兵が戦いの準備を整え整然としているのを見たところで、思い上がりをただした。彼はローマ軍と同様、歩兵隊と騎兵隊を側翼に配した。その数は不明であるが、不滅の人(イモータル)”と言われる精鋭部隊は予備兵として配置外に置かれた。それ以外のものは前後の部隊に分けて配置された。主導部隊が損害を蒙る、あるいは武器を使い果たした場合に、後方の部隊が車懸りに回転して入れ替わることが出来た。そのように戦備を整えた上で、ペローズはローマの騎兵隊を探査した。彼らは遅れてローマ人を発見した。ローマ人は偽装退却によってパルティア人をひきつけ、一見したところでは明らかにペルシア軍優位であったから、ペローズは欺かれて大いに歓び、微塵もこの戦いに敗北の懸念を持たなかった。だからペルシア人は大規模な追撃より、むしろもっと心理的な術策を試みた。両者の軍からそれぞれ優れた闘士を選出して、一対一の介入無しの勝負を行ったのだが、ボーズの、騎兵指揮官ではなく非戦闘員に過ぎない介添人のレスリング・インストラクターが二人のペルシア人闘士を打ち負かすと、ペルシア人は大いに落胆した。
かくてペローズは市外で戦闘することになる。ペルシア人はわずかに2マイル離れたアモディウスの自軍キャンプに退き、翌日、間諜のやりとりによりペルシアの部隊が10000人強化されたことをニシビスでベリサリウスは知った。ベリサリウスとヘルモゲネス、そしてダラの民間の知事は、困難に対して固い決意で和平を申し出、両国の王は平和を切望しているはずだと主張し交渉人の手を取った。ペローズは戦闘の意味を見いだせず和平を模索し、ベリサリウスは大いなる祝福と平和を断言して「常にあなたはペルシアの責任者としてあられるが、このまままでは十中八九大災害の通過をやり過ごすことは出来ないであろう」と言って戦闘の回避を強く促した。が、ペローズの返書はローマ側にペルシアの誠実を疑わせるものだった。
ローマとペルシア、双方の神の名のもとに、祈りの文言が返答として返された。ペローズはベリサリウスに、市内における夕食と沐浴を期待すると述べた。3日後、それぞれの指揮官は彼らの軍隊にふさわしい言葉で士気を高めるべく自らの軍に語りかけ、それぞれダラの市壁の外に整列し展開した。ヘルールの指揮官ファラスはそれとなく、ベリサリウスに彼のユニットを左翼最端に置き、そして丘の後ろに隠れる形で騎兵300を配置することを進言した。これは彼らが敵に対する最大の戦果を挙げると共に、伏兵となる騎兵300はペルシアの騎兵隊に対する奇襲攻撃要員として効果を発揮するであろう。ベリサリウスはこの意見に対し素早く断を下し、同意した。
軍隊は遂に互いと対峙したが、すぐには何も起らなかった。ゴールズワージーが観察するように、「ローマ軍の布陣が正面攻撃を受け止めるように形成された。しかる後、ダラの市壁が互いに近くある状態で、彼らが市を占領することを望んだのであるならば、その瞬間に攻撃を仕掛けるのがペローズに開かれた唯一最大の選択肢であった。」
ためにベリサリウスは待ちに出る以外なにもしようとはしなかった。そしてペローズはローマ人がミスをして少なくとも正午まで食事を延期することを望んだ(通常ムスリムはこの時間に食事を摂ったので)。一見この時間感覚のズレはさしたる影響をもたらすことはなかった。戦争はあくまでサイドにおける矢の応酬に留まり、しかも目に見える所ではほとんど行われなかった。プロコピウスは中央のどんな戦いについても言及していない。ペルシア人は前後の兵をローテーションさせることで新たな射手を繰り出し、相対的な数でアドバンテージを得た。プロコピウスはテルモピレーの戦いに立ち返って矢が空を暗くしたと述べるが、実のところローマ軍の後方から追い風が吹いたためローマの損害はそれほど大きくならずに済んだ。ペルシア人は射撃の合間合間に突進して来た。プロコピウスが描くには、矢が放たれるや「彼らは互いに対してそれぞれの槍を使い始めた。戦いはいよいよ苛烈を増し始めた」。
ローマ人はまもなく峻厳で容赦ない攻撃の中に彼ら自身を見いだした。対抗者はペルシア人ではなく、より苛烈で好戦的な種族、ベス・アラベイ出身のカディシャヤであった。彼らはダラーニシビス区域の南100キロメートルの地域に接近していた。この原始的ペルシア人の前進は、しかしながらプロコピウスによればヘルールの指揮官ファラスが、彼自身を含めた彼のヘルールの「敵の後背を得て素晴らしい偉業的勇猛を発揮した」ことによって阻んだことになっている。左翼フン族のユニットが戦闘に参加し、カディシャヤたちは自らが囲まれ虐殺されつあるのに気づいた。3000人が死に、残余はペルシアの歩兵隊の防衛ライン後方に逃れて消え失せた。
この間、ペローズはペルシアの最精鋭、“不滅の人(イモータル)”たちを温存していた。ベリサリウスはこれを見て左翼フン族のサニカスおよびアイガンに急ぎ戦場の反対側に向かうよう命じた。彼らは右翼のフン族、シマスとアスカンに合流した。彼らはやる気十分で後退すると敵を確認して攻撃を始めた。この攻撃が勢いを増したとき、ペローズは翼の騎兵を前方に出し、ついに“不滅の人”を投入した。
他の突撃同様、これもまたいくつかの速戦の成功を得て、ローマ騎兵隊は退いた。騎兵隊の撤退、これに集中して、ササン朝の軍はフン族による横撃への備えを忘れていた。フン族の騎兵は単純な突撃をササン朝に打ち込んだが、しかし経験から彼らはこれを分散させず集中させた。この時点で後退していたローマ軍はストップし、急速転身して高まった攻撃力を叩き付け、半ば敵を屈せしめた。ベリサリウスとヘルモゲネスが温存していた騎兵隊に重きをなすようになると、戦闘はいっそう混沌として乱闘に変わった。
サニカスは“イモータル”の騎手とその地位高い指揮官バラサマスを殺した。「この蛮族は大いなる恐れに捕らえられたが、結果として短慮からくる反抗心により完全な混乱の中に死んだ」とプロコピウスは書く。さらに「そして、ローマ軍は円陣を成し、その周囲の敵およそ5000を殺した」。多角的な打撃により、リーダー不在のササン朝騎兵隊は半ば以上潰滅した。
騎兵隊が後方に流れたことで歩兵隊もまたほぼ潰滅し、潰走した。ベリサリウスは追撃を試みるよりむしろそれを制止し、おかげでペルシア軍は全滅を免れた。ベリサリウスは追い詰められた軍が絶望的に捨て鉢に戦ってしばしば窮鼠猫を噛む事を知っており、だから彼は殲滅戦の代わりに明確な勝利を勝ち得たことで満足した。ベリサリウスの軍隊はこの勝利によっておおいに士気あがった。
この時点までに議されたすべての戦闘は攻撃側の勝利で終わった。が、ダラの戦いで最終的に敵を蹴散らしたのは防衛力であった。ベリサリウスは彼に許された時間の中で、その能力を軍隊をかき集めるだけでなく、和平交渉のためにも使ったが、結局和平はあり得ないと言うことで彼は覚悟を決めた。彼の前面には深い溝があり、敵は正面攻撃のたび失望して落胆した。ペローズの精神は彼の軍隊を激励したけれど、正面攻撃に出る気概はなく、側面攻撃に望みを託した。
ペルシア軍は当初ローマ軍に二倍する兵力を持っていたから、軍隊を分割したとところでペローズはそれが趨勢に影響を及ぼすとは思わなかった。深い溝は人工の障害としてベリサリウスにササン朝の攻撃ルートを絞ることを可能ならしめた。そして彼は-彼の歩兵隊の水準が低くセキュリティがまた低かったならば不可能だった-いくつかの集団突撃作戦を立案した。ベリサリウスがこのとき見せた質量の集中は、この戦闘において最も注目すべきところであった。彼は彼の中軍のフン族騎兵を、ササン朝の騎兵隊の突撃に対抗するため、両翼にいくらか動かした。
彼は隠蔽と遮蔽を利用し、左翼丘上、ヘルールの後方に布陣した。効果は証明された。わずかな高地から発したアタッカーによる攻撃は、ベリサリウスのアドバンテージであったと記録される。彼は“イモータル”らの移動方向を観察して、攻撃を受けるポジションをコントロールし、彼個人のブセラーリを最終的な逆襲のために温存し、ブセラーリとフン族騎兵を入れ替える時間を作った。彼の軍は市門にほど近い狭い地域にポジショニングして両翼を厳重に保護されており、ササン朝騎兵隊の攻撃も後退も、あらゆる行動はこの前に大きく制限された。
その軍の過半を失ったことは、ペローズとそして国王カヴァードに衝撃を与えた。さらに悪いことに、北方の補助的な戦線が破られた。一時的ながら明らかに、ローマ人は国境のこの戦線において優位を手にした。数ヶ月後、カヴァードはアラブの同盟国アマンダのアドバイスを受けて、領土を割譲する。マハンは「アマイダかニシビスか、どちらにせよ彼は打ち負かされ避けるべくもなく追い詰められた。ローマの領土が初めてシリア側を侵略した」と記す。
ここで彼は思いがけない行動を取り、そしてそれ故に彼の行動を予測することは容易となった。彼はアンティオキアの修復を望んだのかも知れず、その豪奢な夢が、魅惑が彼に防備を忘れさせた。531年初頭、カヴァードは15000の騎兵を西方のアザレシス指揮下の軍に送ってアンティオキア南100マイルのガブーラに到着した。警告と恐怖はこのとき引き起こされた。ベリサリウスは20000人の兵でアザレシスの行動をカットすべく出陣して、残余の2000人(地元の新兵と経験の浅い軍人を含む)でより巨大な兵力を持つがしかしベテラン兵の去ったササン朝の後背を侵略せしめた。
アザレシスはベリサリウスの行動を知るやすぐさま撤退を始めた。ベリサリウスはそれを追い、一日中後背につけた。彼は彼の、潜在的な強さを期待できない兵を用いるより、戦闘の危険を経ずして敵を駆逐する方を選んだ。しかしながら、プロコピウスに因れば、ベリサリウスは彼自身と部下の軍すべてを支配する攻撃性を認めて許したという。のちに彼はこの戦闘の愚かさについて演説したが、広大な東方を迅速に行軍したことについて、軍隊は「最初から最後まで、静かにも、またひっそりとも、彼に陰口をたたく者はなかった。しかし彼らは招かれ出席したベリサリウスに、堂々と弱者であるといい、臆病者であるといい、そして彼らの情熱の破壊者であると叫んだ。多くの将官さえもがこの士卒に連なった。なぜならこの戦闘は彼らの実力を発揮して満足させるものではなかったからである」
ベリサリウスは最終的に兵たちの要求に屈し、ユーフラテス川右手の土手に沿うカリニクムの町に打って出た。プロコピウスは戦闘は困難であったとのみ記す。多大な損害が双方の弓手から互いの軍に与えられ、ベリサリウス麾下の軍は今度こそしっかりと戦ったが、日暮れ、ペルシア軍に同盟者たるサラセン騎兵が合流し、攻撃して、ローマ右翼を叩き、撤退するローマ軍を突破した。
ベリサリウスは歩兵を指揮し、それは長い時間持ちこたえた。しかしペルシア軍はさらに両翼から攻撃を加え、彼は遂に残余の兵を率いて河を渡り安全を確保した。ジョン・マララスはしかし、異なった見解から異なった記述をする。「サラセン軍が逃げるのを見て、彼らは彼ら自身ユーフラテス川を渡河できると確信した。ベリサリオス[原文ママ]はどんな出来事が起ったのか見ると、彼一流の基準に従ってボートを手に入れ、ユーフラテス川を横断してカリニクムに到達した。軍は彼の後に従った。ある人はボートを使い、ある人は馬と一緒に泳ごうとした。そして河は彼らの死体で満ちた」
マララスは二人の士官が戦闘から退却する軍隊を救い、彼らが、昏くなるまでペルシア軍を押さえて戦ったと断言する。が、どこに真実が眠っているとしても、この戦いはローマの敗北であった。
しかしながら、これは事態全体で見た場合重要な意味のほとんどない戦いであった。なぜならカヴァードはほどなく崩じ、彼の後継者ホスローは王位に就くやすぐさま和平交渉を継承したので。ミトレーンのザッカリアは「ベリサリウスはタンヌリスおよびユーフラテスでペルシアから受けたローマ軍の大損害と壊滅的敗走のとがで皇帝から罪を受け、指揮官を免職されて皇帝の元に戻った」と報告する。
彼はコンスタンティノープルに呼び戻され、彼の敗北に対する罰として、北アフリカのヴァンダル族征伐の準備を任されたが、しかしこの敗北は、のちになればベリサリウスの人生上最後の敗北であったが。532年、ベリサリウスはユスティニアヌスに反抗する巨大な国内の叛乱、ニカの暴動を鎮圧することによって、ユスティニアヌスの心証を勝ち得ようとした。
続く年、彼はカルタゴへの遠征とヴァンダル帝国への挑戦のため、ユスティニアヌスの創立した基本戦略を彼の知る古きローマ帝国のが可能とした規範に則させた。二つの有名な戦闘、デシミウムとトリカメロンがあった。いずれも騎兵が主体となって戦い、歩兵はその近くに布陣したが直接戦闘に参加することはなかった。どちらにしてもここで論ぜられることではない。敗北したヴァンダル族の王・僭主ゲリメルは才能にも指導力にも乏しかった。もし有能な王が存在したならば、ベリサリウスの忍耐と困難な闘争によっても、勝利を得ることは不可能であったろう。
これは必ずしも祝福されるべき事ではなかったが、これは確かにベリサリウスの評判を回復させるのを助けた。ベリサリウスが彼が直面した大敵より寡兵で勝利を勝ち取ったことにより、彼の兵士たちは大いに自信をつけ、自らの将官に信頼を寄せた。それと同時に、彼はユスティニアヌスの注目を受けるに至る。彼はベリサリウスがヴァンダルという大帝国を転覆させたのを契機に、この時点から、より一層困難な任務をベリサリウスに与えるようになる。それもますます過小な兵で。
ベリサリウスの名声はその成功によるものであり、それはもろい麦わら作りのよ
うな薄っぺらいものではなかった。しかし彼は決して彼の仕える皇帝の妄執性が自分を標的に重ねると考えることが無かった。それ故後になって彼はユスティニアヌスの猜疑にあい貶められるが、なおその忠義が損なわれることはなかった。
ゴート戦争
ビザンツ帝国はそれまでしばらく、イタリアに置かれる東ゲルマン系のゴート族、オストロゴス(東ゴート)とは良好な関係を築いていた。493年、オドアケルを破るためにイタリアを攻撃したとき、東ローマ帝国はすでにゴート人国王、テオドリックを支援していた。いったんラヴェンナで即位すると、テオドリックはオストロゴスの王としてだけではなく東ローマ皇帝として振る舞い、裁決するようになった。イタリアの少数民族のうちゴート派はローマ官僚とともに働き、成功を収めた。
テオドリックは彼自身の民とローマ人を明確に区別したが、しかし彼はオストロゴス自体の精神的レベルと規範の向上をめざした。「副王の職(viceroyalty)」はイタリア全体、そしてパンノニアに浸透していた。しかし不幸ながら、偉大な王の後継者がまた偉大であることは少ない。テオドリックのただ一人の娘アマラスウィンタを残して死んだ。アマラスウィンタの最初の夫は息子アラリックを後に残して死んだ。アマラスウィンタは自ら非常に有能であると思い込み、若い息子の摂政として振る舞ったが、ゴート族の伝統は女王が最高支配者であることをよしとしなかった。ユスティニアヌスはその統治の初期段階ですでにテオドリックとの関係を強固に史用と考えていたが、しかし彼はまもなくゴート族によって形を変えたキリスト教・アリアニズムを含む、キリスト教異端派を迫害し始めた。
526年テオドリックが死んだとき、宗教的迫害と王国の継承者問題はゴート族の住民を悩ませた。アマラスウィンタはユスティニアヌスとの間に誠心をもった関係を求め、そしてシシリアの麓の使用を無料で許可し、北アフリカのヴァンダル族に対するユスティニアヌスの戦争を援助したが、彼女の摂政期間はアラリックが死ぬと同時に終わった。アマラスウィンタは自身の王威の後ろ盾にヴァンダル族のテオダハットと2度目の婚姻を求めた。テオダハットは婚姻に同意したが、その後彼女の権威を覆して数ヶ月(535年4月)の内に彼女を殺した。
ユスティニアヌスはアマラスウィンタ殺害を名目としてイタリアに軍隊を入れた。テオダハットは国王を辞任してユスティニアヌスに忠誠を誓うなら無事に過ごすことが出来たが、それ以外の方途はすべて戦争しかなかった。当然ながらテオダハットは平伏しなかったので、ベリサリウスがイタリア戦役に担ぎ出されることになる。
ゴート人の軍
かつて376年、西ゴート族とともにアドリアノープルの戦いで勝ちを収めたオストロゴスは自身の装備と戦術に非常に満足していたので、ベリサリウスのイタリア遠征の時までほんの少ししか進歩していなかった。軍の大半は騎兵、それも重装騎兵で構成された。ゴート族の兵士は首と頬から下方、少なくとも膝までを覆う皮革あるいは金属製のスーツアーマーを身につけ、ヘルメットをかぶった。彼らは非常に長い槍、ペナントが取り付けられた手槍を振り回した。そして彼らが馬に跨がったとき、あるいは馬から下りたときには、副次的な武器として剣と小型の盾を運用した。戦士は装甲馬に乗り、そして長槍を構えてギャロップ(馬の最も早い駆け足)で突進した。そしてテオドリックはすでに早くも歩兵隊の役割を波及させはじめていた。それはやはりマイナーなままで終わったが、オストロゴスの弓手は歩兵であった。彼らはローマの弓手より広い範囲に布陣したが、防御態勢というものを学ぶことがなかった。騎兵隊が彼らの前に布陣したが、それは歩兵を騎兵が守るという概念よりむしろ矢の保護のためであった。ゴート族の戦術にに多少の変化はあったけれども、彼らの登場からこの時点に至るまで、戦争の技術的様相が大きく変わることはなかった。
オストロゴスはローマ様式の中古の剣を店で売買し、あるいはきわめて酷似した製法で自ら作り出した。ローマ人への露出が、テオドリックの治世下ですでに彼らの戦闘法と命令形態を変容させていた。オストロゴスは彼ら自身の伝統をもとに、蛮性の上に組織的強さを形勢しつつあった。しかし彼らが模範としたのは皮肉にもローマのそれで、しかも副次的な部分に留まった。彼らの戦術はただ基本的戦術目標が設定されているばかりで、あとは騎兵突撃の連続があるばかりであった。突撃が失敗した場合に備えて馬が潤沢に備えられ、援護攻撃のための軍備補強の用意を調えてはいたが、ゴート族の戦術の主たる要素は一撃離脱による痛打、待ち構えて一気に歩兵隊を屠る電光石火の一撃であった。
しかしゴート族にとって不幸なことに、攻囲戦の間に待ち伏せを決めることは困難であった。そのために、彼らがほとんど技能を持たなかった城壁登攀に関して、練度の低い歩兵に頼るか、騎兵を活用するためにはあえてビザンツ側の突撃を待ち受けてから逆撃せねばならなかった。
チャプター.3
ローマ攻囲戦-The Siege of Rome
ユスティニアヌスはベリサリウスを536年、4000余名のビザンツ兵とフォデラーリ(非正規兵、傭兵)、3000のイサウリア兵と200のフン族騎兵と300のムーア人、それにベリサリウス自身のブセラーリ(正規のエリート護衛官)と一緒にシシリーに送った。
この小部隊がイタリアのすべてを征服しゴート族の境界を脅かすためにユスティニアヌスが動員した兵力のほとんどすべてであった。ムンダスにはイリリクムで(東アドリア海沿岸沿いをやってくる)ビザンツ軍に呼応してダルマティアを侵略する命が与えられた。
これら二つの軍隊はフランク人とガリア人とゴート人、三者の同盟に脅威を与えた。それはゴートの国王の心に恐れと衝撃を植え付けるに十分であった。ベリサリウスのシシリー早期奪取は彼らをパニックに陥らせた。ギボンはテオダハットについて「英雄競争からは脱落した人物であった。彼は芸術の擁護者であり、戦争の危険を嫌った」と描く。
彼は急ぎユスティニアヌスに公使を送り、和平交渉に入ると、彼の王権の保持が認められるならイタリアは帝国に盲従する用意があると条約に署名した。ついで突きつけられた条約は巨額の年金と引き替えに引退することであり、ユスティニアヌスはテオダハットに王位を許さず退位を強要した。テオダハットはやむなくこれにも同意したが、ダルマティアに進軍してくるビザンツ軍が敗北したのを知ると態度を一変させ、退位を拒否した。
彼は出来うることなら財産をもって逃走すべきであった。しかしその代わり、彼はフランク人たちにたっぷりわいろを送って、今行使すべきは唯一軍隊のみと主張した。536年春、ベリサリウスはまだシシリー征服を成していなかったが、しかしその間カルタゴに迅速な懲罰の一撃を加えていた。パレルモの小さな駐屯基地を去り、そして北方に軍を進めた。彼の最初の対戦相手はナポリ市であった。ナポリ市民はベリサリウスと交渉を望んだが、彼らはローマ人とゴート人のどちらにつくべきか計りかねていた。ゴート族はすでに何十年とイタリアを支配しており、そしてほととんどイタリア人の慣習に干渉しなかったから彼らが悩むのも無理からぬ事ではあった。
他方、ビザンツ帝国軍はゴート族よりローマ的と言うよりギリシア的に誇張され、本当の意味で市民の安全を守ることに興味が無かった。ナポリ人はベリサリウスにナポリを避けローマに向かって前進するよう提案した。しかしベリサリウスは大都市でありゴートの駐屯地でもあるナポリを素通りすることが出来なかった。ベリサリウスは麾下の兵に攻囲戦を命じたが、20日間の間時間と費用を空費した。しかし最終的に年への隠し通路が発見されて、ナポリは陥落した。
彼は駐留部隊を置いて前進した。ローマに進軍したのはおそらく5000人程度だったと思われる。ナポリが失われ、そしてダルマティアが再び攻撃を受けたという報せに、テオダハットは逃走した。
ゴート人はテオダハットの利己主義とうろたえぶりに驚かなかった。もとより多くを期待していなかったからである。536年11月、ゴートの戦士の集団がテオダハットを王位から退かせた。彼以外に王室関係者はいなかったから、ウィチゲスと言う名の、若干の経験を積んだ軍人が選ばれて即位を宣言した。ふりかえってみればもっとよい選択があったはずだが、しかしウィチゲスは選ばれ、テオダハットの治績の上に改良を加えた。
ウィチゲスは聡明であり、軍人というよりむしろスマートな政治家的行動を取った。彼はローマに4000人の駐留部隊を残すと、首都ラヴェンナに残余の軍を移した。そして彼は彼の王位の正当性のためにテオドリックの孫娘、マタスンタと強制的に結婚した。一方、ローマは取るべき手を変えていた。ナポリの二の舞を怖れたローマ市民は、永遠の都の市門をベリサリウスの前に開いた。536年12月9日のことである。
現地の応援を失い、ゴート族の兵は逃げ出した。しかしながら、ローマ市民は彼らのかつての管理人(東ローマ、あるいはビザンツ帝国)の到来に対して熱狂的ではなかった。マハン卿が記述するように「臆病はすべてを雄弁に物語る。彼らの代表者は膨大な市壁の維持管理について不可能であると、ベリサリウスにローマの要塞化計画を思いとどまらせるよう説得した。彼らは内陸の都地を保つには海洋からの補給無しでは限界があり、そして現在のローマ市のレベルを見るに自然の防衛的アドバンテージがなく、防衛には向かないと力説した」
ベリサリウスは真摯に受け止めたが、要塞化を止めることはなかった。市壁を復元させ、穀倉地帯のシシリーの現地民に、船で収穫物を輸送させるよう義務づけた。若干の守備隊が置かれ、あるいはゴート族が無防備なまま去って行った都市から兵と物資を集めて、南方および東方の田舎方面にばらまいた。彼は同時に、ウィチゲスの行軍を遅らせるべく北方の要塞に兵を送った。ウィチゲスは道中にあってダルマティアのビザンツ軍と拮抗していたが、ベリサリウスの軍の規模の小ささに勇気づけられ、彼はローマ攻撃を決め、ローマに猛進した。ベリサリウスが先だって北に送っていた軍隊はローマに逃げ戻るか、あるいはゴート族の軍隊から隔絶するために彼ら自身を要塞内に封鎖するかした。プロコピウスに因ればゴート族の兵は150000人であったというが、これはさすがに誇張であろう。現代史家のほとんどはこの数字を支持していない。一桁落として15000が現実的な数字に思われる。アーネスト・デュプイとトレヴァー・デュプイは50000人説を主張するが、どちらにせよベリサリウスに対して圧倒的に大軍であったと言えば十分である。しかしながら、ゴート族の数はその全体量に比して比較的少なかった。なぜなら彼らは市の北半分を包囲しただけであったからである。スポレントとナルニおよびペルージャを掌握することにより、ベリサリウスはウィチゲスにローマに殺到せざるをえないよう強制した。ベリサリウスはただ単に堀を深くするだけでなく、外堀をも掘って的を待ち構えた。また彼はゴート族が渡ってくるであろう橋を防衛するため、塔を建てて弓手を置いた。
この橋は一般にミリヴァン橋だと記述されるが、もしかするとこれは今日テベロンとして知られるアニオ川内側のもう一つの橋であったかも知れない。プロコピウスは二つの川を両方記述している。要塞は橋を守るのに十分すぎる堅牢を誇ったが、しかしディフェンダーたちの精神は不屈たり得ず、彼らは戦うよりむしろ急いで逃げた。そして数日間の間に必要な準備が失われた。戦闘は予想より早く起り、要塞橋が危うく陥落しかけたので、ベリサリウスは1000人の騎兵隊を偵察と哨戒に繰り出した。彼らはゴート族の軍容に驚き、そして過酷な戦術的撤退を繰り広げた。要塞を放棄した裏切り者の一人が、ベリサリウスは際だって白い馬に乗っていることをゴートの兵に教えた。
それはゴート兵にとって巨大な栄光を勝ち取るための情報であり、彼らの軍の大半がローマの指揮官(ベリサリウス)に向けられた。ベリサリウスと彼のブセラーリは激しい乱闘のるつぼに叩き込まれた。彼らは市門に向かって後退したが、市門は閉鎖されていた。ベリサリウスは死んだという噂が広がり、市民は彼を見捨てた。やむにやまれぬ状況に直面して、ベリサリウスは意外な行動に出た。彼は突撃命令を下した。方向転換はきわめて唐突で、そして野蛮なほど暴力的であったから、ゴート族は新たな増援が門内から投入されたに違いないと思い込んだ。彼らは怖れてキャンプに引っ込み、生き残ったローマ人と彼らの指揮官はようやくにして市内に撤退を果たした。
ウィチゲスは使者を送ってローマ市民に裏切りを促し、ベリサリウスとビザンツ軍をしつこく悩まし、しかるのち攻囲戦の開始を命じる。ゴート族はそれぞれ少なくとも一つの門を塞ぐように配置され、戦線をティベレ川の東の土手いっぱい、ポルタとフラミニア周辺まで広げて、ティブルトゥーナとプラエナスティーナの最も東の門まで、6つの野営地を築いた。
のち、彼らはティベレ川の西、ヴァチカンの丘にほど近いネロ大学の上に備えを置く。プロコピウスが書くには「ゴート族は彼らすべての野営地に深く穴を掘り、地上に胎土を山盛りにした。そして彼らは彼らの溝の中から外に向けて非常に高い土手を作り、先端の鋭く尖った危険な巨木を並べた。彼らはそれをすべての野営地で行い、劣った要塞を強化する方法とした」と。
ウィチゲスは同時に年に水源を供給する水道橋を破壊するよう命じた。防衛するローマ側にとって、ティベレ川と井戸からはまだ水を引き出すことが可能であり、水は充足していたが、水道橋への流水は弱まり脱穀工場としての力を失いつつあった。それゆえにティベレ川が新しい脱穀工場となり、穀物あるかぎり脱穀を続けた。この間ベリサリウスはそれぞれの市門に兵を配し、市民の中から兵を募って彼の軍中に階級を設けた。わずかな、もっと先進的なローマ人は、自ら危険に対する防備の任についた。
彼はそれぞれの門の指揮官に市内におけるあらゆる地域での報告を無視するよう命じた。それらの報告は兵士たちの立場を危険にさらし、また噂以外の何物でも無い可能性もあったから、士卒を援護するため継続的にに必要な措置だった。
都市から不満故に脱走する兵が出てたのをみて、これに情報を得たウィチゲスはビザンツ側に公使を送った。要求はローマ市内におけるゴート族の交通安全の保証であったが、ベリサリウスの態度は素っ気なかった。彼は使者の来訪を予測していた。「貴公とその兵はいずれ薊(ヨーロッパでは門前に植える。故に門前の意)に隠れるのを望むようになるであろうが、しかしいかに上手く隠れても我々は貴公を見つけ出すであろう。そして貴公らの誰もが日の出に希望を見いだす前に、ローマは貴公らを蹉跌させ、裁くであろう。ベリサリウス健在であるかぎり、この町を放棄することはいつまで経ってもあり得ない」
ウィチゲスはしかし堅い攻囲の決意をもって、襲撃のための武器を構築しはじめた。攻囲開始から三週間で彼の突撃兵器、車輪つきの防護された塔は、羊を虐殺するかのようにローマを滅多打ちにした。ウィチゲスはさらに同時に大量の梯子をまとめて溝を埋め、一気に渡らせるべく下知した。ベリサリウスはこのとき、ウィチゲスの活発な行動同様、彼自身の不可欠な作戦のために時間を割いていた。
市壁前方に置かれた多くのバリスタ(据え付け式の大型の弩)とカタパルト(投石機)が発射された。しかし弓矢やボルトが装甲を貫通するためには、有効射程の2倍の距離があった。市壁の内側にはさらに追加の装甲があり、市の底部にはよりあわされたロープがねじられ、混み合わされて、地位ある将官に守られていた。彼らはこれを後方および下方の相反する方向に引くことで岩を射出することが出来、常に高く遠く岩を発射することが出来た(後世の投石機は旋回軸とおもりを釣り合わせ様々のアクションによってようやく発射されたが、この原始的な投石機は取り回しが容易あった)。投石のタイミングは精妙であり、敵に大損害を与えることはともかくバリスタを破壊した。バリスタを破壊されたウィチゲスは3月21日、新たな彼の武具を持ち出した。
ディフェンダーの多く(主に文民)は恐怖していた。しかしベリサリウスは笑い、彼らにユーモアを示す余裕すら見せた。彼は射手に彼が号令するまで射撃を待たせ、充分に引きつけてから射たせた。ベリサリウスの指揮下で矢は羊に襲いかかる雄牛のように圧倒的に命中した。それから彼は自ら矢を放ち、一撃の下にゴート族の士官ののど笛を貫いた。さらにもう一矢を放ち、同一の結果を後に続かせた。
続けて、大量の矢が進軍してくる敵に飛んでいったベリサリウスは彼に近接した射手に、砲火を雄牛のごとく集中させるよう命じた。そして同時に、市壁遠くの羊たちを逃さず釘付けにするようにした。
ウィチゲスが軍を射手の後方に隠し絶え間ない砲火から身を守るよう命令を下したとき、ベリサリウスはポルタ・パラエンスティナと呼ばれる市門からの攻撃を指揮した。その間に、第三の力がネロ平原から皇帝ハドリアヌスの墓地を超えて攻撃を加えた。
そこの市壁はベリサリウスが既に格別にしていたほど堅牢であり、ここからの攻撃はありえないと思われた。だが墓地をガードする小部隊がポルタ・コルネリアに抜け目なく布陣していた。ゴート人は大きな盾で矢から身を守り、市壁を強襲して梯子を登ることで、まもなくここを占拠した。
しかしディフェンダーたちは彼ら自身をゴート族の前進に身をさらす前にこれを打ち落とした。彼らは周囲を見渡して墓の周りに転がる大理石の像に気づき、これを砕いてブロックにし投げつけた。まもなく彼らは全員市壁を離れ、ゴート族にブロックの放火を喰らわせた。
突撃から市を守った一握りのディフェンダーに対してベリサリウスは悪意のない皮肉をかけると、命令を下し、各市門を開いてしばらくの間ゴート族を攻撃し打ち散らかした。逃げ遅れ見捨てられた彼らがローマのキャンプに逆襲の突撃を仕掛けてくると、「ベリサリウスはその闘志を焼却して根絶やしにするという命令を下した。炎はうずたかく上昇し、敵に巨大な驚きと失望を与えた」とプロコピウスは描く。「その日はまさにローマ攻囲戦における退屈で怠惰な封鎖からの急転、ゴートの喪失と驚きの始まりであった」とギボンは描く。
この時点においてベリサリウスはユスティニアヌスに増援要請の手紙を送った。しばらくの、彼を飾った成功の間に、彼が今後勝利を勝ち得続けたとしたらどうなるであろうか、とベリサリウスは皇帝に対して婉曲に若干のプレッシャーをかけた。彼はユスティニアヌスに「ローマ史上未だ嘗て、何万の兵を以てしても一度たりと不可能であったことを私が成したことを思い起こしください。また、今現在ローマ人はビザンツに向かって気前よく振る舞っておりますが、しかし彼らの問題がさらに長期化したとき、彼らは自身にとってよりよい道を選び取るのをためらわないであろうことをご存念ください。 そしていかに統御しても、いつかローマ市民は私をこの市から追い出すでしょう。私は陛下にベリサリウスが終わりを全うせずして陛下のご威光を穢さぬよう請願いたします」
この手紙を受け取るやいなや、ユスティニアヌスは応答して増援軍を送った。しかし彼が送った増援軍はギリシアで悪天候によって行動を妨げられ、現地で冬を越すことを義務づけられた。この時点でベリサリウスはローマから副次的人員をナポリに送った。おそらく彼は彼の補給線を伸ばすべく急いで命令を下したと思われる。幸運なことに、彼らが南方に逃れたとき攻撃を受けることはなかった。彼は同様にムーア人の兵を送り、彼らに護衛させて食糧の供給を補い続けた。このときゴート族は自軍のキャンプに見張りを立てる以外、何もしなかった。
ムーア兵は補給を行うと同時に、ゴート族のパトロール兵を待ち伏せ、襲撃した。これは食糧の供給以外、直接ゴート族に打撃を与えることで、ローマの士気を高めるのに一役買った。ウィチゲスはこれに対して大軍を持ってポートゥスの町と港を攻撃し、籠城軍に訪れるはずだった海路からの援軍を否定した。ベリサリウスは港の敗北の重要であることを理解していたが、ただ彼の手元にはそれをカバーリングするだけの人的資源が存在しなかった。
ベリサリウスの手が届く最も近い港はアンティウムで、南方に一日の距離だった。ゴート族がポートゥスを得た3週間後、再度の攻囲が開始される前にコンスタンティノープルから緊急派遣された1600人の援軍(騎兵)をベリサリウスが受け入れたのはここからである。そして余剰人員を手に入れたベリサリウスは、彼の兵に怠けることを許さなかった。彼は騎兵隊を郊外の丘に送った。ゴート族の過半が彼らに突撃しようと集結したとき、ビザンツの軍は遠距離から矢を放ち、大ダメージをゴートのアタッカーに与えた。プロコピウスが書くに「彼らは密集する人だかりの中で詐に落ちた。彼らの最も成功したものですら兵や馬にぶつからないことはなかった」。騎兵隊は矢を使い果たすと、市門に登って追撃を避けた。「敵は要塞化された都市に近づいた。ローマの兵士たちは矢をもって彼らを射た。蛮族は怯え、追撃を断念した」
これらすべての要員が、一般市民に攻撃の参加を促した。彼らはベリサリウスに戦闘への参加を懇願した。プロコピウスが語るに、ベリサリウスは最終的に懇願に対して態度を軟化させた。それは彼が経たペルシアとのカリニクムの戦いに比べてよい判断であった。大惨事であるのはカリニクムと同様であったが、それは敵にとってであった。彼の騎兵隊の迅速な成功と共に、ベリサリウスは文民兵に密集陣形方陣-ファランクスを組ませてゴート族をネロの平原で圧倒させた。
不運にも、市民にとってキャンプの戦利品漁りが敵を追撃する以上に興味深かったので、ゴート族は兵力を再編して、そしてキャンプを取り戻してしまった。訓練されていない文民兵は戦利品のすべてを投げ捨てて都市に逃げたが、市門はゴート兵と激戦を繰り広げる友軍によって閉ざされていた。ベリサリウスと彼の騎兵隊は苦境を脱したが、戦いは引き分けよりややよい、あるいはなんとでも言える結果で終わった。夏、公使が兵に支払う俸給をもってコンスタンティノープルから到着した。
衛兵が町の南から到着した俸給を護衛している間、ベリサリウスは2つの北門から牽制攻撃を仕掛けた。それは一時的に都市の士気を上げたが、しかしまもなく市民は不平を上げるようになった。ベリサリウスにとって尽くしうるベストは援軍が途上まで来ているという約束を信じるのみであったが、それが訪れる気配はなかなか無かった。
秋、彼はより多くの軍卒を手に入れるため、ナポリにプロコピウスと、そして船と食糧を手に入れるために野心的だが有能な妻アントニーナを送った。一方で彼はゴート族が自軍同様に食糧難にあえいでいることに望みをかけた。ベリサリウスはゴート族の補給車両に強襲をかけ、そして町の境界沿いで彼らを脅迫した。
敵の補給路をインターセプトすることによって、彼は単にローマの状況を軽減するだけでなく「蛮族は彼らが思っているようにローマに押し寄せているのではなく、むしろ責め返されているように思われる」状況を作った。確かに、約束された援軍は到来した。3000人のイサウリア兵と800人のトラキア兵、そして1000人のビザンツ兵(すべて騎兵)である。それに加えてプロコピウスがかき集めてきた500人の兵士。アントニーナは艦隊と大型穀物店を押さえていた。補給部隊と騎兵隊は、ゴート族が占拠しているポントゥス港を避け、ティベレ川の向こうオスティアの港から、ローマに出発した。これが538年2月下旬あるいは3月上旬のことである。兵士と補給隊の双方がほぼ匹敵していることに学んで、ベリサリウスはひとつの有名な陽動作戦を発令した。
攻囲戦のあいだ中、ポルタ・フラミニアの市壁は石壁でふさがれていたが、ベリサリウスはここがゴート族のキャンプからの襲撃によって突破されないためにさらなる防備を行った。3月のある夜、門が通行可能になるまで、彼は取り除かれた石で門を塞ぎつづけ、まずまず満足した。翌朝、彼は千人の兵に命じてポルタ・ピンキアニア、ポルタ・フラミニアに向かわせた。彼らは最も近いゴートのキャンプに攻撃を命ぜられ、そして逆襲を受けると「自由に」逃げることを命ぜられた。彼らは命ぜられたとおりにした。ゴート族は激しく追撃したが、ベリサリウスは別軍に命じてポルタ・フラミニアを押し分けてゴート族の後背に出、背面攻撃させた。それに続くゴート族の混乱たるや甚大であり、ボルタ・ピンシアニアから現れる新たな部隊に追い立てられ、合算により恐慌はローマ軍によって増大させられた。
生き延びたわずかなゴート兵が彼らのキャンプに逃れ、そして以降出撃をためらった。これはローマ防衛の成功裏の終わりを齎した。ウィチゲスは食糧と物資の通過の自由および都市の強化を認め、三ヶ月の停戦を申し入れた。よりゴート族の陣地奥深くに攻め入ることを命ぜられたベリサリウスはゴート族をしつこく悩まし、最終的にウィチゲスは攻囲を断念してラヴェンナ防備のために逃走した。ベリサリウスは彼の時代における最優秀の野戦司令官であり、厳しい戦況における熟練の守り手であった。ローマ攻囲戦はほとんど単調なところがなく、そしてこの戦闘が彼のキャリアの最高潮であったことはほとんど衆目の一致するところである。
実際、ベリサリウスの行いのすべては正しいことのように思われた。彼は都市の市壁を修築し、そして彼の戦争のための武力を置き据えるとゴート族到着までの三ヶ月を過ごした。ゴート族はただ都市の片側に野営することにより、ベリサリウスに一面作戦を許した。彼は地元の兵を軍に混成させ、文民に兵士を見晴らせることで安全を拡大した。おかげで裏切りが出たとしても攻囲軍と共謀して都市を脅威に陥れるような重大な試みは行われなかった。
さらなる安全策としてベリサリウスは、ムーア人に市壁の外で騙されやすいゴート人を待ち伏せるようパトロールさせた。ベリサリウスはその間長らく攻囲からの防備に正確な判断を下し、それを維持し続けた。防衛における最強の局面はその行動性であり、ベリサリウスは敵が都市を攻撃したよりもなおいっそう、敵に攻撃をしかけた。この強襲と偽装退却はくりかえしおこなわれた。ローマの成功は文民の軍事投入だけではなかった。攻撃を受けるとき、困窮したとき、ベリサリウスは兵たちを市壁の各所に素早く移動させることが可能だったし、そしてその配置変換の権を自身の手に掌握することによって、彼は軍隊の団結を維持した。最終的に、ベリサリウスは波状突撃、あるいは市壁上からの矢の一斉掃射の前に敵を誘い込み、伏兵攻撃によってゴート族の戦力をほぼ潰滅させたわけだが、これは彼がいつも見せた戦術的柔軟性であった。
ベリサリウスの統率力-Belisarius’s Generalship
彼の軍隊は非常にけちでしかも猜疑深い皇帝ユスティニアヌスによって掣肘されたから、常に、ベリサリウスは寡兵であった。そして彼は彼が行ったほぼすべての戦いで勝利し、勝つ度毎に指揮する兵力は減っていった(ダラの戦いで25000、アフリカ遠征で15000、イタリア遠征に至っては7500)。ダラの戦いで彼は両翼に充分なディフェンダーを置いたが、両翼中心に機動力に富むフン族騎兵を置くことを忘れず、彼らを決定的攻撃力として使った。
ローマで、彼は人的資源を市門に集め、そして攻撃を受けている間だけ市壁に沿って軍を広げた。彼の歩兵弓手は壁に並んで配置されることが出来た。この戦術の最も素晴らしい点は、ベリサリウスが消耗を避けて彼の守備的軍隊に複合縦列を命じたこと、そしてゴートの国許からの補給線を断絶させたことにある。彼はこのように敵の注意の焦点を町から遠く離し、あるいは自身出陣して補助を為し敵の食糧供給を断たせた。彼は少数の騎兵隊を丘上に配置してゴート族を引き寄せ、そして矢の集中砲火によって攻撃したが、これは彼が苦しめられたよりずっと多くの死傷者を敵に与えた。
彼が市外での戦闘に一般市民を含めたとき、彼のこの唯一と言っていい行動原則は破られた。それでもその日の戦いで、妨害を受けながらも敵に大難を与えることができた。ベリサリウスの、指揮を行き渡らせる熟達の、そして最も模範的な手腕は、ローマ攻囲戦で迅速に発揮された。敵の侵入に伴い虚偽報告が広まると、ベリサリウスは分遣隊をそれぞれのポイントに配してそのような報告を無視するよう命じて対応した。彼は彼の副官たちが自分の利権を点から点へと移動させ、権益を私にしたことは彼自身の責任であると自ら認め、弁解しなかった。
すべて攻守に備えて計画を立てることはベリサリウスの後天的にして最も優れた才能であった。ダラの戦いの時点で彼は既に指揮統率のスペシャリストであったが、ただなぜかプロコピウスがヘルモゲネスに言及していることから、当時のベリサリウスがまだ若い男であっただけにヘルモゲネスの統制下にあったと推測できる。
彼は彼の能力から提案能力を示した。彼はこのヘルリ人の指揮官の発案に対し、彼の兵力を丘の後ろに置きペルシア騎兵の後方をカバーしてアドバンテージを得るという作戦を献策したが、不運にも入れられなかなかった。
そして彼の二つの敗北は彼自身の規範・原則を行使することの出来なかったときに限られた。カリニクムを経てそしてローマの大規模な戦闘で、プロコピウスはベリサリウスという屈服を知らないすぐれた判断力が、以前の軍人重視から文民重視に変わったという。
柔軟な精神は確かに美徳であった。指揮官が作戦を知り、しかるのち彼の兵士たちあるいは部下が何を考えるか、それを汲み取って兵たちの満足を満たす命令を与える指揮官は希有であった。ビザンツ帝国からペルシア人を追い出すのは彼の役割であったが、カリニクムに戦略的撤退した挙げ句、自発的にここに敵を引き込んだのは全く無用のことであった(しかしそれは兵士たちの闘争心の満足を満たすためには必要であったが)。ローマにあってベリサリウスが用いた作戦は、最小限の人的労力で大軍からローマ市を守るため、市壁を占拠し、そして巨大だが洗練されていない地元軍に士気と目的意識の優位というわずかなアドバンテージをもって戦うことであった。どちらのケースにおいても、ベリサリウスは当時の指揮の原則を無視して、大損害覚悟で事を行っている。それは(北アフリカでの彼の初勝利同様)、論じられた戦闘の双方にそれを制御する彼自身の能力が加味された結果の勝利であった。ダラでは優位な軍隊に対する両側面の騎兵伏撃、ローマではウィチゲスが繰り出した無数の攻撃の手を上回る防御手段で、彼は戦場をコントロールした。
彼は彼ら(ゴート族)を勝算のない状況に強制的に追い込むことによって、首尾一貫してゴート族を不利に置いた。市壁に対する執拗なゴート族の襲撃の間に、彼は多角的なポイントから攻撃に立ち向かうための人的資源を整えただけでなく、敵軍が後退を始めるとそれを追撃して、彼らの包囲攻撃機構を破壊するためにゴート族を何処までも追求した。これらの行動は常に、素早く顕著な打撃と、そして迅速な撤退の両輪により、つねに敵に面して正面の門から行われた。これを試みるとき、ベリサリウスは常にゴート族の騎兵隊を矢嵐の中に引きずり込む術策を用意しており、比較的少勢の騎兵隊は全く潰滅させられた。夜間の市門の無防備に対して公文書を発布し取り締まりを強化してその保全を強めただけでなく、大いに必要であるところの食料の輸入を成功させ、そしてゴート族を彼ら自身のキャンプに釘付けにした。
戦略的に、「敵の供給ラインをしつこく悩まし擾乱して、そして敵の町を攻撃する騎兵隊を派遣」する彼の術策は攻め立てられる攻囲者たちに非常に大きな不快感を呼び起こした。バジル・リデル・ハート曰く「ディフェンダーの緊張は激しかったけれども、包囲兵にとっての緊張は時として病気を起こし、命を縮めるほどであった。ベリサリウスは大胆にも包囲兵が供給を受ける道路を不意打ちし、ティボリとテラシナという二つの町を掌握して、彼の脆弱な勢力から2つの分遣隊を発する危険を冒した」
攻囲戦における主要なミス、というより、ベリサリウスの秀逸な点であるが、民間兵と一緒の時でさえ、ベリサリウスと彼の騎兵隊は速戦と即時撤退を可能とし、勝れた防衛能力により市民にほとんど損害を出さなかった。リデル・ハートはベリサリウスを防衛的攻撃戦術の練達と評し、「ベリサリウスは、彼が彼の戦術に敵したコンディションで、至当な兵力で戦う事を許されるのなら、より多く、より優れた相手を打ち破れたかも知れない。それほどに彼の戦術スタイルは当時斬新であり効果的であった。ただし、その大胆な戦術目標に対して彼には弱点があった。それは兵力という資産の欠如であった」という。
したがって、ベリサリウスの進歩的な戦略性は彼の敵の反応から引き起こされるものであった。戦場の上で次に敵がミスをするか、あるいは後退を始めるまで、彼は防御態勢を取るであろう。何世紀も後になってクラウゼヴィッツはこの原則を再び引用している。すなわち「ディフェンダーが重要性とアドバンテージを増した。実際の防御がその役割…攻撃を受け止めた瞬間に、攻撃ー報復の剣をひらめかせる-に唐突かつパワフルに移行する、それこそがディフェンダーの最も素晴らしい役割である」と。
ベリサリウスは彼の兵とその武装の強弱を熟知し、そしてそれを彼の対抗者の弱点を撃つために最大限利用した。これはローマで最も能く見られたが、ここで彼の馬弓手たちは槍と剣だけの武装のゴート人の重装騎兵隊を射撃によって打ち負かした。しかしながら彼らは、必要とあればうち捨てられた川の要塞の攻囲戦のはじめにそうしたように、一歩も引かずに白兵戦で戦うこともできた。戦闘の中心における彼の個人的指導力は、常に十二分に計算されていた。多くの兵を行動に入らせる前に、彼は状況判断に十分な時間を費やした。ベリサリウスはそういう意味で詐謀の練達であると言える。
彼のキャリアが進行していくにつれて、敵を騙す詐術は彼の作戦計画で重要性を増した。ダラとその周辺で彼が塹壕をフル活用したことと、ペルシア人の騎兵を分裂させたこと。彼は若い指揮官たちのために偉大な素質の萌芽を求めたが、彼らがベリサリウスから受け継いだのはベリサリウスが敵から学んだ技術に留まり、出藍の誉れが出ることはなかった。彼は一貫してゴート人を嫌い、待ち伏せとフェイントと電撃的一撃によってローマから遠ざけた。ベリサリウスの戦術的詐術は彼の知性と想像力の賜物だった。
ローマ攻囲戦ののち、ベリサリウスはラヴェンナまでずっとイタリア半島を掃き清め、有名なところではユスティニアヌスの寵臣ナルセスの軍事を手伝った。ナルセスは540年ゴート族の降服を受け入れて“永遠の平和”を結んだ。ベリサリウスがイタリアを去った後のことである。ベリサリウスはその後ペルシア戦線に投入されてホスローとの散発的な戦闘に着実に勝ち星を上げ、544年、ゴートの蜂起に対する鎮圧のためイタリアに戻った。彼がラヴェンナを包囲すると、ゴート族はローマ皇帝よりむしろベリサリウスに王位を譲らんと申し入れた。
ベリサリウスは市内に入るまで申し出を受けるポーズを取り、そしてウィチゲスと対面するや彼を捕虜とてユスティニアヌスと帝国の名の下に降伏調印書に署名させた。この申し出とそれに対する駆け引きは、しかしながらユスティニアヌスの妄執癖を喚起するのに充分だった。548年、ベリサリウスはコンスタンティノープルに呼び戻された。
その後ベリサリウスは不名誉の内に強制退職させられる。が、彼は559年、皇帝と首府がフン族に脅かされたときにこれを救い得た唯一の将官であった。もはや老境の身で、彼は8000の敵を相手に数百人を率いて、そしてほとんど奇跡的な勝利を勝ち得た。
多くの名将と言われる人がそうであるように、ベリサリウスも彼の対抗者の能力(の欠如)に恵まれていた。それでも、彼の最小の力で最大の戦果をあげての連戦連勝に関して、あら探しをすることは難しい。最先端の戦術の根幹が全身鎧に移ろうかという時期に、彼の軍は軽装であった。命令は簡潔だが作戦は繋がる糸のように連綿として、千変万化に敵将と敵軍を破らないことはなかった。はたして史上何人の指揮官がこれだれの業績を上げ、そして軍中に徳目を必要としただろうか?
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